第3章 秘密のニオイがする仕事
地下室での国際会議(1)
佳奈の前任者にあたる「松岡」という人間は、雑務的な事務処理から大使館との連絡調整、翻訳、通訳までを手広くやっていたらしい。語学専門職の枠で四年ほど前に入省したというその女性職員の申し送り内容は、高卒一般職で採用された佳奈の実力をはるかに超えるレベルだった。
入省初日、薄毛頭の職員人事管理室長は、佳奈の配置について「急な人事異動の穴埋め」だと言っていた。二年弱しかない「四大英文科在籍」という経歴だけで判断された結果なのだろうが、無理やり専門職ポストに放り込まれた佳奈にとっては、かなり迷惑な話だ。取りあえず、班の雑用をメインに、日本語でできる連絡業務と簡単な翻訳処理だけを担当することになったが、有能だったらしい前任者の影を感じると、どうしても憂鬱な溜息が出る。
「五月病かあ?」
大きな熊顔を寄せてくる月野輪に、佳奈は慌てて作り笑いを返した。
「そんなことないです。でも……」
気分が落ち込むのはやはり、新生活を始めた者がよくかかるという季節性うつ病のせいなのか。そう思ったらまた、ため息が出た。
「五月病なんてのは、走れば治る」
「そういうこと言うから『陸の奴は……』って言われんだぞ」
先任の追立が、シェパードのような目で熊を睨んだ。イヌワシ頭の荒神もそれに加勢した。
「特にこの時期、新人は疲れがたまる頃ですよ。レンジャー出身のヒトには想像しにくいでしょうがね」
「最近どうしたんですか、荒神3佐。優しい先輩ヅラして。セクハラ発言でもして、藍原さんに弱味を握られたとか」
「違っ……」
動転した荒神は、自分より年上の1等陸尉に声を荒げるわけにもいかず、「ちょっとタバコ部屋に」と言って席を立ってしまった。その後ろ姿を、班長の下関が首だけを伸ばして見送った。
「彼、タバコ吸ってたっけ?」
「タバコ部屋の常連ではないですね」
ヘビースモーカーの気がある先任の言葉に、下関は口を尖らせて肩をすくめた。そして、佳奈のほうにフグ顔を向けた。
「で、藍原さん。五月病なの?」
佳奈は慌てて首を横に振った。
「そうか。……ならいい」
にわかに班長の顔つきが険しくなる。らしくなく唇を横に引き結んだ彼は、眉間に無理やり皺を寄せ、重々しく話し出した。
「おはよう藍原君。次の君の任務だが」
「はい?」
佳奈は不思議そうに上司を見た。そして、近くの壁時計に視線を移した。時計の針は十一時過ぎを示している。
「班長、ネタが古すぎるようですよ」
「え、聞いたことない? 『当局は一切関知しないからそのつもりで』ってやつ。『スパイ大作戦』はともかく、『ミッション・インポッシブル』ならわりと最近じゃない?」
「それも九十年代の映画じゃなかったですかね。藍原さんは生まれてるかどうかってトコですよ」
部下の先任に冷酷なダメ出しをされた下関は、フグ顔に戻って頭をかいた。
「いやね、藍原さんに、新しい仕事をひとつ頼みたいと思って」
佳奈は、素早く引き出しからメモ用紙とボールペンを出した。それを手に、熊のように大きな月野輪の背中を左に見つつ、班長席のところに行く。
「どんなお仕事ですか?」
「米国情報機関の人間との接触を頼む」
佳奈は足を止めた。無意識に、熊が座るほうへ後ずさりしてしまった。
「班長、『接触』じゃなくて『接遇』じゃないですか?」
「あっ、そうそう。接遇。私、スパイ映画大好きだから、つい……」
月野輪にまでツッコミを入れられた班長は、ますます口を尖らせて頭をかいた。佳奈は、一瞬笑みを浮かべ、すぐに青ざめた。
「そ、それ、どういう意味なんですか?」
「あ、『接遇』って言葉、民間では使わない? 平たく言うと接客だよ。来週、日米の情報関係者で会議やるんだけど、その時にお客さんの相手を……」
