消せない不安

翌朝、レナはユウの温もりの中で目覚めた。


(ユウ…。)


夕べ、バーでヒロとタクミと一緒にお酒を飲んでいたことは覚えているが、いつの間に、どうやって戻って来たのだろう?


(全然覚えてないって…どういうこと?)


何も思い出せないことを不思議に思いながらも、レナは目の前にあるユウの寝顔を見つめる。


(ユウがこうしていてくれるだけでいい…。)


もっともっとユウのぬくもりを感じたくて、レナはユウの胸に顔をうずめる。


「レナ…。」


ユウが起きたのかと、レナはユウの顔を覗き込むが、ユウは寝息をたてている。


(寝言…?)


こんなふうにユウの温もりの中で目覚めたのは久し振りのような気がした。


(ずっとこうしてたい…。)


ユウも同じことを言っていたなと思いながら、レナは小さく微笑む。


(こんなふうに、大好きな人のぬくもりを感じながら目が覚めるって…幸せなことだな…。)


一緒に暮らすようになって、当たり前になりかけていた。


それを“当たり前”と言えることは、とても幸せなことなんだとレナは思った。


(ずっとこうしてたいけど…そろそろ起きて仕事に行く用意をしないとね…。)


レナはユウを起こさないように、そっとユウの腕の中から抜け出した。


シャワーを浴びて身支度を整え、いつものように朝食の用意をした。


軽く朝食を済ませて、レナは仕事に出掛けた。





「…レナ…。」


ユウは自分の寝言で目を覚ました。


(レナ…いない…。)


夕べ抱きしめて眠ったはずのレナが、目が覚めると隣にいないことにユウは寂しさを感じた。


(もう仕事に出掛けたんだな…。)


リビングの上の朝食を眺めて、ユウは小さくため息をついた。


(いつも通りの朝…か…。)



初めて見るほど酔って帰ったけれど、夕べのことを、レナは覚えているだろうか?


タクミとの間に何があったのか?


それとも何もなかったのか?



“妻を騙して、おまけに疑ってるくせに、よく言うよ。”



タクミの言葉が、ユウの頭を巡る。


眠りながら“ユウ、行かないで”と呟いたレナの寝顔を思い出すと、ユウの胸はキリキリと痛んだ。


(オレはどこにも行かないって何度も言ってるのに…それでも、レナは夢に見るほど不安なんだ…。)


ユウの前では“私は大丈夫”と笑うレナ。


ユウに心配をかけないように“気にしないで”と笑いながら、あの華奢な体で、一人で耐えてきたのだ。


(オレは…耐えられないよ…。)





レナは午前中、画像のデータを整理したり、新しい仕事の資料を見たりしながら、みんなが出払った事務所の留守番をしていた。


お昼が近くなった頃、レナがコーヒーをいれようと立ち上がった時、事務所のドアが開いた。


(誰か戻って来たのかな?それにしては早いけど…。)


ドアの方に視線を向けると、そこにいたのは須藤だった。


「須藤さん!」


「おうレナ、元気でやってるか。」


「ハイ…相変わらずです。」


曖昧な返事をして作り笑いを浮かべるレナを見て、須藤は小さくため息をつきながら微笑む。


「ホントに相変わらずだな、レナは…。」


「え?」


須藤の言葉の意味がよくわからず、レナは首を傾げた。


「相変わらず、嘘つくのが下手だ。」


「えっ…。」


すべてを見透かすような須藤の目にはかなわないと、レナは苦笑いを浮かべる。


「それでも、嘘つかなきゃいけない時もあるんです。」


「守らないといけない物があるからか。」


「そうですね…。それもあります。」


「そうか…。自分に嘘ついてでも、自分を奮い起たせて、自分の足で踏ん張らなきゃならん時もあるからな。嘘も通せば誠になるって言葉もある。オレはレナに騙されたフリで、その行く末を見守るかな。」


「ハイ。もし下手な嘘に気付いても、上手に騙されたフリをしてて下さい。」


「なかなか言うようになったね、オマエも。」


須藤は笑みを浮かべて、愛しそうにレナを見つめた。


「今日の午後、`アナスタシア´の撮影だろ。その後の話、聞いてるか?」


「その後の話?」


レナはこの後、モデルとして`アナスタシア´の新しいカタログとポスター用の写真を撮影することになっているが、それ以外は何も聞いていない。


「何かありましたっけ?」


レナは手帳を開いて首を傾げる。


「聞いてないか…。ヒロさんから連絡もらってな。自分のアルバムのジャケットにレナの写真を使いたいから、オレに撮って欲しいって。」


「えぇっ?!」


(初耳なんですけど…!!)


