彼女の嘘

それからレナは、何事もなかったように毎日を過ごした。


朝起きて朝食を作り、洗濯をして仕事に出掛ける。


帰りが遅くなったユウが夕飯を食べられなくても、気にしないで、と笑う。


あの夜のレナはなんだったのだろうと、ユウは不思議に思いながらも、日々の仕事に追われていた。




そんなある日、レナはヒロに呼び出され、`ALISON´の事務所を訪れた。


なんの用だろうと不思議に思いながらも、レナは案内された会議室でヒロと対面した。


「悪いね、急に呼び出したりして。」


「いえ…ユウが何か?」


「違うよ、今日は旦那じゃなくて、レナちゃんにお願いがあってさ。」


「私に…?」


写真のことかと思いながら、レナはヒロの言葉を待つ。


「今度、アイツらとケイトがコラボするの、知ってるよね?」


「まぁ…。」


ケイトの名前を聞くと、レナの胸はまたざわざわと嫌な音をたてる。


「オレも、女の子とコラボしたいなーと思って。」


「はぁ…。」


一体なんの話だろうと、レナは首を傾げる。


「レナちゃん、学生時代の音楽の成績は?」


「5段階評価の5…でしたけど…。」


「すげーな。音楽得意だったんだ。」


「まぁ…そうですね…。」


「レナちゃん、進学校でいつも成績がトップだったって、ユウが言ってたけど、ホント?」


人前で歌うのが苦手だったレナは、よく先生に頼んでテストの順番を後回しにしてもらった。


テストさえクリアできれば、元々音楽の好きなレナは、いつも音楽の成績は5だった。


そのおかげで他の教科も優秀だったレナは、通知表はいつもオール5で、テストの順位はいつもユウと首位を争っていた。


「いつもではないですよ。ユウと争ってた感じです。」


「ああ…アイツも頭いいもんな。オレのせいで高校中退させちゃったけど…。」


ヒロはタバコに火をつけると、少し笑ってレナを見る。


「ユウとは最近うまくいってる?」


「ハイ…まぁ、なんとか。」


「そっか…。」


ヒロは煙を吐き出して、頬をかく。


「いろいろ気になってんだろ?」


「えっ…。」


「隠さなくてもわかるから。」


「……。」


何も言えずうつむくレナの顔を見つめながら、ヒロは優しく微笑む。


「アイツは優しいけど、弱いからな。自分に嘘はついても、大事な人には上手な嘘をつくこともできない。オレは、嘘をつくことも優しさだと思うんだけどな…。」


「それって…。」


「オレは、ユウとケイトがどんな関係だったかぐらい、だいたいわかってるよ。レナちゃんも薄々は気付いてんだろ?」


「…もしかしたらって思ってました…けど、ユウは何も言わないから…知らなくて済むなら、もうこれ以上、知りたくもない過去を知りたくないって…知ってなんになるのって…思ってました…。でも…。」


「ケイトか?」


レナは静かにうなずいた。


「日本に戻ったユウが幼なじみの私を選んだのは、懐かしくて勘違いしただけだって、言われちゃいました…。ユウのこと、ずっと好きだったって…。ユウもそう思ってるんだと思ってたって…。」


「…罪な男だな。」


「ハイ…。小さい頃からユウとずっと一緒にいたはずなのに、私はユウの気持ちにも、自分の気持ちにも気付かなくて…そんな私のことをユウは避けるようになって…。ユウは何も言わないで一人で決めて、ロンドンへ行ってしまったんです…。ロンドンに行ってからのユウのことは、私は何も知りません…。だけど、過去に誰と何をしていたか知らなくても、私の知ってるユウが、私だけのユウなんだから、それでいいんだって、自分に言い聞かせて…。」


「……そんなに無理しなくてもいいんじゃねぇか?聞きたいことは聞けばいいし、怒ったって責めたっていいんだ。新婚なんだから、今のうちにできるケンカはしとけばいいよ。そんな思いを押し殺してさ、この先何年も、言いたいことも言えないで一緒に暮らしてくのは、正直つらいだろ?」


「私、もう充分、ユウの過去を聞いて不安になって、悩んできました…。それでも、ユウはちょっとしたことで不安になって落ち込んで、悪い方へ悪い方へ考えちゃうから、できるだけユウを不安にさせないようにって思ってます…。自分が不安になることで、ユウを不安にさせるくらいなら、私は何も知らない方が幸せなんじゃないでしょうか…。」