聞きたいのはそこではない。佳奈は、メモ帳とボールペンを握りしめて、声を低めた。
「情報機関の人って、ど、どういう人なんですか?」
「今回のお客さんは、アメリカ本国の国防情報局の分析部長と分析部の幹部が五、六人。それと、横田の
「横田の、J?」
「在日米軍の司令部が横田にあってね、『J2』はそこの情報部」
つまり、『横田のJ2長』は、『在日米軍情報部長』ということになる。
「で、そのJ2長とJ2の人間が二人。あと、オブザーバーで在京大使館の国防武官と……。どした?」
新人が固まっているのに気付いた班長は、慌てて立ち上がった。
「あ、いやいや。会議通訳してっていうんじゃないから、安心して。会議場の準備とか、お客さんの案内とか、休憩時間のお茶の用意とか、簡単な仕事。月野輪1尉も一緒にいるし」
「違いますよ班長。『客が怖そう』って話ですよ。ねえ?」
きょとんとするフグ顔の傍で、先任が佳奈に穏やかな笑顔を向けた。
「確かに『情報機関』と聞くと、さっき班長が言ってたスパイ映画みたいなのを想像するかもしれないけど、うちに来るお客さんはみんなデスクワークの人たちだから。だいたい藍原さん、自分だって今は『情報機関の人間』だろ?」
「そ、そうですけど……」
佳奈は露骨に困惑の表情を浮かべた。なりたくてそんなアヤシイ身分になったわけではない。両親にはとても今の所属部署のことは言えずに、「航空
「月野輪一人だと統制しづらいし、今回はお客さんの中に女の人も一人いるから、藍原さんも入ってくれるとありがたいんだよね。場所はC棟の地下三階。月野輪、立ち入り申請はもうしてあるんだよね?」
熊のような太い声が、「完了してます」と答える。
「C棟ってのは、ここの隣の建物。
会議の場所まで不穏すぎる。佳奈はますます眉をひそめた。
「どうしてそんな所でやるんですか?」
「地下階で会議室に使える部屋が、そこしかないから。地下なら外部から盗聴される危険がなくて、安心でしょ?」
「はあ……」
「ああ、でも」
下関は、バインダーに挟まっていた書類をパラパラとめくると、それを丸ごと外して佳奈のほうに差し出した。
「私服の奴らには気を付けて。下手に話しかけないように」
「どうしてですか?」
「彼らの中に、適当な肩書を付けてるのがいるから。いわゆる『カバー』ってやつ」
「カバー?」
「偽の身分ってこと」
「!」
それはやはり、スパイという類の人間ではないのか。しかし、その言葉を出すのが恐ろしくて、佳奈は口をつぐんだ。
「触らぬ神にたたりなし。だから、こっちからものを尋ねるのは不可ね」
「……そういう人がいるの分かってて、身元も確かめずに中に入れてしまうんですか」
「確かめないわけじゃないよ。お客さんの身分は全員、しかるべき人間がちゃんと掌握してる。知る必要のない面々には知らせない、ってこと。会議前段ではうちから若手の連中が何人か入るから、一部の『お客さん』はやむを得ず偽の肩書を使うことになる。後段は上級幹部以上の会合になるから、そこではたぶんオープンにやるよ。まあ、後段の出席者には、事前にそれなりのことは伝えてあるけど」
佳奈は受け取った書類に目を通した。後段の会議の出席者一覧の中には、当の下関の名前もしっかり入っていた。
「それじゃ、班長は……」
偽の肩書を持つ人間の正体を知りながら、人懐っこいフグ顔を決め込んでいるのか……。佳奈が小さく身震いすると、下関は口を尖らせて楽しそうに笑った。
「まあ、相手は同盟国の連中だし、別に怖いことないよ。たぶんね!」
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