「なんでも、秘密っぽさの漂うような写真にしてくれって。顔が見えるか見えないか、レナだってわかるかわからないかくらいの写真が欲しいんだってさ。できれば、いつものレナとはまったく違うレナを引き出してくれって。」


「それ…私を使う必要あるんでしょうか?」


「まぁ…あるからそうするんじゃないか。」


随分具体的なのに意図が見えないヒロの注文。


「そんなことできるのかな…。」


モデルとは言え、レナは他のモデルのように、カメラに向かって、次々と表情やポーズを変えたりするのは苦手だ。


(こんなんで、よくやってこれたよね…。)


きっと他のブランドや雑誌のモデルなら、即刻クビだなとレナは思う。


「そんな心配そうな顔するな。オレがちゃんと撮ってやるから、任せとけ。レナを撮らせたらオレの右に出る者はいない。」


須藤は自信たっぷりに笑って、レナの頭をクシャッと撫でた。




`アナスタシア´用の写真撮影を終えると、レナはメイクさんにいつもの撮影用の薄化粧を落とされ、今までにしたことのないような、元々ハッキリとした顔立ちを更に強調するような、濃い目のメイクを施された。


生まれて初めてのつけまつげや、目元を際立たせるアイメイク。


鼻筋の通った顔立ちをよりシャープにみせるシャドウやチーク。


普段使ったことのない、深い赤の口紅に、唇をふっくらと艶めかせるリップグロス。


いつもはストレートの長い髪をヘアアイロンで巻かれ、あっという間にくるくると小悪魔っぽい巻き髪にされた。


(だ…誰…?!)


レナは今までに見たことのない、いつもとはまったく違う自分の姿に、まるで自分ではないような違和感を覚えた。


(これが、変身!!…ってやつ?)


日本人とアメリカ人のハーフと言うこともあり元々ハッキリした顔立ちを、いつもはできるだけ派手にならないよう、薄化粧をしているレナが、メイクや髪型を変えるだけで別人のようになっている。


(…ちょっとは色っぽくなってるのかな…?)


色気のなさがコンプレックスのレナは、鏡の中の別人のような自分の姿をしげしげと眺めた。


(いや…やっぱりないな…。)


どんな格好をしても、自分は自分でしかないと改めて思う。


(作り物の私、かぁ…。)



メイクの後は、スタイリストに衣装のドレスを着せられる。


いつもは着たことのない、ざっくりと胸元と背中の開いた、体のラインがハッキリと出るような、丈の短い黒のドレスだった。


(えぇっ?!リサのデザインとは思えないくらい大胆なんだけど…!!こんなの見たこともない!!)


あまりの恥ずかしさに真っ赤になっていると、小さい頃からいつも世話になっている馴染みのスタイリストの静江は、おかしそうに笑った。


「アリシア、顔真っ赤!!」


「だって…こんな服、着たことないから恥ずかしくて…。私、胸もそんなに大きくないし、全然色気ないから…似合わないでしょ?」


「そう?アリシアが思ってるよりずっと、アリシアは色気あると思うよ。」


「えぇっ?!」


思わぬ言葉に驚くレナを見て、静江はまた笑った。


「色気なんて、内からにじみ出るもんでしょ。ただ胸が大きいだけとか、そんなのは色気って言わないの。男からはエロい目で見られるけどね。」


(エロい目って…!!)


静江のストレートな言葉に、レナは顔を真っ赤にした。


「アリシアは、やっと30になったとこでしょ?これから悩んだり迷ったりしながら、いろんな経験積んでくうちに、どんどん色っぽくなるから心配しなさんな。」


「…そういうもの?」


「そうよ。体型とか顔とか、見た目だけじゃないの。そのうちアリシアにもわかるわ。」


「そうなんだ…。」


「少なくとも、最近のアリシアは数年前に比べると格段に色っぽいわよ。」


「えっ?!」


「本気で誰かを好きになると、女は変わるからねぇ。愛されるとまた変わるし。」


「えっ?!えっ?!」


(な、何それ?!)


慌てふためくレナの肩をポンと叩くと、静江は優しく微笑んだ。


「アリシア、いい女になったわ。もっと自信持ちなさい。」


「ありがと、静江さん…。」


静江の言葉は、レナの不安を和らげて、ほんの少し自信をくれた。


(それって、ユウを好きになったから…?)