ヒロはタバコを灰皿の上で揉み消して立ち上がると、レナの頭を優しく撫でた。


「強いな…。それとも、アイツのために、無理して強くなろうとしてんのか…。」


「無理なんて…。」


レナはうつむいて、涙が溢れそうになるのをこらえた。


「つらい時はつらいって言えばいいんだ。オレは、レナちゃんを娘だと思ってる。オヤジの前では無理すんな。」


レナはヒロの温かい言葉に、ポロポロと涙をこぼした。


「本当は…過去に関係のあった誰かの影が見えるたびに、またユウが私を置いてどこかへ行ってしまうんじゃないかって、不安で…怖くて…苦しい…。」


「ちゃんと思ってること言えんじゃん。苦しくて壊れちまう前に、ここで全部吐き出しちまえ。オレが受け止めてやるから。」


「私、ユウを信じてるって言いながら、本当はいつも不安で…それでもユウを信じよう、信じたいって…。そんなの、信じてるって、言えないですよね…。」


「それでいいんだよ。好きなら不安にもなるし、疑ったり嫉妬したりしても、最後は信じようって思えるなら、それでいい。そうやって夫婦の絆ってのは深まっていくんだろ?」


「そう…なんですか?」


「そんなもんだよ。一度も疑わないなんて、あり得ないだろ?人間なんだから。」


レナは指で涙を拭って、小さく微笑んだ。


「私も、人間ってことですね。」


「そうだよ。完璧でいる必要なんてない。むしろ、完璧な人間なんていねぇだろ?」


「ふふ…。少し、気がラクになりました。」


「こんなんでラクになれんなら、話ぐらいいつでも聞くぞ?」


「お父さんだから?」


「そうだな…。どうせならダディがいいな。」


「ダディ、ありがとうございます。」


「おう。かわいい娘ができて嬉しいねぇ。」


レナはヒロと一緒にコーヒーを飲みながら、自分にも3人目のお父さんができたことを嬉しく思った。



「それで…さっきの話なんですけど、コラボって…。」


「ああ、そうだった。レナちゃんさ、歌ってみない?」


「ハイ?!」


レナは思いがけないヒロの言葉に驚き、目を丸くする。


「あの…私、歌手ではありませんけど…。」


「いや…前からレナちゃんいい声してるなーって思ってたわけよ。オレも女の子のボーカル迎えてコラボしたいんだけど、なかなかいい子が見つからなくてさぁ。そんで、今回の曲にピッタリなのがレナちゃんだった。それだけ。」


「でも…いきなりそんなこと言われても…私、歌のレッスンとか受けたこともありませんし、人前に立つのは苦手で…。」


「そうかなぁ。前のファッションショーの時なんか、他のどのモデルよりも堂々としてた気がするけど。」


「あの時は必死で…。」


「なんとかなるって、オレもいるし。とりあえず、レコーディングだけでもどう?」


「えぇっ…。」


「ダディの頼み、聞いてくれるかい?」


ヒロの期待のこもった熱い瞳に圧倒されて、レナは思わずうなずいた。


「よっしゃ、決まりだな。」


(あっ!しまった…つい…!!)


「それじゃあ早速練習を…。」


「いや…あの…。」


レナが慌てて取り消そうとすると、ヒロはニヤリと微笑みながらレナを見た。


「ダディの頼み、聞いてくれるよね?」


「ハ、ハイ…。」


(え、笑顔で威嚇された…!!)


ヒロは嬉しそうに笑ってレナの頭を撫でた。


「いい娘を持って幸せだな、オレは!いい子だなぁ、レナは。」


(怖いダディ持っちゃった…。)


「あ、この話は、タクミ以外のみんなには秘密だから。」


「タクミくん以外…?」


「今回の曲、作詞がタクミなんだよ。みんなには誰が歌うか知らせずに、曲のレコーディングだけやらせるから。」


「そうなんですか…?」


「だから、ユウにも秘密ってことで。」


「わかりました…。」


(ホントに私でいいのかな?)


「音源渡すよ。スマホ貸して。」


「あ、ハイ…。」


ヒロはパソコンからスマホに曲のデータを送ると、自分のスマホを取り出した。


「連絡先、交換な。」


「ハイ…。」


嬉しげに連絡先を交換すると、ヒロはレナにスマホを返した。


「ちゃんと名前のとこに、ダディって入れとくように。」


「ふふ…わかりました、ダディ。」


その後、レナは次にスタジオで会う約束をして、優しいダディと別れ会議室を後にした。




その頃ユウは、ケイトとのコラボ曲のレコーディングを終えて帰り支度をしていた。


(良かった…今日は早く帰れるな…。)


なんとなく渡しそびれたままの誕生日プレゼントを、今日こそはレナに渡そうと思いながら、ユウはスタジオを出た。


「ユウ!!」


名前を呼ばれて振り向くと、ケイトが駆け寄って来て、ユウに抱きついた。


「おい、ケイト…いきなり抱きつくなって。」


「いいじゃない、会いたかった!!」


なかなか離れようとしないケイトの頭をポンポンと優しく叩くと、ユウは体からケイトの腕をほどいた。


「あのさ、オレには奥さんがいるんだよ?」


「それがどうかした?」


「それがどうかしたって…。」


呆れ気味に呟くユウにまたケイトが抱きつく。


「好きなんだからしょうがないでしょ?」


「でしょ?って言われても…。」


ケイトのされるがままになりながら、ユウは困った顔でケイトを見ていた。



会議室を出て階段を降りていたレナは、そんな二人の姿を運悪く目撃してしまう。


(まただ…。私のいないところでユウは…。)


