官庁訪問(4)
「その時は、学費の足しにと思って、個人指導塾でアルバイトをしていたんですが、受け持ちの生徒の数をどんどん増やされて、自分の学業と両立できなくなってしまって……」
女性面接官の黒いダブルスーツをぼんやりと見ながら、佳奈は催眠術にかけられたような不安感に襲われていた。言いたくないことを、どんどん喋らされている気がする。
「……毎日十一時頃まで仕事があったので、試験の頃に体調を崩してしまって……。塾講師の仕事は休めないので、日中に休むしかなくて、午前の授業にはほとんど出られなくなって、結局試験も……」
「何だそれ!」
大きな声に、佳奈ははっと我に返った。
声の主は深緑色の制服を着た男だった。彼の隣に座る眼鏡の背広も驚いたようで、深緑色の巨体を凝視したまま固まっている。
「本末転倒じゃないか! いわゆるブラックバイトってやつか? そんなトコ、試験の前にとっとと辞めちまえばよかったのに!」
「でも、バイト先からは、『勝手に辞めたら訴える』と言われて……」
「完璧なブラックだな! けしからん!」
「
女性面接官が、立ちあがらんばかりに怒る深緑色を制し、げんなりと溜息をついた。
「難しい事情があったのは分かりました。でも、貸付型の奨学金でもいろんな条件のものがあるから、もう少し調べてみてはどう?」
「しかし、借金には変わらんからなあ」
少しクールダウンした深緑色が顔をしかめる。
「俺の同級生にもいたんだよ、奨学金で四大出た奴。せっかく大卒になっても、景気悪くてロクなトコ就職できなくってな。結局、奨学金を返すために、新宿だかどっかでホストみたいな商売始めて……」
「何の話してんのよっ」
女性面接官に腕を小突かれ、大柄な深緑色はちょこんと頭を下げた。
「それで、大学を辞めて公務員になる道を選んだ、ということね?」
「選んだ、というか……。今年の春にやっとアルバイトを辞めることができて、その後ずっと、どうしたらいいか分からなかったんですけど、五月の終わりに、家の近くで、たまたまブルーインパルスが飛んでいるのを見かけて……」
佳奈が子供の頃から好きだったアクロバットチームの「ブルーインパルス」は、航空自衛隊の所属で、「第4航空団第11飛行隊」という堅苦しい部隊名が正式名称である。普段は宮城県にある松島基地に所在しているため、松島周辺の住民以外の人間がブルーインパルスの姿を見る機会は、全国各地の空自基地でそれぞれ年に一度開催される航空祭ぐらいしかない。
「あなたのお家、……埼玉県
濃紺の制服が、佳奈の履歴書らしい紙をしげしげと眺め、にわかに嬉しそうな声を出した。
埼玉県南部にある狭山市は、小江戸として有名な
「入間の航空祭は、確か、文化の日だったね。五月に見たってのは、関東のどっかの民間イベントで祝賀飛行かなんかやった時かなあ。そういう時はよく入間を拠点にするから、イベントの前後にブルーがあの辺りを飛ぶんだよ。やっぱり、ブルー好きなんだ?」
航空自衛隊の人間は、ブルーインパルスのことを「ブルー」と略すらしい。
「はい。子供の時から航空祭で見てました。防大を諦めてから、航空祭には行ってなかったんですけど、久しぶりにブルーインパルスを見たら、そういえば飛行機が好きだったなあと思って……」
佳奈は大きく顔をほころばせた。人と飛行機の話をするのは久しぶりだ。
「それで、大学にいるより飛行機を見られる仕事に就こう、と思ったんだ」
「インターネットで、自衛隊の基地でも事務のお仕事があるのを知って、それで公務員試験を受けたんです」
「そっかあ。実は俺もさ、空自に入ったきっかけって、ブルー……」
「アンタの身の上話はいいってばっ」
眉を吊り上げる女性面接官に遮られ、ただでさえ小柄な濃紺はすっかり縮み上がった。和やかな雰囲気が瞬時に霧散した。
「藍原さん、こう言っては何ですが、かなり衝動的な決断ですね。先ほども言いましたが、大卒と高卒では、入省後の待遇が大きく違います。最終学歴を敢えて高卒にするのは、もう少しよく考えてからにしてはどうですか。奨学金の件にしても、大学と相談する余地はまだあると思いますよ」
「でも……」
奨学金を受けたくない理由は、もう一つある……。それを言うべきか迷っているうちに、黒いダブルスーツの女性面接官は、強制的に話題を変えた。
「藍原さんのほうから、何か質問はありますか」
佳奈は言いかけた言葉を飲み込んだ。また、頭の中が空白になる。急に「質問を」と言われても、この二年半ほどの間ずっと抱いてきたあの疑問しか思い浮かばない。
「……あのう、パイロットは、どうして背が高くないといけないんですか?」
「えっ?」
「昔、航空祭に行ったとき、格納庫の中にF-15が展示してあって、操縦席が外から見えるようになっていたので、一時間並んで見たんですけど、中はとても狭そうでした。だから、大柄な人より私みたいに小さい方が、快適に操縦できると思うんです。操作は油圧ですよね? 特に力仕事ってわけでもないじゃないですか。どうして体格が良くないとダメなんですか?」
面接官たちは、突然まくし立てるように喋り出した被面接者を唖然と見つめた。
「エアラインのキャビンアテンダントなら、背が高くて綺麗な人じゃないとダメだって言われても納得できるんですけど、パイロットだったら、そんなの関係ないんじゃないかと思って……。身長って、そんなに大事なんですか?」
黒いダブルスーツと深緑と若い背広の三人は、揃って、航空自衛隊の制服を着る小柄な男に注目した。
「いやあの、自分、飛行要員の経験ないんで、ちょっと……。後日回答ってことで、いいですかね?」
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