“今日はアナスタシアの撮影で

少し遅くなります。”



夕方、スタジオを出て、レナから届いた短いメールを見たユウは、小さくため息をついた。


(今日は撮影か…。)



間もなく始まるツアーのため、明日から少しの間、家を空けるユウは、自分がいない間にも、レナが他の男と会うんじゃないかと不安に駆られていた。


強くならなければ。


レナを信じなければ。


何度も何度も心の中で繰り返すのに、そのたびに胸の奥がきしんで、不自然な息苦しさを感じた。


(自分に言い聞かせるようなことか…?)


信じなければと思うほど、レナを疑う気持ちが大きくなっていく。


レナの言葉のどこからどこまでが本当なのか?


仕事で遅くなると言われたら、実際はどこで何をしていようが、それ以上何も聞けない。


自分の知らない間に、レナがどんどん遠くへ行くような気がした。



(どうせ、レナは遅くなるんだし…どっかでメシでも食って飲んで帰ろう。)


なんとなく、いつもとは違う店に行こうと思い立ったユウは、普段あまり歩かない通りにある一軒のバーを見つけて、そのドアを開けた。


カウンター席に座り、ビールと料理を適当にオーダーすると、タバコに火をつけた。


煙を吐き出し、ビールを飲む。


(付き合い出してすぐの頃、レナと二人で、よく飲みに行ったな…。)


二人で並んでお酒を飲みながら、いろんな話をした。


(いつもオレがビールで、レナは白ワイン…。子供の頃の話とか、学生時代の話とか…離れてる間の話もしたな…。楽しかった…。)


二人が休みの日には、手を繋いでスーパーへ買い物に行ったり、ドライブに行ったりした。


隣で楽しそうに笑っていたレナを思い出す。


(嘘ついてたとは思えないよ…。)


レナが言った言葉のどちらが本当で、どちらが嘘なのか。


もし、ユウと離れていた間に他の男と付き合っていた話が本当だとしても、それは仕方がないことだと思う。


レナが誰かに恋をしていた過去があっても、それを責める権利なんて誰にもない。


実際自分だって、たくさんの女の子と関係を持った。


レナのいない寂しさを埋めて欲しくて、レナの夢を見せて欲しくて、相手なんか誰でもいいと誘われるがままに体を重ねた。


自分の方がずっといい加減なことをしてきたのだからレナの過去を責めるつもりなんてない。


ただ、どちらが本当だとしても、レナがユウに嘘をついたのは事実だ。


ユウは、それが一番悲しかった。


そして自分にも、レナに隠したい過去がある。


レナに責められた時も、後ろめたさで何も言えなかった。


一生会うことのない人間の話をされるだけならともかく、過去に関係を持った相手が今、すぐ近くにいると言う状況は、不安にならない方がおかしい。


もしかしたら過去に関係があったかも知れない男や、レナを本気で狙っているかも知れない男と、二人で会ったり飲みに行ったりしていることを夫である自分が責めるのは、いけないことだろうか?


過去がどうであれ、今は自分の妻なのだから、自分だけを見て欲しい。


他の男の所へなんか行かせたくない。


他の誰よりも、自分を愛して欲しい。


(世界にオレとレナの二人だけなら…って、昔よく思ってたな…。他の男にレナを奪われる心配も、レナがオレ以外の男を好きになる心配もなくて…。結局、オレってあんまり成長してないんだな…。)


ユウは苦笑いを浮かべてビールを飲み干す。


(世界に二人だけなら…オレがレナ以外の女の子を抱くことも、そのせいでレナを不安にさせることも、なかった…。)