足早に階段を駆け降りると、レナはギュッと口元を結んで、事務所を出た。


(私がなんにも知らないと思って…。)


ユウがその気なら、自分も嘘をついてみよう。


ユウが過去を隠し通すつもりなら、何も知らなずに騙されているふりをしよう。


そして、有りもしない過去をそれとなく話してみよう。


自分の知らない、知りたくもない相手の過去を知らされた時、どんなに不安になるか、ユウはわかっていない。


(もう、一人で不安になって泣くのはやめるんだから…。)




レナは帰宅すると、いつも通りに夕飯の支度をして、ユウの帰りを待った。


さっき帰り支度をしたユウを見掛けたはずなのに、ユウはなかなか帰って来ない。


(きっと、ケイトと一緒にいるんだ。)


おおかた、ケイトの強引な誘いを断れないで、バーにでも行ったのだろう。


(また週刊誌に写真載せられても、今度は助けてあげないんだからね。)



レナは一人で食事を済ませ、シャワーを浴びて缶ビールを手に、自分の部屋に入る。


ヒロからもらった曲を聞こうと、スマホにイヤホンをつけると、ビールを飲みながら曲に耳を傾けた。


(これ、私が歌うの?)


タクミが作詞したと言うその歌詞は、どことなく自分に似ていて、苦笑いが漏れた。


(さすがタクミくん…。)


`ALISON´の曲の作詞の多くを手掛けているだけあって、タクミの言葉には無駄がない。


的確に心の奥の部分をわしづかみにされるような感覚に、レナは息を飲んだ。


(成り行きとは言え引き受けちゃったんだし、こうなったら、なんでもやってやる…。)


レナはベッドに横になり、何度もその曲を聞きながら、眠りについた。



“あなたのすべてが知りたいの


たとえ心を切り裂かれても


あなたのすべてが知りたいの


胸の痛みに泣き疲れても”



眠りの中で、レナは何度も口ずさむ。


(私は…私の知らないユウのすべてを、受け入れられるの…?)




ユウはケイトの強引な誘いを断りきれず、1杯だけと約束をして、バーに来ていた。


1杯だけの約束のはずが、もうすでに4杯目のビールが半分ほどなくなっている。


「ケイト、そろそろ帰ろう。」


ユウが腕時計を見てケイトの肩を叩く。


去年のクリスマスにレナからプレゼントされた腕時計の針は、もう11時を回っていた。


(また遅くなっちゃったよ…。)


「嫌。まだ帰らない。」


「だってほら、もう遅いし。」


ユウがケイトに時計を見せると、ケイトはユウの左手に光る結婚指輪をじっと見た。


「だってユウは…あの子の所へ帰るんでしょ?そんなの嫌…。」


「あのさ…オレは、彼女の夫だから。妻の所に帰るのは当たり前だろ?」


「嫌…。なんでそれが私じゃないの?」


「それは…オレが好きなのは、彼女だから。」


「ユウはひどいよ…。あの子のことを想いながら…何度も私を抱いてたのね…。ユウも私を好きなんだと思ってたのに…。」


「ごめん…。オレは…ずっと、彼女のことを忘れたことなんてなかった…。」


「もういい、聞きたくない。」


ケイトは立ち上がって、拳でユウの胸をドンと叩いた。


「私の方が好きだって、必ず言わせてみせるから。」


ユウはケイトをタクシーに乗せ、ケイトから聞き出した滞在先のホテルの名前を告げると、運転手に「お釣りはいいから」と、1万円札を手渡した。



ユウも大きく息をついて家路を急ぐ。


本当は早く帰って、レナの喜ぶ顔が見たかったのにと思いながらも、さっきのケイトの言葉が脳裏をよぎる。



“あの子のことを想いながら、何度も私を抱いてたのね。”



レナを忘れたことなんて1度もなかった。


だけど、自分に嘘をつき、ケイトを傷付け、結局はレナを裏切った。


(最低だ…。やり直せるなら、12年前の誕生日に戻りたい…。)



レナとテーマパークに行った18歳の誕生日、勇気を出してレナに想いを告げていたら、こんな最低な自分になることはなかったのかも知れない。


少なくとも、レナを想いながら、他の女の子を抱くことなど、なかったのかも知れない。


(過去のことをいくら悔やんでも…もうやり直せない…。)


そばにいるのに手が届かないレナを、どんなに好きでもどうにもならないと、自分一人で勝手に答えを出して、逃げ出してしまった。


あの時、ちゃんと言葉にして伝えれば、レナは自分を受け入れてくれたかも知れない。


でも、傷付くことを恐れ、レナを失うのが怖くて、想いを伝えられなかった。


(あんなに好きだったレナを、忘れられるはずなんてなかったのに…。)




翌日。


音楽雑誌の撮影のためにレナは`ALISON´のメンバーとケイトと共にスタジオにいた。


傍らには、ケイトの記事を担当している水野が控えている。


「高梨先輩、今日もよろしくお願いします。」


「あっ、水野くん。こちらこそよろしく。」


「この間の写真、社内でも評判でした。」


「良かった。急な仕事だったから、ちょっと心配してたの。」


「さすがは高梨先輩ですね。」


「ありがとう。」



親しげに話すレナと水野を見て、ユウは言葉を失う。


(アイツは…水野って、あの水野?!なんでこんな所にいるんだ?)


