聞いていない話(3)

 佳奈はたまらず、「あのう」と小さな声で月野輪に尋ねた。


「残業って多いんですか?」

「まあ、内局に比べりゃ、ここは大したことないな」

「ナイキョク?」

「内部部局だよ。エリート役人の住処」


 防衛省は、防衛政策を担う官庁部門と実働部隊である自衛隊の二つの組織で構成されている。内部部局は前者にあたり、防衛省内で「本省勤務」という場合は、この内局で勤務することを意味している。

 職員の大半は総合職で採用されたキャリア官僚で占められるが、彼らの補佐もしくは雑務を担う要員として、「ノンキャリ」と称される一般職採用の事務官も、少数ながらこの部署に勤務している。



「内局はヤバイぞ。ノンキャリにとっては『出世の象徴』かもしれんが、あんなトコを希望する奴の気がしれん。松岡さん、今頃、どうしてるかなあ」


 月野輪の話によると、三月末まで佳奈の席に座っていた「松岡」という名の女性事務官は、以前からその内局勤務を希望し、ついに念願叶って異動したということだった。


「打診なしでいきなり通告、異動だもんね。引き抜きのやり方もブラックだよ。本人は喜んでたから別にいいけど。内局はホントに大変だから、間違ってもオススメしない」


 班長が口を尖らせて肩をすくめる。佳奈が「どういうふうに大変なんですか」と尋ねると、四人の制服は一斉に喋り始めた。


「キャリアの奴らは、ハナっから電車で帰ろうという雰囲気がない。タクシー帰りが基本らしいから」

「キャリアがそんな調子だから、ノンキャリだって深夜までこき使われるらしいぞ」

「国会で防衛関連の法案審議やってる間は、そもそも家に帰れない日のほうが多いんじゃないですか?」

「国会待機がかかりますからねえ」


 国会の本会議や委員会で議員が質問をする際には、前日までに「答弁者」に対して質問内容が通告されることになっている。答弁者である首相や閣僚は、それを受けて答弁内容を準備し翌日の審議に臨むのだが、この答弁資料を作成するのは各関係省庁の官僚である。

 質問内容が出揃うまでは、どの省庁も「出番」があることを想定して多くの職員を待機させる。これが「国会待機」と呼ばれるもので、待機解除となるまで関係職員は帰宅できない。野党議員の中には質問内容を審議前日の深夜に通告する者もいるため、日付が変わっても待機がかけられたままということもある。

 質問が出揃うと、各省庁各部局に担当が割り振られ、作業を請け負った人間は、徹夜で答弁資料を作成し、翌朝に大臣に報告を上げることになる。一方、深夜まで待たされた挙句に出番がなかった、というケースも多く、国会待機は、内局勤めの職員に無駄かつ過酷な残業を強いる一因となっている。



「通常国会は百五十日もあるし、それがさらに『延長』になったりするしな。関連法案の審議中ずーっと昼も夜もない生活して、結局『廃案』なんてことになったら、『もうやっとれんわ』って感じだろな。残業代も出ないし」


「出ないんですか!」


 佳奈が大きな声を出すと、制服一同はゲラゲラと笑った。


「キャリアの連中は、入って五年で幹部待遇らしくてね。幹部になったら、どんだけ残業しても、管理職手当の二、三万しかもらえないんじゃないかな」

「ノンキャリの事務官はどうなんだろうな? そこんトコ聞きたいよな」


 青ざめる佳奈に変わり、月野輪が尋ねてくれた。先任の追立おったてが、聞き耳を立てるシェパードのように首を傾げた。


「同期で内局に出向したことのある奴がいたんだが、そいつによると、若いキャリアやノンキャリの連中には残業代が出てたそうだ。ただ、そういうのも所詮は予算がある話だから、みんなで予算枠を使い切ったら、あとはタダ働きらしい」

「実働の何割ぐらい出るんですかね」

「同期が聞いたところでは、『休日出勤含めて月百三十時間程度の実質残業で、付いた手当が二十時間分くらい』だとか……」


「ひょえ~!」


 シェパードの話に、他の三人の制服が揃って変な声を上げた。


「まあ、ばくも同じようなもんだけどね」


 班長の下関が、ブツブツと呟きながら、机の上に置いてあったマグカップを口に運んだ。中身は、色合いからして、やはりブラックコーヒーらしい。


「バクって何ですか?」

幕僚監部ばくりょうかんぶのこと。外国の軍隊でいう参謀本部だよ。どっちも、藍原さんには聞き慣れない言葉かもね。陸海空と統合の四幕全部がこのA棟に入ってるんだけど、これがまた平時でもエラく忙しいトコでね。ばく勤務の人間の中には、家と市ヶ谷をしかしない奴もいる」

「や、やっぱり、残業代は、出ないんですか?」


 佳奈の問いに、制服一同は揃ってため息をついた。


「自衛官には残業の概念はないんだよ。二十四時間態勢が前提だから」

「幕にいる事務官はどうなんですかね?」


 今度は荒神が佳奈を見やりつつ尋ねる。


「残業手当は出るって聞いたけど、もともと予算枠が小さいから、やっぱりサービス残業ばかりになるみたいだね。私が海幕かいばくにいた時に一緒だった事務官さんは、その当時で藍原さんより五歳くらい上の女の人だったけど、朝七時に来て夜十時頃に帰る生活で、『二十時間以上の手当てが付いてればいいほう』って言ってたなあ」


「ほえ~!」


 フグ顔の回答に、他の三人の制服が揃って変な声を上げた。


「二十六、七の事務官さんの給料じゃ、時給換算にしたら最低賃金下回るんじゃないですか?」

「藍原さんが勤めてた学習塾どころじゃないかもなあ」


 荒神と月野輪の言葉に、佳奈は寒気を感じてきた。


「労働組合で問題になったりしないんですか?」

「労働組合?」


 制服全員が、目を丸くして佳奈を見つめ、そして一斉に乾いた笑い声を立てた。


「あ、藍原さん、知らんかった? うち、労働三権ないんよ。団結権、団体交渉権、団体行動権、全部なし。ブラックだから」


 月野輪がニヤリと口角を上げ、再びコーヒーをすする。


「公務員は全員、ストライキはできないことになってる。あとの二つの権利は、他のトコはそこそこ認められてるけど、うちや警察消防は団結権すらナシ。『上からの命令に絶対服従』っていう職場だから、職員が団結して上に物申す発想自体が不可なんだとさ」


 そんな話は初耳だ。気絶しそうな顔をする佳奈に、月野輪は、熊が吠えるような大声で楽しそうに笑った。


「同じ飛行機繋がりでも、国交省に入ってれば、団結権だけでも確保できたのになあ」

「国交省……」


 佳奈が人事院の採用試験に最終合格した日、国土交通省からも採用面接の連絡を受けた。しかし、その時点ですでに防衛省に内定承諾書を出していた佳奈は、国交省の話を辞退した。

 憧れのブルーインパルスと関わることができるのは、防衛省だけだ。だから、悔いはない、はず……。


 佳奈が泣きそうな顔になっているのに気付いた下関は、頬を膨らませて配下の面々を睨んだ。


「みんな、新人さんになんちゅう話してんだ」

「班長だってしてたでしょうが」

「……藍原さん」


 下関は、イヌワシ頭のツッコミを無視して、妙に優しげな声を出した。


「心配ないよ。ここは常識的な職場環境だから。大丈夫、たぶん……」


 やや歯切れの悪いフグ顔の上司を、佳奈は不信感たっぷりの目で見つめ返した。



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