店内が混み始め賑やかになってきた頃、カウンターでビールを飲んでいるユウの隣に、一人の男性客が座った。


その男はユウの顔を見て、驚いた顔をする。


「片桐先輩じゃないですか。一人ですか?」


「水野…。あぁ、うん…一人だよ。」


水野はユウににこやかに話し掛ける。


「ここで会うの初めてですね。」


「この店、今日、初めて来たから。」


「そうなんですね。僕は職場が近いので、よく来るんです。」


水野はビールをオーダーして、ユウにまた話し掛ける。


「片桐先輩、高梨先輩と結婚したんですよね。おめでとうございます。」


「あぁ…うん、ありがとう。」


水野はビールを飲みながら、歯切れの悪いユウの様子を窺っている。


「先輩たちって変わってますよね。」


「えっ?!」


水野の言う言葉の意味がわからず、顔をしかめた。


「結婚してても、お互いに別の人との付き合いは公認なんですね。」


「どういう意味だ?」


「片桐先輩、ケイトと付き合ってるでしょ?」


水野の思わぬ言葉に、ユウは眉をひそめる。


「付き合ってない。」


「あれ?そうなんですか?取材に行ってもただならぬ雰囲気だし、ケイトが片桐先輩の話ばかりしてるので、僕はてっきり…。」


「ロンドンでの音楽仲間だ。」


「ただの友達には見えなかったけど…。じゃあ高梨先輩と相川さんはいいんですか?この間、この店で二人でいるの見掛けましたけど…。」


「昔の知り合いなんだってさ。」


「へぇ…。じゃあ、僕も誘って大丈夫ですね。学生時代の後輩だから。」


「なんだよ、それ…。」


ユウが水野のストレートな言葉に戸惑っていると、水野は悪びれた様子もなく笑う。


「高梨先輩、片桐先輩とケイトがイチャイチャしてるの見て寂しそうだったんで。」


「イチャイチャなんてしてない。」


「あれ?僕の気のせいかな。片桐先輩って、すごい神経してますよね。奥さんの前で他の女の人とベタベタしたりキスしたりして。僕は無理だな。」


「オレからしたんじゃない。」


「一緒でしょう。じゃあ片桐先輩の前で、僕から高梨先輩にキスしてもいいんですね?」


「いいわけないだろ!!」


ユウが思わず声をあげると、水野は呆れたように肩をすくめた。


「勝手だな…。高梨先輩が泣くわけだよ。」


「レナが…泣く?」


「片桐先輩って、奥さんのこと、全然見てないんですね。」


「えっ…。」


「高梨先輩のこと、全然わかってない…。」


水野はビールを飲み干して席を立った。


「じゃあ、失礼します。またライブ会場で。」



水野が去って一人になると、ユウはタバコに火をつけ考える。


(レナが…水野の前で、泣いてた…?)


レナが仕事場で泣くとは思えない。


二人は仕事以外で会っていたのだろうか?


(だんだんわからなくなってきた…。)



“奥さんのこと、全然見てないんですね。”



“全然わかってない…。”



レナのことは、ずっと見てきたはずだし、誰よりもわかっていると思う。


少なくとも、水野よりはわかっているはずだ。


(それとも、オレの知らないレナを、水野は知ってるのか…?)




撮影を終え、いつもより少し遅めに帰宅したレナは、夕飯を作り、翌日から家を空けるユウのために、着替えを鞄に詰めていた。


(明日からツアー先に行くのに、こんなに遅くなって大丈夫なのかな…。)


時刻はもう11時になろうとしている。


時計を眺めていたレナが、ため息をついて立ち上がった。


(お風呂、先に入っちゃおうかな…。)



お風呂から上がったレナが、脱衣所で体を拭いていると、玄関のドアが開く音がした。


(ユウ、帰って来たんだ…。)


レナが急いで髪を拭いていると、脱衣所のドアが開き、洗面所で手を洗おうとしたユウと目が合った。


(……!!)


レナは慌てて、バスタオルで体を隠す。


ユウは、そんなレナから目をそらし、黙って手を洗う。


(ユウ、私にはもう、興味もなくなっちゃったのかな…。)


ついこの間までは、レナが断っても“一緒にお風呂に入ろう”と言って甘えてきたり、レナの体を見たがっていたはずなのに、ユウはレナの方を見ようともしない。


(私が他の人としたって言ったら、見たくもなくなっちゃったんだ…。)


いつも“愛してる”と、レナの体に愛しそうに触れ、優しく抱いてくれたユウが、まるで見たくもない物を見た時のように目をそらした。


レナの方を1度も見ようともせず、その場を去ろうとしたユウの背中に抱きつき、レナは小さく呟く。


「私…そんなに汚れてる?こんな私は、もう嫌い…?」


ユウは何も答えない。


「嘘ついて、ごめんね。私はユウに、わかって欲しかっただけなの…。」


レナはユウを抱きしめる手をゆるめる。


「ひとつだけ…聞いてもいい?」


「うん…。」


「ケイトとは音楽仲間だって言ってたよね…本当に、ケイトとは何もなかったの?」


「……うん…。」


「そう…。」


レナはユウから手を離してユウに背を向けた。


ユウが脱衣所からいなくなると、レナは小さく呟く。


「嘘つき…。」


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