レナから何も聞かされていないユウは、水野の姿に驚きを隠せない。


そんなユウに、水野の方から近付いてきた。


「片桐先輩、お久し振りです。僕、今は音楽雑誌の編集部にいるんです。ケイトの担当をしてるんですよ。この間、急病で来られなくなったカメラマンの代わりに、高梨先輩に来ていただいて。本当に助かりました。今日はこの後、インタビューもありますので、よろしくお願いします。」


「そっか…そうなんだ…。よろしく…。」


(レナ、何も言ってなかったぞ?)


レナの方をチラッと見ると、レナは黙々と撮影の準備をしている。


中学時代、同じ吹奏楽部の後輩だった水野は、レナに好意を寄せていた。


高校生になっても水野はレナのいる写真部に入部し、レナが2年の秋に部長になった時、水野は副部長をしていた。


高3の夏休み前に学校を辞めてロンドンに渡ったユウは、その後のことを知らない。


(まさかな…あれから何年経ってると思ってんだよ。もう、いい大人だぞ?)


離れている間のレナのことを知らない。


須藤との婚約のことだけは聞いたが、それ以外のことは、よく知らない。


(レナは、オレと付き合うまで誰とも付き合ったことがないって言ってたから…それだけは確かなはずだけど…。)



ユウは、時折笑みを浮かべながら水野と今日の撮影の段取りを話しているレナを見る。


(随分楽しそうに話すな…。オレの方、見ようともしないよ…。)


ほんの些細なことなのに、ユウはレナのことが気になってどうしようもない。


「ユウ、どうしたの?」


ケイトに声を掛けられ、ユウはハッとして振り返る。


「ああ、いや…なんでもない。」


「彼女、水野と知り合いなの?」


「学生時代の後輩なんだ。」


「へぇ。懐かしいと、勘違いするかもね。」


「えっ?!」


「昔好きだった相手なら、尚更でしょ?」


ケイトの言葉に、ユウは拳を握りしめて、日本語で小さく呟いた。


「違う…。オレのレナへの気持ちは…勘違いなんかじゃない。」


「えっ、何?」


「…なんでもない。」


ユウはレナと水野に背を向けて、メンバーの元へ向かう。


そんなユウの様子を、タクミは少し離れた所でじっと見ていた。


(すっごく気になってるくせに…。)



レナはカメラを構え、ファインダー越しにユウを見ていた。


いつものユウとは別人を見ているような、不思議な気分だった。


レナは淡々と撮影を進める。


ユウのワンショットを撮り終えると、次はユウとケイトのツーショットの撮影だった。


ケイトをスタジオに呼び、レナが立ち位置の指示を出そうとすると、ケイトはそれよりも早くユウのそばに駆け寄り、ピッタリ寄り添った。


「お、おい…。そんなにくっつくなよ…。」


「どうして?別にいいじゃない。」


(レナが見てるのに…!)


ユウがあたふたしていると、レナは淡々とカメラを構えた。


「撮影始めますね。」


ユウにピッタリと寄り添いながら、ケイトはレンズ越しのレナに挑発的な笑みを浮かべる。


ユウはそんな所をレナに見られていることに、居心地悪そうな顔をする。


レナは表情を崩すことなくユウに指示を出す。


「ユウさん、表情固いです。もっと自然な表情でお願いします。」


(ユウさんって…。こんな状況でどんな顔すればいいんだよ?!)


針のむしろに座らされているような、大きな壁に両側から挟み潰されているような、いたたまれない気持ちでユウはカメラから目をそらす。


「ユウさん、目線こちらで。」


「ハイ…。」


レナは何事もないような顔をしてシャッターを切る。


「それじゃ、次はお二人向かい合わせで、見つめ合う感じでお願いします。」


(ええっ?!もう勘弁して…。)


ユウがうろたえていると、ケイトはユウの首に腕を回し、抱きつくように、更に体を密着させる。


「こんな感じでいい?」


「ハイ、いいですね。」


「ユウ、こっち向いて。」


ケイトがユウの頬に手を添える。


何も言わず、黙々とシャッターを切り続けるレナの様子に、ユウは泣きたくなった。


(もう…消えたい…。)


ユウが必死で表情を作っていると、ケイトは突然背伸びをしてユウの唇にキスをした。


(えっ?!)


ユウは慌ててケイトを押し退ける。


レナは黙ってその様子を撮り終えると、ファインダーを覗いたまま、誰にもわからないように一瞬、奥歯をかみしめた。


そして顔を上げて笑みを浮かべる。


「ハイ、お疲れ様でした。」


レナはその表情を崩さずに二人に背を向けカメラを置いた。


「ルミちゃん、次はトモさんね。」


「ハイ。」


レナはパソコンに向かって、今撮ったばかりのユウとケイトの写真を確認する。


表情を崩すことも、こちらを振り返ろうともせずに、淡々と仕事をするレナの背中を、ユウは後ろ髪を引かれる思いで見つめた。



(レナ…何考えてるんだろう…?あんなところ見て、なんとも思わないのか?プロだから…?それとも…もうオレのこと、なんとも思ってないのか…?)


