知られていた秘密(1)
中辛のはずのカレーを一口食べた藍原進司は、一瞬、顔をわずかにしかめた。
「やっぱ、少し焦げくさいよね」
「はは、大丈夫だよ。ちゃんと食える」
まるでフォローになっていない父親の言葉に、佳奈は肩を落とし、盛大な溜息をついた。
今日の面接は、完全に支離滅裂なまま終わってしまった。時間の半分近くを身長の話に費やしていたような気がする。面接終了を告げられ部屋を出た時には、閉めかけたドアの隙間から、「変わった子ねえ……」と呟く声まで聞こえてきた。
あまりにショックで、面接場所から自宅までどうやって帰ってきたのか、さっぱり覚えていない。駅近くのスーパーで買い物をしたことも記憶にない。気が付いたらお玉を片手に台所に立っていて、ふと目の前にある鍋の中を覗いたら、カレーが焦げていたのだ。
「元気ないな。疲れてるなら、無理して夜ごはん作ってくれなくていいんだよ。連絡くれれば何か買って帰るんだから」
「別に、……大丈夫だよ」
「佳奈」
普段は穏やかな進司の声音が、急に低く変わる。テーブルを挟んで向かいに座る娘を見つめる目は、もう笑っていない。
「な、何? お父さん」
「今日、採用面接か何か受けてきたんだろ」
「違うよっ。何で?」
「この前、何かの合格通知書のような紙がテーブルの上にあったのを見た」
佳奈は呆然と脱力してうつむいた。
「先月、公務員の採用試験を受けたんだ。今日は、官庁訪問に行ってた」
「官庁訪問? 国家公務員になるつもりなのか?」
「なれれば、だけど……。二次試験が来週あって、採用面接はその後」
「……佳奈はいつも、大事なことを一人で決めてしまうんだね」
怒るだろうと思っていた父親は、悲しそうな目をした。にわかに佳奈の胸に罪悪感のようなものが広がっていく。
「じ、時間が、なかったんだもん。試験のこと知ったのが五月の終わりで、申込期限まで一か月切ってたから」
「あの悪質な学習塾を辞めて、やっと落ち着いて勉強していると思ったら、就職の試験勉強だったのか。学費は父さんのほうでどうにか考えるから、退学することばかり考えなくていい。取りあえず、後期分は納入延期の手続きしたんだし」
「お父さんは、私が大学を辞めるの、反対?」
「反対すると分かってたから、内緒で試験を受けたんだろ」
返事に困り、佳奈は自分の作ったカレーを口に入れた。やはり焦げくさい。自分史上最低の出来に、口がへの字に曲がってしまった。
国家公務員は、政策立案を担う総合職、政策執行のための事務処理に携わる一般職、特定の専門分野に従事する専門職の三つに大別され、主要なものに関しては人事院が一括して採用試験を実施している。
大半の試験には学歴制限が設けられていないが、総合職の試験は院卒程度と大卒程度に、一般職と専門職の試験はそれぞれ大卒程度と高卒程度に区分されている。当然ながら、各試験区分で課される内容も大きく異なり、官僚候補である総合職の採用試験はあり得ないほどの難易度になっている。
大学二年になる佳奈は、「一般職高卒程度」の試験区分を選んだ。年齢制限のため、「大卒程度」の試験は受けられないからだった。一方、「高卒程度」の試験は、高校を卒業して二年以内の者しか受験できないと決められている。
今年受けなければ、「大卒程度」の受験資格を得られるまで二年間の空白ができてしまう。学業継続が難しくなった佳奈にとっては、そのことも受験を急いで決意した要因となった。
五月に防衛省事務官という職を知り、六月半ばにエントリーし、九月初めに一次試験を受けた。このまま十月中旬に二次を受け、十一月半ばに最終合格して志望先への採用が決まれば、次の年の春までには大学を辞めることになる。
迷わなくはなかったが、ささやかな夢を叶えたいという思いのほうが強かった。
「ごめんな、佳奈。こういう選択をさせてしまうのは、全部、父さんのせいだね」
「え、そ、そんなことないよ。お父さんは、お母さんのためにお仕事変わったんだし」
「アルバイトの件も、もう少し早く気づいてやれれば良かった。大学入試の時だって、父さんがもっと早くこっちに帰ってこれれば、佳奈が指定校推薦なんか受ける必要なかったのにな……」
進司は肩を落として目を伏せた。整えられた髪の中にある白いものが、妙に目に付く。
「そんなの関係ないよ。私の第一志望は
佳奈は、無理やり笑顔を作り、一人で喋り続けた。
「ホントだよ。あーあ、防大に入れてたらなあ。学費もかかんないし、お給料ももらえるし、就職率百パーセントだし、まさに完璧だったのに。パイロットもそうだけど、背が低いからダメなんて、差別だと思わない? 背が高いとか低いとかって、持って生まれた運みたいなもんでしょ? 運は努力では変えられないのに!」
最後はやや脈絡のない話になり、佳奈は息をついた。仕方なく、焦げたカレーを食べながら、気まずい沈黙を破る話題を探す。
先に口を開いたのは、進司のほうだった。
「……佳奈は怒るかもしれないけど、父さんもお母さんも、ホントは、佳奈の背が伸びなくて、良かったと思ってるんだ」
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