第2章 飛行機の見えない職場

黒いダブルスーツの正体


 初出勤日の空は、花曇りというには雲が厚く、どんよりとした灰色をしていた。


 佳奈は、その空と同じくらい暗鬱な顔で、人波に揉まれていた。都心に向かう通勤電車は想像以上に凄まじい。殺人的な乗車率の車両の中で、身長148.5㎝の体は完全に人の海に溺れてしまう。新しく買ったグレーのスーツもヨレヨレだ。

 やっとのことで市ヶ谷駅にたどり着くと、佳奈はさらに憂鬱そうに下を向いて歩き出した。「危険のない仕事に就いてくれて、一安心」と就職を喜んでくれた両親に、配属先のことは言えないまま、ついにこの日を迎えてしまった。これから、どうなるのだろう……。


 防衛省正門の面会受付所に入った佳奈は、新入省者であることを告げ、採用決定通知書をカウンターに提示した。三月半ばに自宅に送られて来たそれには、やはり、

『あなたは、……4月1日付で防衛情報本部に採用と決定いたしました』

 と記載されていた。つい小さなため息が出る。

 しかし、カウンターの受付職員は、特に気に留めることもなく、通知書に記載された連絡先に電話を入れた。ほどなくして佳奈は、臨時の立入証を渡され、配置先の部署が入るA棟の一階ロビーに行くようにと言われた。


 不安な気持ちを抑えてゲートを通過し、出勤する他の職員たちに交じって、屋根付きのエスカレーターに乗る。やがて、五、六棟の茶色い大きな建物が目前に迫って見えてきた。中でも一番高い建物がA棟だ。人の流れに乗って、その中に入った。



「藍原さん!」


 突然、威勢よく名前を呼ばれ、佳奈はきょろきょろと周囲を見回した。あの女性面接官の声だ。しかし、歩み寄ってくるのは、白地に黒いつばの帽子を被り黒い制服に身を包んだ海上自衛官だった。


「入省おめでとう。これからよろしくね」

「?」

「山本美知留みちるです。あなたとは何度か話したことあるんだけど」

「あ、面接で……。でも、何でそんなカッコ……」

「もしかして、ホントに私のこと事務官だと思ってたの? どうしてこれが私服に見えたかなあ」


 女性面接官改め山本美知留は、口元に手を当てて高らかに笑った。ダブルスーツの上着の袖口で、鮮やかな金色の太い三本線と桜星が光る。


「面接の時、この服、……着てました?」

「当たり前じゃない。課業時間中は着用義務があるんだから」

「でも、この板みたいなの、なかったです」


 佳奈は相手の左胸を無遠慮に指さした。そこには、色とりどりの小さな長方形のものが、縦横数列に繋がった状態で並んでいた。ミリタリー映画に登場する軍人の親玉が制服の左胸に付けているものに似ている。


「これ? 『防衛記念章』っていってね、賞詞や表彰をいただいたり特定の勤務に就いた時の記念として、付けるものなの。いつも上着にくっつけてるけど」

「最後の面接の時はよく覚えてないですけど、……その前の時は、これ、絶対になかったです。あれば、いくら何でも気が付くと思います」


 小さい声で抗議する佳奈に、山本はいたずらっぽく笑い返した。


「ああ、もしかしたらあの日は、同期に貸してたかも。『海外の軍関係者と会うから記念章を貸してくれ』って頼まれて」

「貸す?」

「自衛隊には勲章制度がないし、賞詞や表彰にも数的な『枠』があるから、海外の軍に比べると、なかなかこの類の『飾り』を増やす機会がなくってね。普段は別にいいんだけど、外国のお客さんと並ぶと、どうしてもこっちは見劣りしちゃう。だから、海外勢と会う時は、他人の記念章を拝借してハクつけたりするの。あまり大きな声じゃ言えない話だけど」


 すまし顔で応えた山本は、急に背をかがめると、佳奈を正面からじっと見据えた。


「面接の時点で私が海自の人間だと分かってたら入省しなかった、なんてことないよね?」

「そ、それは、ないです……」

「じゃあ、いいじゃない。上で人事担当者が待ってるから、行きましょう」


 口元は笑っているが、薄くアイシャドウを入れた目は険しい色を帯びている。佳奈は黙って頷いた。この女性自衛官は尋問官で間違いない。



 一緒に高層階用のエレベーターに乗り、十三階で降りた。エレベーターホールは小部屋のようになっていた。フロアに続く通路はなく、両端に小さなドアが二つある。

 山本は、首から下げていた身分証を手に取り、それをドア横に付いている箱のようなものにかざした。小さな電子音と奇妙なモーター音、そして、鍵が開く金属音が聞こえた。


 彼女がドアを開けると、その向こうには、殺風景な廊下があった。


「どうぞ」


 促されるままに、恐る恐る中に入る。


「身分証は今日中にもらえると思うけど、それを家に忘れてくると事務所に一人で出入りできなくなるから、気を付けて」


 背後で、自動ロックのかかる音が大きく響いた。佳奈は思わずびくっと身を震わせた。何だか閉じ込められたような気分がする。


 山本は快活な足音を響かせて歩き始めた。彼女に続いて佳奈も、エレベーターホールを取り囲むように繋がる廊下を進む。

 事務所らしき部屋が並ぶ空間に出ると、突然、壁と同じ色をしたドアが開いた。中から、見たことのある薄毛頭が顔を出した。


「あ、室長。藍原さん、連れて来ましたよ」

「ああっ、山本2佐、これはどうも……」


 薄毛頭が額に汗を滲ませながら駆け寄ってくると、山本は、愛想笑いを浮かべて佳奈のほうに振り返った。


「こちら、職員人事管理室の小守こもり室長。気弱そうな顔してるけど、ここの事務官人事を牛耳ってるから、怖いわよ。うまくご機嫌とってね」

「えっ」


 佳奈が目を見開くのを面白そうに見た2等海佐の彼女は、「じゃ、私はこれで」と薄毛頭に会釈をして、どこかへ行ってしまった。


「……何言ってんだろね、あの人。怖いのは自分でしょうが」


 薄毛頭の室長は、黒い制服の後ろ姿に毒づくと、ほわっとした丸顔を佳奈に向けた。


「山本2佐は真面目に怖いから、気を付けて。何しろ、情報保全課の人だから」

「情報ホゼン?」

「そう。情報漏洩の防止とか部内スパイの調査に関わる仕事をやってる」

「……」


 ますます汗をかく薄毛頭と一緒に、佳奈も冷や汗を垂らした。怖い面接官だった彼女の本業は、尋問官より恐ろしそうだ。


「藍原さんは、ホントは総務部の配置になる予定だったんだけど、計画部にいた子が急に転属になっちゃってね。後任の調整がつくまで、藍原さんにはそこに入ってもらうことになったんで、よろしくお願いします。仕事内容は所属班の班長に聞いて」

「計画部、って何を計画するんですか?」


 まさか、アヤシイ企てに従事することになるのだろうか。不安げな顔をする佳奈に、薄毛頭は汗ばんだ顔で無理やり笑った。


「取りあえず、情報保全課よりは怖くないから。たぶんねっ」



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