どんなに心の中で問い掛けても、レナはユウの方を振り返らない。


ユウはスタジオを出ると、ため息をついて喫煙所へ向かった。




(あーちゃん、プロだな…。)


撮影の様子を、スタジオの隅で見守っていたタクミは、あんな状況でも仕事に徹しているレナの顔を見つめていた。


(それにしてもケイトのヤツ…調子に乗りすぎだろ…。ハッキリしないユウもユウだ。いい加減、優柔不断な態度やめろよ…。そんなことしてると、本気であーちゃん奪っちゃうぞ…。)




レナはパソコンの画面に映るユウとケイトの姿を見ながら、感情を押し殺していた。


(何が悲しくて、こんな写真を撮らなきゃいけないんだろう…。)


ケイトは終始、挑発的な笑みを浮かべ、レナの目の前でユウに抱きつき、キスをした。


(私が何をしたって言うの…?)


ケイトにしてみれば、レナはユウを奪った憎い相手なのかも知れない。


でもレナは、ケイトの存在など知らなかった。


突然現れたケイトが、レナからユウを奪おうとする。


(今更こんなことくらいでうろたえてどうするの?過去にユウが誰と何してたって、ユウは私の夫なんだから、ユウは絶対に渡さない。ユウは私のこと、勘違いなんかじゃなくて、ちゃんと愛してくれてる。ケイトの知らないユウを、私は知ってるんだから…。)



ユウは喫煙所でタバコを吸いながら、さっきのことを考え込んでいた。


(またレナにあんなところ見られた…。不可抗力とは言え、もう他の子とそんなことしないって約束したのに…。)


いくら仕事であっても、自分ならレナが他の男とキスをしているところなんて見せられたら、きっと耐えられないだろう。


実際に見ていなくても、もしかしたらと思うだけで、おかしくなってしまいそうだ。


(オレが好きなのはレナだけだ…。)



ケイトのことはキライではなかったけれど、恋をしていたわけでもないとユウは思う。


ユウにとってケイトは、音楽仲間で、気の合う友人で、妹のようでもあった。


そんなケイトをお酒の勢いに任せて抱いたのは、レナのいない寂しさを埋めてレナの夢を見させてくれる相手が欲しかったから。


ただ、それだけのことだった。


(でも、もしオレがケイトの立場だったら…?レナが他の誰かを想いながらオレに抱かれていたとしたら…。オレの知らない別の男と結婚したから、オレのことはもう要らないと言われたら…。)


考えるだけでも死んでしまいたくなる。


そんなことをレナに言われるくらいなら、その手でオレを殺してくれと言うかも知れない。


(オレ…最低過ぎる…。自分がされたら耐えられないようなこと、してきたんだ…。)


もうどうしていいのかわからなくて、ユウは膝に肘をつき、両手で顔を覆った。


(オレは一体、どうすればいい?)



喫煙所で長い時間を過ごしていたユウを、タクミが呼びに来た。


「ユウ、撮影。」


「ああ、わかった…。」


重く沈んだ気持ちをなんとか切り替えようと、ユウは大きく息をつく。


「ねぇ、どんな気分?」


「えっ?!」


「かわいい奥さんに、昔の彼女とのキス写真を撮られるなんて、なかなかないよね。」


「……彼女じゃない…。」


「そう思ってたのユウだけだよ。相手が自分のこと好きだって知ってて、優しくして、やることやっといて、さんざん期待持たせておきながら、好きじゃないから彼女じゃないって…。そんなひどい話ってある?今からでも責任取ってあげたら?」


「何言ってんだよ!オレには妻が…レナがいるんだぞ?」


「ユウといて、あーちゃんは本当に幸せだと思う?ユウの前で無理して笑って、自分の気持ちを押し殺して…。寂しそうな顔してさ、知って傷付くくらいなら、知らなくて済む過去なんか知らない方がいいって。幸せな新妻にはとてもじゃないけど見えなかったよ?あーちゃんのためにも人生やり直すなら早い方がいいじゃん。あーちゃんのことなら、オレが幸せにしてあげるから心配ないよ。」


「何言って…!」


「今のユウで、オレよりあーちゃんを幸せにできる自信なんてあるの?」


タクミの言葉に深く胸をえぐられるような痛みを感じて、ユウは唇をかみしめた。


「オレは…レナを誰よりも幸せにするって、約束したんだ…。」


「そうだったね。ユウ、嘘つきだ。」


「嘘なんかじゃない!!」


大きな声をあげるユウを、タクミは意地悪く微笑みながら見ている。


「無理しなくていいのに。ユウが無理しなくても、あーちゃんを幸せにしたい男なんて、いっぱいいるよ。オレは、あーちゃんさえいいって言ってくれるなら、いつでもその覚悟はあるから。」


