聞いていない話(2)


 入省式の間、佳奈はほとんど上の空だった。学校の体育館を思わせる講堂には、いわゆるキャリアとなる総合職、大卒一般職、語学系の専門職、そして佳奈のような高卒一般職の新規採用者が、合わせて数百人はいた。

 ここにいる人間は皆、「宣誓書」の件を事前に承知していたのだろうか。何も知らなかった自分が、唯一の間抜けなのか……。


 テレビで見たことのある顔が、SPを引き連れて登壇し、難しい言葉で訓示を述べる。それに続いて、エラそうな役職名の人間が、新規採用代表者に辞令を渡した。辞令書を堂々と受け取ったその代表者は、降壇すると、マイクの前で「服務の宣誓」を読み上げ始めた。


『私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、……事に臨んでは危険を顧みず、身をもって……』


 

 高校野球の選手宣誓よろしく気合の入った声を聞いているうちに、佳奈は目まいがして倒れそうになった。




 四時を回る頃には、佳奈はすっかり疲れ果て、放心状態で自席に座り込んでいた。


「何だよ、初日から元気ねーなあ。若さがない! 若さがあっ!」


 隣でがさつな声を上げた月野輪は、疲れとは無縁そうな顔でふんぞり返った。


「月野輪、そういうデリカシーのないこと言うから『の奴は……』って言われんだぞ」


 顔をしかめたのは、朝方タバコ部屋にいたという先任の追立おったてだった。渉外班のナンバー2を務める2等陸佐の彼は、鼻筋の通った面長で、細身ながらも深緑色の制服に似合う頑健そうな体つきをしている。

 強いて動物に例えるなら、ドイツシェパードか。


「こんなちっこいのが、満員電車に乗ってきて、見知らぬ場所でおっさん共に囲まれて、あちこち挨拶回りさせられたんだ。そりゃ疲れるわ」


 先任の言葉に、佳奈は遠慮なく頷いた。入省式の後、班長の下関に連れられて、関連部署へ挨拶回りに行った。総務部長の個室には、最終面接の時に飛行機談義をしたあのF-15パイロットがいた。佳奈を覚えていてくれた彼は、ダンディな笑顔で入省を喜んでくれた。一方、自分が属する計画部の部長は、薄毛頭の職員人事管理室長が言っていたとおり、スキンヘッドにギョロ目で大声という、極めて人相の悪い陸上自衛官だった。

 当初の予定通り総務部の配置になっていれば渋いパイロットの下で働けたのに、と思うとますます疲労感が強くなる。



「あ、人事関連の書類は全部書いたんだよね。今日はもうやってもらうことないから、部内誌でも読んで、五時になったら帰んなさい」


 班長が、佳奈のほうを見て口を尖らせた。これでも、本人は優しく微笑んでいるつもりらしい。


「でも、今日は何もしてなくて……」

「初日は、人事書類書いて、入省式やって、挨拶回りして終わるもんだよ。実質的なことは明日から。ま、それも、ぼちぼちで」


 直属の上司が優しい人で良かった、と佳奈が安堵した途端、つっけんどんな声が聞こえてきた。


「今の内に有難く定時上がりしとけよ。すぐ残業の日々が始まるんだから」


 班長の左斜め前に座る目つきの鋭い航空自衛官が、仏頂面で佳奈を見ていた。彼も朝方に席を空けていた一人だ。固い髪質なのか、後頭部の毛がツンツンと飛び出し、イヌワシの頭のような形になっている。


荒神あらがみ、何で新人さんにそういう嫌なコト言うかね」


 シェパード顔の先任にたしなめられても、三十代半ばと思われる3等空佐のイヌワシ頭は、悪びれる様子もない。


「現実は早めに知ってもらうべきです。ここは、いわゆる『九時五時生活の公務員』とは無縁の世界なんですから」

「でも、うちなんてA棟の中では一番マシなほうだろ」

「とりあえず、間違いなく電車で帰れるしね」


 佐官クラスの不穏な会話に、佳奈は体を強張らせた。「間違いなく電車で帰れる」とは、どういう意味だろう。


「なんだか、ブラックな香りですなあ」


 月野輪が、背を丸めた熊のような格好で、のんきにコーヒーをすすった。彼の言う「ブラック」はどちらの意味に取ればいいのか……。


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