「元」憧れの人々(1)
佳奈はイヌワシ頭の荒神をまじまじと見つめた。三十代半ばらしき外見と3等空佐という階級の割には言葉遣いの粗雑な彼がパイロットだったとは、全く気付かなかった。
その原因はすぐに分かった。濃紺の制服の左胸の位置に、パイロットであることを示す航空き章、通称ウイングマークが、付いていない。
佳奈の視線に気づいた荒神は、猛禽類的な鋭い目を一層細めた。
「俺は元パイロットだ。昔は『イーグルドライバー(F-15操縦士の通称)』なんて呼ばれたこともあったけどな。早い話、ウイングマークを消されたんだよ」
「消される?」
「ウイングマークは、操縦士の技能証明を持つ者だけが付けるき章だ。だから、操縦資格を失ったら、外さなきゃなんねーの」
つまり、かつてF-15のパイロットだった荒神には、操縦資格を失うような過去がある、ということだ。
佳奈は、自分と荒神の間の空間が急に冷たく張り詰めていくのを感じた。
「なんでウイングマーク消されたか、訳を知りたいか」
「あ、その……」
「いいさ、話してやる」
荒神は、毛を逆立てた鷲のような髪を無造作にかき上げると、窓辺に立ちすくむ佳奈のほうに身体を向け、椅子の背もたれに右腕を載せた。
「俺は、子供のころから飛行機が好きだった。地元の基地の航空祭で初めてF-15が飛ぶのを見て、その時に進む道を決めた。親にはかなり反対されたが、高校を卒業してすぐ、航空学生になった」
航空学生とは、二一歳未満の高卒者もしくは高校卒業予定の若者を対象とした、海空自衛隊のパイロット養成制度である。高校三年次に航空学生の選抜試験を受けて合格すれば、卒業後、すぐに自衛官としての訓練と様々な座学研修を受け、二年後には操縦桿を握ることができる。空を志す者にとっては、夢を叶える最短の道といえる。
ブルーインパルスに憧れた昔の自分と少し重なる話に、佳奈は深く頷いた。佳奈自身も高三の春に、防衛大学校とともに航空学生を目指すことも考えた。もっとも、どちらも身長制限の壁に阻まれて、挑戦する余地すらなかったが……。
「航空学生出身の人間は、昇任の面では防大(防衛大学校)卒のパイロットには敵わない。だが、現場にはより長くいられるし、はっきり言って奴らより腕もいい。だから俺は、誰よりも長く誰よりも上手く飛んでやると、それだけを思ってやってきた」
音速の二倍で空を駆け巡っていた当時を思い出しているのか、荒神は、険しい目つきで宙を見つめた。
「ま、気合だけでどうにかなる世界じゃないがな。幸い俺は、パイロットとしての適性には恵まれていたらしい。教官には、同期の中でもトップクラスだと、太鼓判を押してもらった。部隊でも『センスがある』とよく言われた。それが、ある日突然」
「と、つぜん……?」
瞳を揺らす佳奈を、荒神はギラリと睨み、猛禽類が雄叫びを上げるような声で叫んだ。
「ぎっくり腰になっちまったんだよ!」
「へ?」
「休みの日に、下の子供を抱っこしたら、いきなりグキッてきたんだよ!」
「……」
「ホントだよ! それから腰痛が治んなくて、一時は歩くのも不自由したんだ」
「でも、今は……」
佳奈は、足を投げ出して座る元パイロットを遠慮がちに見た。
「このとおり、日常生活には差し支えない程度に復活したさ。それでも、航空身体検査に受からなきゃ飛ぶことはできない」
航空身体検査とは、航空機搭乗員を対象とした健康診断のようなもので、対象者は視力から神経系異常の有無までを事細かに検査される。この検査で「業務遂行に必要な状態を有している」という合格証明を得られなければ、操縦ライセンスを取得していても、航空機の操縦は法的に許されなくなる。
「結局、ファイターパイロットとしては復帰の見込みなしってことで、操縦資格を消された。ぎっくり腰なんてジジくせえ理由で終わるなんて、笑っちゃう……」
そこで急に言葉を切った荒神は、机の端に置いてあったティッシュ箱を掴むと、それを佳奈に投げつけた。
「何だよ。ここ、笑うトコだぞ」
「えっ、今の、笑うトコだったの?」
涙ぐむ佳奈の代わりに、班長の下関と先任の追立が素っ頓狂な声を出した。
「怖い顔で遠い目してそんな話されてもさあ、全然笑えないって」
「ホント。若いコをわざと泣かそうとしてるとしか思えない。ヤな奴だねえ」
「先任! 話を振ってきたのは月野輪1尉ですよ!」
熊のような体を無理やりすくめる月野輪を忌々しそうに睨んだ荒神は、面倒くさそうにため息をつくと、再び佳奈のほうに向き直った。
「腰痛で飛べなくなる奴、結構多いんだよ。いつも6Gとか8Gとか体に負荷かけて飛んでんだから、いろいろガタがきて当然だろ」
佳奈は、ティッシュ箱を抱えたまま、黙って頷いた。袖の下からわずかにのぞく華奢な手首を、荒神は鋭く凝視した。
「そういえば藍原さん、戦闘機乗りになりたかったんだって?」
「あ、いえ、あの……」
佳奈はいよいよ小さくなった。ぎっくり腰になるまではエース級だったらしい元パイロットには、自分などさぞ身の程知らずの愚か者に見えるだろう。
「そんな細っこい腕して、なんでまた6Gとか8Gとかの世界にいきたいと思うわけ? まあ、背は低い方が耐G能力は高いって聞いたことはあるが……」
「えっ、そうなんですか?」
「でもアンタは低すぎ!」
涙目を見開いた佳奈に、荒神は容赦なくダメを出した。
「それに、筋力ゼロみてーなその体じゃ、まず高倍率の適性検査をパスできねーよ」
「体形のコト言うと、セクハラで訴えられるよ」
「班長は黙っててください!」
上官に躊躇なく噛みついたイヌワシ頭は、急に立ちあがると、佳奈のほうに半歩、歩み寄った。日本人男性としては平均的な背丈の彼は、間近で見ると、確かにガッチリした体形をしている。
「高G環境になると、それなりに筋力がないと思い通りに体を動かすこともできなくなる。機体の操作そのものは腕力がなくてもそこそこできるが、ちょっとのGで身動きできないようじゃ、ファイターは飛ばせねーんだ。輸送機や救難機のパイロットだって、決して楽なもんじゃない。だから、飛行要員の適性検査は、明確な合格基準が書かれていないだけで、実際にはかなり厳しいんだよ。俺が航空学生を受けた頃は、確か『握力三十キロ以上』って規定もあったな」
「あ、それなら、ギリギリ足ります」
佳奈は右手を広げてみせた。携帯端末を片手で操作できない手は、いかにも小さく見える。
「それで、三十以上あるのか。握力は見た目よりあるんだな」
「右が十八、左が十六です」
「両方合わせて三十以上なのかよ……」
荒神は、怒っているのか笑っているのかよく分からない顔で、佳奈の前に己の右手を突き出した。かつて戦闘機の操縦桿を握っていた手は、大きな手のひらに比して指はやや短く、骨太だった。
「ちなみに、俺は七十二だ」
「両手で?」
「片手で七十二に決まってんだろ。そうだ、藍原さん。飛行機つながりでお近づきの印に、握手しようぜえ」
にわかにほくそ笑む荒神の意図に気づいた佳奈は、慌てて手をひっこめた。イヌワシ頭は、やはり意地悪な人間らしい。
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