ユウは拳をギュッと握りしめた。


「レナは渡さない。絶対、誰にも渡さない。」


「前にも言ったじゃん。選ぶのはあーちゃんだって。さ、そろそろ行かないと、みんな待ってるよ。行こう。ユウもプロなら、カメラの前でくらいちゃんとしなよ。奥さんが頑張ってるんだからさ。」


タクミは言いたいことを言うと、さっさとスタジオに戻った。


ユウは何も言い返すことができずに、タクミの背中を見ながら、その後を追う。


(せめてこれ以上…情けないオレの姿をレナに見せたくない…。)



スタジオに戻ると、メンバー5人の写真と、その後ケイトも加えた6人の写真を撮った。


レナは何事もなかったように、淡々と撮影を進めた。



撮影をすべて終えると、レナは水野とパソコンを見ながら、仕事のやり取りをし始めた。


ユウはそんなレナの姿を見て、声を掛けることもできずに背を向けた。


ユウがスタジオを出ようと歩き始めると、ケイトはユウに駆け寄り、腕を絡める。


「ユウ!」


「だから、あんまりくっつくなよ…。」


「いいでしょ?今更そんなこと言う仲でもないじゃない。」


「ケイト…!」


ユウはレナに二人の仲がどうだとか言う話を聞かれたくなくて、慌ててケイトの腕を掴んでスタジオを出た。


そんな様子を、水野が不思議そうに見ている。


「さっきから思ってたんですけど…高梨先輩と片桐先輩、結婚したんですよね?」


「うん。」


「でもケイトと片桐先輩は…。」


「ロンドンにいた頃の音楽仲間なんだって。二人は特別仲が良かったみたいだから。」


表情ひとつ変えずに淡々と話すレナを見て、水野は眉をひそめた。


「高梨先輩は、平気なんですか?」


「…夫の過去をいちいち詮索してたら、身がもたないよ。」


「いや、過去の話じゃなくて、今の話をしてるんですよ?」


「えっ?」


「今、先輩は…幸せなんですか?」


レナは作り笑いを浮かべ、わざと明るい声で答える。


「…うん…。だって、新婚だよ?幸せに決まってるでしょ?」


「本当に、そうですか?」


「そうだよ。私って、そんなに幸薄そう?」


「いや…。僕には先輩が…泣いてるように見えたので…。」


水野の一言に、レナは自嘲気味に笑った。


「こんなことで、いちいち泣かないよ…。泣いてなんになるの?」


「少なくとも僕は、先輩のその涙を受け止めます。」


心の内を見透かすような、水野の真剣な眼差しに耐えられなくて、レナは目をそらした。


「水野くん…。私は大丈夫だよ。ありがとね、心配してくれて。」


「話くらい、いくらでも聞きます。いつでも連絡してくださいね。」


水野は優しく笑うとレナの手に名刺を握らせ、軽く頭を下げてそばを離れた。


手渡された名刺には、プライベート用なのか、携帯電話の番号とメールアドレスが、手書きで書き添えられていた。


(私って、そんなに分かりやすいの?昔はマユから、無表情って言われたような…。)


レナは名刺をポケットにしまうと、撮影機材の片付けを始めた。



スタジオの隅で一部始終を見ていたタクミが、唇の右端を上げてニヤリと笑ってスタジオを後にした。


(ここに来て新たなライバル出現…?面白くなってきた…。)



1日の仕事を終えたレナは帰り支度を始めた。


(気が重い…。)


こんな日に限って、仕事が終わるのがやけに早いことが恨めしい。


(帰る場所なんて、私にはひとつしかない…。でも…今日は、なんだか帰りづらいな…。)


レナは荷物を手にノロノロと立ち上がる。


(仕方ない…。帰って夕飯でも作ろう…。)



事務所を出てすぐにスマホが鳴り、レナは足を止めてスマホの画面を確認する。


スマホは相川からの着信を知らせている。


「もしもし?」


「レナ、今、ちょっといいか?」


「うん。もう仕事終わったから。」


「ならちょうどいい。今から時間あるか?」


「うん、何?」


「レナに渡すものがあってな。忘れないうちにと思ってさ。」


「いいけど…。」


「メシ食って、一杯どうだ?」


「私、車だから、お酒は…。」


「そうか…。じゃあ、メシだけでも。」


(どうしようかな…。)


「レナ?」


「あ、ごめん。」


「あっ、そうか。レナ、人妻だったな。」


「まぁ…。」


(何?その人妻って響き…。)


「旦那に叱られちまうか。」


相川の言葉に、レナは急激にユウに対する怒りが湧いてきて、眉を寄せた。


「ううん、大丈夫。どうせ、今日も遅いと思うし。食事も要らないと思うから。」


レナは返事をしてから、ふと考える。


「やっぱり、車置いて帰る。飲みに行こう。」


「いいのか?」


「私にも、たまには外で飲みたい時もある。」


「レナがそう言うなら、まぁいいか。」


レナは相川の行きつけのバーの地図をスマホに送ってもらい、歩いてそのバーに向かった。



(たまには外で飲んで、気晴らしでもしよう。ユウは良くて私はいけないなんて、おかしいもんね。どうせ、今日も遅いんでしょ…。夕飯作ったって、どうせ無駄になるんでしょ…。どこで誰と何してるかもわからないユウを、一人で待ってる私も…バカみたい。)


