聞いていない話(1)


 薄毛頭の職員人事管理室長は、佳奈を建物東端の部屋へと案内した。かなり広い空間に、三十人ほどがいる。机の数からすると、まだ出勤していない職員があと二十人くらいはいそうだ。

 部屋の中央部分には、大きなパーティションで囲まれた場所がある。


「あそこは、計画部長の個室。後で各部課長のトコに挨拶回りに行くと思うけど、計画部長は恐ろしく強面だから覚悟しといて」

「そ、そうですか……」


 秘密工作を計画するセクションの長は、外見もその役職に相応しいらしい。佳奈は、ただでさえ低い背を小さく丸めた。もう家に帰りたい気分だ。

 しかし、薄毛頭は部屋の中をどんどん進み、その計画部長の部屋にほど近い所で立ち止まった。


 灰色の事務机が六つ、島のように固まって並んでいる。しかし、そこに座っていたのは二人だけだった。そのうち、窓際にいた管理職らしい一人が腰を上げた。


「松岡さんの仮の後任って、……この子?」


 海上自衛隊の黒い制服を着たその男は、丸い目を戸惑い気味にキョロっと動かし、薄毛頭と佳奈を交互に見た。癖なのか、怒っている風でもないのに、わずかに口を尖らせている。フグを連想させる顔つきだ。

 一方、もう一人は大きな声を出して立ちあがった。


「おう! あん時の子か!」

「あ……」


 縦横に大きい深緑色の制服には、見覚えがある。


「何だ、知り合い?」

「官庁訪問者の面接やった時に、この子が来てたんですよ。面白い奴なのは保証します」


 そう言って、深緑色は一人でゲラゲラと笑った。


「まさか、ここに来るとはなあ。俺は月野輪1尉だ。よろしくなっ。あ、いかん、班長に先に挨拶せんと」


 立ちあがった月野輪は熊のように大きかった。その熊に促され、佳奈は、人生初の上司となるフグ顔にちょこんと頭を下げた。


「藍原佳奈です。よろしくお願いします」

「渉外班長の下関しものせきです。うちは見ての通り、……ってか、残りの三人はどこ行ったんだ?」

「先任はタバコ部屋です。あとは分かりません」

「しょーがないなあ」


 班長は、ますますフグのように口を尖らせ、やや黒が強すぎる髪に手をやった。その袖には金色の太い四本線と桜星が付いていた。あの女性面接官改め山本2等海佐の袖に付いていたものより、金色の線が一本多い。


「まあ、ざっくばらんな奴ばかりなんで、あなたも気負わずぼちぼちやってください。あ、席は私の対面のトコ」


 佳奈が班の末席に座るのを見届けた職員人事管理室長は、薄毛頭のてっぺんを汗で湿らせながら、安堵したように表情を緩めた。


「じゃ、僕はこれで。あとでうちのが人事書類をいろいろ持ってくるから、取りあえずそれ記入して。あと、僕からも声かけるけど、入省式には遅れないように。大臣が来るんだからね」


 薄毛頭があたふたと立ち去ると、入れ替わりにやって来たのは、佳奈と同世代の女性職員ではなく、「地井」という名札を付けた二十代後半の背広だった。

 彼の顔にも見覚えがあった。過去二回の面接時に案内役をしてくれた男性職員だ。そういえば、採用面接の時も、彼は灰色頭の航空自衛官に「ちーちゃん」と呼ばれていたような気がする。

 佳奈はほっと安堵した。思っていたよりアットホームな雰囲気の職場かもしれない。


 「ちーちゃん」にも挨拶がてら礼を言うと、佳奈は、受け取った大量の紙をひとつひとつ確認していった。ご丁寧に、記入押印すべきところに、すべて鉛筆で印がつけられている。眼鏡をかけた寡黙な「ちーちゃん」は、相当に親切で几帳面なタイプらしい。

 住所氏名その他同じことを何度も別々の書類に記入し、持参した印鑑を押した。


 渡されたものの半分ほどを処理し終えたところで、佳奈は、「宣誓書」と題された紙があることに気付いた。「ちーちゃん」がつけてくれた目印に従い、今日の日付を入れ、氏名を記入する。

 印鑑を手にして何となく、妙に大きな字で書かれた仰々しい文面を眺めた。



『私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法及び法令を遵守し……』



 公務員はいちいち堅苦しい、と思いつつ斜めに読んでいくと、とある箇所に目が留まった。



、身をもって責務の完遂に務め……』




 佳奈ははっと顔を上げた。


「何か分からんトコあんの?」


 右横に座る月野輪が、大きな背を丸めて覗き込んできた。


「この『宣誓書』は、……私も署名するんですか?」

「そ。自衛隊員の『服務の宣誓』ってやつだから」

「でも、私、事務官……」

「事務官も自衛だろ」

「?」

「あ、知らんかった? 防衛関係者で、大臣みたいに政治任命されてうちに来る人と在日米軍で働いてる人間以外は、全員が自衛隊員。で、自衛隊員の中で制服を着てる奴を、特に『自衛官』って呼んでる。だから、背広の連中も、事務次官から今日入省したアンタまで、全員、自衛隊員だ」

「そうなんですか!」

「今頃驚いてどうする……」


 佳奈と月野輪は、互いに呆然と見つめ合った。


「で、でも、この『事に臨んでは危険を顧みず』というのは……」

「現役の自衛隊員はみんなこの宣誓書に署名すんの。早く印鑑押して」

「でも……」

「いいから押せよ!」


 にわかに低い声で凄んだ月野輪は、まさに唸る熊だった。佳奈は、びくっと縮み上がり、反射的に判を押してしまった。


「戦闘機に乗りたいとか言ってた奴が、何細かいこと気にしてんだ。取りあえずこれだけ、俺が今すぐ人事に出しといてやる」


 月野輪は、宣誓書だけをすばやく抜き取った。そして、にわかに席を立ち、大股でどこかへ歩いて行ってしまった。


「あ、ちょっと待……」


 佳奈が思わず腰を上げたその時、前触れもなく館内に国歌が流れ始めた。部屋にいる全員がにわかに起立し、南側に面した窓のほうを向いて直立不動になる。


「な、何?」


 班長の下関も、自席のすぐ後ろにある窓に向かい、姿勢よく立っていた。フグ顔をわずかに佳奈のほうに向け、小さく手を動かしている。「同じようにしろ」というジェスチャーらしい。

 訳が分からないまま、佳奈もその場でじっと立った。


 国歌が終わると、一時停止していた画像を再生に切り替えた時のごとく、すべての職員が何事もなかったかのように動き出した。佳奈の上司も、ゆっくりと席に座った。


「ここも他の駐屯地と同じで、毎日、国旗の掲揚と奉納をやってんの。君が代が流れたら、今みたいにして。座っている時は立つ。歩いている時は立ち止まる。そして、国旗があるほうに向かって『気を付け』の姿勢」

「曲が終わるまでずっと、ですか?」

「そう」

「廊下や外を歩いている時はどうするんですか」

「その時も同じ」


 建物の外を歩く人間すべてが突然立ち止まって「気を付け」をしたら、さぞエキセントリックな光景だろう。


 そんなことを思っていると、月野輪が大型の獣のような足取りでのしのしと戻ってきた。その意気揚々とした顔を見た途端、佳奈は、己の身を自らどこかに売り飛ばしてしまったような気分になった。




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