初任者研修(1)
暗号めいた単語ばかりが聞こえてくる電話の応対に悩まされる新人のところに「研修に行け」という指示がきたのは、四月中旬に入ってからのことだった。
「研修って、何をやるんですか?」
佳奈の問いに、イヌワシ顔の荒神がニヤリと口角を上げた。
「家屋侵入と盗聴の講習」
「えっ!」
「んなわけねーだろ。うちに工作員はいないらしいからな」
「荒神。いいトシして新人をからかうのは止めなさい」
猛禽類の雄叫びのような笑い声を上げる3等空佐に、班長の下関が思い切り口を尖らせた。今回は見た目どおり怒っているらしい。
「ただの新規採用者向けの研修だよ。実質五日間しかないし、一般的なビジネスマナーと、自衛隊の組織や運用がどうだとか、そういう話を聞いて終わり。たぶんね」
*******
研修初日、佳奈がメモ帳と筆記具を書類ホルダーに入れていると、右斜め前に座る月野輪が、熊のような顔をのっそりと寄せてきた。
「これから行くんか」
「はい」
「一つ言っとく。空自の概要説明みたいな講義があるかもしれんけど、質疑応答の時間に去年の面接の時みたいな質問はすんなよ」
「はあ……」
佳奈は不服そうに頷いた。
官庁訪問の面接で、「背が低い者はなぜパイロットになれないのか」と尋ねた佳奈に「後日回答」を約束した小柄な航空自衛官は、責務を果たさぬまま佳奈と入れ替わりに転属してしまっていた。おかげで、問いの答えは未だに得ていない。
「研修で悪目立ちはいかん。人事が見てるからな。特に、ふざけてると誤解されそうな質問とマニアックな質問はダメ。空自の話の時は終始沈黙してろ。いいなっ」
熊に凄まれた佳奈は、頭を縦に振り、逃げるように事務所を出て行った。
「何ですか? 彼女の空自関係の質問って」
「あ、実は、藍原さんが官庁訪問に来た時……」
小さな人影がドアの向こうに消えるのを確認した月野輪は、熊が背中を丸めたような格好で、隣に座る荒神に耳打ちした。コトの次第を聞いた荒神は、再び甲高い声で爆笑した。
「あいつ、あれでパイロットになりたかったってんですか!」
「面白いですよね。あ、そうだ、彼女の疑問には荒神3佐が答えてくれれば……」
「自分が? 嫌です」
イヌワシ頭は眼光鋭くほくそ笑んだ。
広い会議場に集められた新入省者たちは、大きく三つの部類に分かれていた。高校もしくは公務員専門学校を出た若い新卒、四年制大学か大学院を出た新卒、そして、民間企業からの転職組。最後のグループに属する面々は、一目でそれと分かった。男女を問わず、スーツの着こなし方が違う。落ち着いていて、初対面の人間との雑談にもソツがない。
国家公務員採用試験の大卒枠は、上限年齢が『受験翌年の四月一日時点で三十歳以下』と定められている。そのため、転職組の数はそれなりに多い。大学を卒業後、民間企業などで何年か経験を積んでから、上限年齢ぎりぎりで公務員に転向してくるのだ。社会経験のある採用者は即戦力として重宝される。新卒勢にとっては、就活中も就職後も大きな脅威となる存在だ。
佳奈は、何となく居心地の悪いものを感じながら、会場いっぱいにずらりと並べられた長机の隙間を歩き、部屋の隅の席に座った。
大学に二年弱在籍し高卒として入省した自分は、明らかに異端だ……。
「ここ、いいですかあ?」
舌足らずな声がした方を見上げると、茶髪のロングをふわりと揺らす若い女が立っていた。黒い無地の上下を着ているが、髪の色に加え、異様に長いまつげとパステルカラーのアイシャドウのせいか、およそ新人という印象とはかけ離れている。市ヶ谷よりは渋谷が似合いそうな容姿だ。
佳奈は、一人分横にずれ、茶髪の同期が座るスペースを作った。彼女は、「すいませえん」と言いながら、右隣に勢いよく座った。
「あのお、高卒枠で入ったヒトですかあ?」
「そうです」
「わあ、良かったあ。何かスゴイ年上っぽいヒトばっかでえ、どおしようとか思ってたんですよお」
相手は、小声ながら強烈なアニメ声で「アタシ、
「よろしくお願いしますう」
「あ、藍原佳奈です。こちらこそ……」
茶髪の同期とゆっくり話す暇もなく、研修講義が始まった。班長の下関が言ったとおり、確かに、ただ座って話を聞いているだけ、というスタイルがほとんどのようだった。防衛省の概要、日本の安全保障環境と国際社会の現状、防衛政策の話……。退屈だ。
そんな大きすぎる話より、部署名を略した言い方でも教えてくれるほうが、電話応対に困る新人にはよほど有益な気がする。
自衛隊の部隊に関する内容になると、講師役は制服に変わった。陸海空の各自衛隊から派遣された幹部自衛官が、大きなモニターに映像資料を映しながら、キビキビと説明する。しかし、自衛隊用語なのか公務員用語なのか、耳慣れない言葉がちらほら交じり、どうにも聞きづらい。
もちろん、航空自衛隊の話だけは興味津々だったが、月野輪から「空自の講義の時は終始沈黙してろ」とクギをさされているので、質問はできない。
佳奈は、ふと隣に座る林原のほうを見た。彼女も講義内容にはほとんど興味がないらしい。アイメイクでぱっちりとさせたはずの目が、半分閉じている。デスクワークを担う事務官勢に現場を少しでも理解させたいなら、部屋の中で退屈な話をするより本物を見に連れて行ってくれればいいのに……。
そんなことを思いつつ講義のほうに意識を戻すと、黒いダブルスーツの制服を着た自衛官が、己の属する海上自衛隊の説明を一通り終えたところだった。
「……以上、装備から基本戦略まで、ざっと話しましたが、何か質問はありますか」
海自採用らしい人間が数人、海上自衛隊内での事務官の仕事について質問した。
佳奈はちらりと周囲を見回した。海自の世界には全く詳しくないが、前々から知りたかったことが一つだけある。
質問者が途切れたところで、手を上げた。隣で居眠りをしていた林原が、気配に気づいてはっと姿勢を正した。
講演者の海自が、にこやかな顔で佳奈に発言を促した。
「あのう、船のことで、聞いてもいいですか」
「何でもどうぞ」
「潜水艦は、どのくらい深くまで潜れるんですか?」
「あ、アタシも知りたあい」
同期が横で賛同してくれたが、モニターの前に立つ海自の表情は、急に硬くなった。
「それは回答できません。機密事項なので。他に、質問がある者……」
別の数人が挙手した。諸外国海軍との交流や海外派遣に関連する質問が出た。それについての質疑応答がしばらく続き、やがて会議場は静かになった。
「質問は、もうないですか?」
佳奈は再び手を上げた。
「では、彼女で最後とさせてもらいます。質問をどうぞ」
「先ほどのスライドで見た潜水艦は、真っ黒で、鉄とは違うものでできているように見えたんですが、どんな金属でできているんですか? あと、潜った時の水圧に耐えるには周りの『
おおう、と場がざわめく。最後の質問を受け付けたことを激しく後悔したらしい海上自衛官は、佳奈の問いには答えず、逆にドスの利いた声で尋ね返してきた。
「……キミ、所属と名前はっ」
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