歩きながら、ヤケ気味の思いが頭をぐるぐる巡る。


夕陽が沈んで薄暗くなり始めた街の景色が、じわりとにじんだ。


(あんなに、二人で幸せになろうって約束したのに…。もう他の子のところには行かないって…約束したのに…。婚姻届け書く時…レナには嘘つかないって言ったくせに…。ユウの…嘘つき…。)



相川と待ち合わせをしたバーに着くと、先に来ていた相川がレナを見て軽く右手を上げた。


「急に悪かったな。」


「ううん。」


「何飲む?」


(いつもは白ワインかビールが多いけど…今日はなんとなく、いつも飲まないような物がいいな…。)


「相川くん、何飲むの?」


「ジントニック。」


「じゃあ、私もそれ。」


ジントニックと、料理を何品かオーダーして、相川はタバコに火をつける。


(ユウのタバコとは違う匂いがする…。)


「タバコ…いやだったか?」


流れて行くタバコの煙をじっと見つめるレナに気付いた相川が尋ねると、レナは静かに首を横に振る。


「大丈夫…。」


運ばれて来たジントニックで乾杯すると、レナはグラスに口を付け、ジントニックを一口飲んだ。


「飲めるか?」


「大丈夫だよ。私、成人してるから。」


「おかしなこと言うね、オマエ。」


「そう…?」


カウンターの上に料理が並ぶと、バイト先での思い出話をしながら、ゆっくりとお酒を飲み、食事を楽しんだ。


(誰かと夕飯食べるの…久し振りかも…。)


隣にいるその相手がユウでないことに違和感を覚えるものの、今日は部屋で一人、冷めた料理を眺めながらユウを待たなくてもいいんだと、ほんの少し寂しさが和らぐ気がした。


(ユウとじゃなくても…笑えるもん…。)


レナは2杯目のジントニックを飲み干した。


「そう言えば…渡したい物って、何?」


「あぁ…これ。」


相川は一冊のハードカバーの小説を鞄から取り出した。


「あっ…これ…。」


「そう。昔レナから借りて、返せないまんまでレナが大学卒業してバイト先辞めて…あれからすぐに上京したんだろ?」


「うん。よく捨てずに持ってたね。」


「捨てるわけないだろう。レナから借りた大事な本だぞ?」


「大袈裟…。」


ジントニックのお代わりをオーダーして、レナはグラスを傾ける。


「そうか?まぁいいや。長いこと借りっぱなしになったからな。今日は本貸してもらったお礼におごるよ。」


「えっ、そんなのいいよ。気にしないで。」


「あのなぁレナ、ここは素直に甘えとけ。女はそれくらいでちょうどいいんだから。」


「どういう意味?」


不思議そうに首を傾げるレナに、相川は小さく笑った。


「ちょっとくらいずるくても、女の弱さを見せて甘えられる女は、かわいいってこと。」


レナは不服そうに呟く。


「何それ…。」


「レナは苦手そうだよな。」


「うん…そういうの、できない。」


「だよな。でもオレは、レナのそんなところキライじゃない。」


「えっ?!」


「けっこう、気に入ってる。」


「……。」


「まぁいいや。レナは相変わらずだな。」


「それって成長してないってこと?」


「いや、いい意味で変わらないってことだ。」


「意味わかんない…。」


相川はおかしそうに笑うと、二人分のジントニックのお代わりをオーダーした。


「わかんないか…。そういうところも相変わらずだな。」


レナは相川の言葉の意味がよくわからなくて、何度も首を傾げた。


(まぁいいか…。誰かと飲むお酒はおいしいもんね…。一人よりずっといい…。)




久し振りに誰かと飲むお酒がおいしくて、レナはつい、早いペースで飲みすぎてしまった。


(ちょっと…ふわふわする…。)


「レナ、大丈夫か?ちょっと飲み過ぎじゃないか?」


「ううん…大丈夫…。ちょっとふわふわするだけ…。」


レナはトロンとした目で、小さく笑う。


「ほらみろ、酔ってんじゃねぇか。送るから、そろそろ帰ろう。」


「うふふ…楽しいね…一人じゃないって…。」


「レナ、無防備過ぎだろ。人妻がそんなんでいいのか、旦那に叱られるぞ?」


「叱ったりしないよ…。そんなこと、ユウにできるわけないの…。」


レナはカウンターに肘を置いて、頭を乗せて目を閉じる。


「そんなに無防備だと、襲っちまうけど。オレんち、連れて帰るぞ。」


「それはダメです…。私、他の人とは考えられないから。」


相川がレナの頭をくしゃっと撫でた。


「じゃあ、オレの気が変わらないうちに、旦那のところに帰りな。」


「そうだね……私の帰る場所は…そこしかないんだもんね…。」



バーで酔いざましに水を飲んで、少し酔いが落ち着いたレナをタクシーに乗せると、相川は一緒に乗車して、マンションまで送った。


「一人で大丈夫だったのに…。」


「いや、なんかあったら困るだろ。」


「ごめんね。」


「謝ることない。誘ったのはこっちだしな。」


「でも、楽しかったよ。」


「そうか?ヤケ酒くらいはいつでも付き合ってやるって言いたいんだけどな…。酔ってあんまり無防備な顔されると、身の安全を保証できないから。それでもいいなら付き合うけど。」


