電話番は難しい
前日の疲れがとれないまま、佳奈は浮かない顔で出勤した。もう帰りたい、と思いながら事務所のドアを開けると、窓際に座る渉外班長が手を振ってきた。佳奈は、ひょこりと会釈してそれに応えた。気配りタイプの上司らしいフグ顔に、少しだけ心が和む。
自席にいくと、昨日は見かけなかった男が、左斜め前に座っていた。感じの悪いイヌワシ頭の航空自衛官と同世代のように見えるが、班長と同じく海上自衛隊の黒い制服を着ている。
「お、おはようございます」
恐る恐る声をかけると、パソコン画面を凝視していた相手は、ゆっくりと身体を佳奈のほうに向けた。そして、整形したかのように大きな目をしばたたかせた。両目の位置が適切だったらお耽美系イケメンの部類に入れそうなところだが、不幸にして目の間が離れすぎている彼は、アマガエルのような雰囲気を漂わせている。
「あの、藍原佳奈です。よろしくお願いします」
「あ、どうも。
アマガエル顔は、呟くように挨拶を返すと、再びパソコンに視線を戻してしまった。
「相変わらず愛想悪いねえ。まだ熱あんじゃないの?」
「ないです」
班長の下関に声をかけられても、アマガエルの態度はそっけない。一方の下関は、それを気にする様子もなく、口を尖らせたまま佳奈のほうに笑いかけた。
「昨日の話の続きじゃないけど、具合悪い時は彼みたいにちゃんと休めるからね」
前日にアマガエル顔の古池が不在だったのは、病欠のためだったらしい。少しほっとして、佳奈は席に座った。その脇で、病気とは無縁そうな月野輪が、熊のような身体でふんぞり返った。
「
「そういうこと言うから『陸の奴は……』って言われんだぞ」
先任の
社会に出て二日目の人間が一人でできることと言えば、ゴミ捨てと電話番くらいしかない。
佳奈の母親の時代には、若い女性にだけ「お茶くみ」という仕事があったらしいが、ここでは、老若男女関係なく、皆がそれぞれに持参したマグカップで朝から好き勝手にやっている。班長からは、部長と課長に来客があった時にだけ対応してほしいと言われた。本来は、総括班所属の若手がやるべきところ、当人が育児休暇で不在のため、その代役ということらしい。
佳奈にとって電話応対は未経験ではない。今となっては「中途半端なブラック度」だった学習塾のアルバイトで、電話連絡を含む事務仕事に駆り出されたことも少なくなかったからだ。
佳奈は、熊の机とアマガエルの机のちょうど真ん中に置いてあった内線電話を、さりげなく自分のほうに寄せた。電話番くらいきちんとやりたい。班長席の電話機に回線を切り替える方法だけ、後で確認しておいたほうがいいかもしれない。
そんなことを思った矢先、呼び出し音が鳴った。月野輪が受話器に手を伸ばしかけ、佳奈のほうを見た。彼の意図を察した佳奈は、素早く受話器を取り上げた。
「防衛情報本部計画部、事業企画課渉外班です」
「チューギョーシコーセーミーニーです。先任おられますか」
「は?」
「チューギョーシコーセーの『ミニー』です。先任の追立2佐います?」
「へ?」
受話器を左耳に当てたまま目を丸くする佳奈に、班の一同が注目した。見かねた月野輪が助け舟を出した。
「誰に電話?」
「先任に……」
熊のように大きな月野輪の手を経由して受話器を受け取った先任は、怪訝そうに佳奈を見た。
「どこから?」
「分かりません」
「誰から?」
「分かりません……」
佳奈の耳にはっきり聞こえたのは、世界的に有名な米国産アニメのキャラクター名だった。確か、「ネズミの主人公の恋人」という設定のキャラだ。何かの暗号名だろうか。
一方の先任は、露骨に眉をひそめつつ電話に出た。
「渉外班先任、追立2佐です。……なんだ、
先任は、電話の相手とひとしきり話をすると、今度はアマガエル経由で受話器を返してきた。しかめっ面で佳奈を見る彼は、機嫌の悪いシェパードそのものだった。
「取り次ぐ前に、相手の名前と部署は必ず確認して。こっちが不在の時に困るでしょう」
「すみません。うまく聞き取れなくて。……あの、『ミニー』って、秘密の名前なんですか?」
「秘密? 『
シェパード顔の先任と童顔の新人が、ともにきょとんと見つめ合った。それを、フグの班長が面白そうに眺めた。
「ああ、まだ階級とか慣れてないもんね。自衛官はね、相手に呼び掛ける時も自分が名乗る時も、原則的には階級つけて言うんだよ」
「自分が名乗る時も、ですか?」
「そ。私は
下関の話に、「追立2佐」は穏やかなシェパード顔に戻って頷いた。
「さっきの電話の相手は、陸の『中央業務支援隊』にいる人間。長い付き合いの奴で、まあ、悪友みたいなもんだ」
「中央……? なんか、全然聞いたことない言葉に聞こえたんですけど……」
「さっきの奴、たぶん略して『
佳奈が米国産アニメの話をすると、班の一同は大声で笑った。古池だけが、黙って大きな目をパチパチとさせた。
「藍原さん。うちの班は『秘密の名前』を持つ人間との付き合いはないから、安心して」
「はい。……でも、そういう工作員みたいな人って、やっぱりどこかにいるんですか?」
新人の素朴な問いに、渉外班は一瞬にして静まり返った。古池だけが、アマガエルのごとく口をかぱっと開けた。
「……じ、自衛隊で工作員やってる人間は、いないよ。たぶん。ね?」
下関が、やや動揺した面持ちで追立のほうを見やる。しかし深緑色の制服を着る追立は、ニオイを嗅ぐドイツシェパードのようにふっと鼻を鳴らしただけで、何も答えなかった。
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