レナは相川のストレートな言葉に、思わず笑ってしまう。


「じゃあ、やめとく。私、酔った勢いで一生後悔したくはないから。」


「おう、そうしとけ。」


マンションに着くと、レナは一人でタクシーを降りた。


「今日はありがとう。」


「いや、あんま無理すんな。」


「…うん。」


「じゃあ、また仕事でな。」


タクシーが遠ざかると、レナは住み慣れた部屋へ向かう。


(結局…帰る場所はひとつしかない…。)





ユウはリビングでレナの帰りを待っていた。


時刻は12時を過ぎている。


レナからはなんの連絡もない。


電話をかけても繋がらず、メールを送っても返事がない。


(どうしたんだろう?まさか事故とか…。それとも…今度こそオレに嫌気がさして…。)


今日の撮影のことが気になって、ユウは気が気でない。


(帰ってこないつもりなのか…?誰かと一緒なのか…?)


ユウが唇をギュッとかみしめた時、玄関のドアが開いた。


(帰って来た…!!)


少しふらつく足取りで、レナがリビングに入ってくる。


「おかえり。遅かったから心配した。」


レナは笑みを浮かべてユウを見た。


「ただいま。ユウ、今日は早く帰ってたんだ。珍しいね。今日も夜中までケイトと一緒なのかと思ってた。ユウとケイトはホントにいい友達なんだね。特別仲良しだもんね。」


「……レナ、飲んできたんだ…。」


「そうだよ。いけない?」


「いけなくはないけど……ひとりで?」


ユウは聞きにくそうに尋ねる。


レナの顔から、浮かべていた笑みが消えた。


「それは言わなきゃいけないの?」


「いや…。そういうわけじゃないけど…。」


「だよね。そんなこと、ユウには言えるわけないよね。」


「えっ…。」


「私が誰とどこで何しても、ユウにはそれを責めることなんてできないでしょ?」


ユウはレナの言葉に何も答えられない。


「知りたいなら教えてあげる。相川くんと一緒にいたの。お酒飲んでたの。ちょっと飲み過ぎたから、マンションまでタクシーで送ってもらった。」


「……相川って人と…どういう関係?」


ユウはレナから目をそらしたまま尋ねる。


「大学時代にバイト先が一緒だった。」


「…それだけ?」


レナは少し悲しげな目でユウを見て、ユウに背を向けた。


「昔、付き合ってた。」


「えっ?!」


「ユウには黙ってたけど、ホントは初めて付き合った人は水野くん。ユウが急にいなくなっちゃう前に告白されたから。水野くんとはキスしかしなかったけど…。相川くんとは大学時代に付き合ってた。彼が私の…初めての人。ユウが初めてって言うのは、嘘なの。普通に考えて、あの歳まで1度も経験がないとか誰とも付き合ったことないとか…あり得ないでしょ?」


思いがけないレナの言葉に、ユウは呆然としている。


(えっ…?好きになったのも、付き合ったのも…全部オレだけだって言ってたの…嘘…だったのか…?ずっとオレを、騙してたのか…?)


「…って、言ったらどうするの?」


レナは振り返って、ユウの目をじっと見る。


「えっ?!」


「どっちも私が言った言葉。ユウの知ってる私だけが、私のすべてじゃないよ。ユウならわかるでしょ?私にユウの知らない過去があっても…秘密にしても、嘘ついても…私は、私なの。嘘をついた私はもう、愛せない?ユウは…どっちの私を信じるの?」


レナはユウに背を向けて自分の部屋へ入った。


リビングではユウが呆然と立ち尽くしていた。


(今の…ホントにレナなのか…?まるで別人みたいだった…。)


今までに見たことのないレナの冷たい表情。


この1年間、一緒に過ごしてきた時間を否定するように、初めての恋なんて全部嘘だと言い放つ冷たい声。


(どういうことなんだ…?あんなレナ…オレの好きなレナじゃない…。小さい頃からずっと好きだったレナじゃない…。)




ユウに嘘をついた。


今まで大切にしてきたユウへの想いを自ら踏みにじるような、酷い嘘をついた。


(ユウに嫌われても仕方ないような酷いこと、言っちゃった…。)


今まで胸に押し込めてきた不安が抑え切れなくて、自分の過去を話さないくせに、レナの過去を知りたがるユウのずるさに、悲しくなった。


(ユウが私を愛して、信じてくれてるのなら…どっちがホントの私か、わかるでしょう…?)





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