ざわつく心

4月5日。


二人の誕生日。


`ALISON´の新しいアルバムが発売され、ユウたちは今日も、テレビ出演やラジオ出演などで忙しい。


付き合い出したばかりの去年は、二人で思い出のテーマパークへ遊びに行った。


(今日はユウの帰りも遅くなるみたいだし…お祝いどころじゃなさそう…。)


事務所のはからいで休みをもらえたレナだったが、ユウが朝から仕事に出掛けて一人になった部屋で、いつものように家事をして過ごした。


(ケーキでも作ろうかな…。)


気分だけでもと思い、レナは足りない材料を買いに出掛け、一人でキッチンに立ち、生クリームとイチゴのケーキを作った。



“ユウお誕生日おめでとう”



チョコのプレートに、ホワイトチョコのペンでそう書いて、ケーキの上に飾り付けた。


買い物に出掛けた時、レナはユウに似合いそうな長袖のシャツを見つけて、プレゼント用にラッピングしてもらった。


(これからは毎年、一緒に思い出を作って行こうって…約束したんだもんね…。)


ケーキを作り終わると、レナはユウの好きな料理を作る。


(どんなに遅くなっても…ユウは私の元に帰って来てくれる…。)


レナはユウの優しい笑顔を思い浮かべながら、たくさんのユウの好きな料理を作った。





ユウの帰りを待っていたレナは、時計を見てため息をついた。


(誕生日…終わっちゃったな…。)


時計の針は2時をさしている。


(私の誕生日も、終わっちゃった…。)


何度スマホを確認しても、ユウからの連絡はない。


(私、バカみたい…。)


レナは静かに立ち上がり、ユウのいないベッドに体を横たえる。


(仕方ないのはわかってるけど…やっぱり、ユウがいないと寂しいな…。)


ただひとつ歳を取るだけの日なのに、ユウがいたらそれだけで特別な日になる。


(ユウ…今頃、どうしてるんだろ…。)


レナはユウの温もりを求めるように、布団にくるまってうずくまる。


(なんだか…ユウが、どんどん遠くに行っちゃうみたいだよ…。)


寂しさに耐えるレナの頬を、温かい涙が伝う。


結婚したら、誰よりもそばにいられると思っていたはずのユウが、やけに遠い。


(今頃…あの子と一緒にいたりして…。)


レナは、自分の知らないユウの過去を、ユウが話してくれないことにも、自分から聞けないことにも、これでいいと言い聞かせながらも、不安に飲み込まれそうになる。


(こんなんで私たち…この先も、ちゃんと夫婦としてやっていけるのかな…。)


まだ新婚だから仕方ないと思う気持ちと、新婚なのにと思う気持ち。



(新婚って…何?)



結婚したばかりの自分たちは、間違いなく新婚なのだろう。


だけど、新婚夫婦と、そうでない夫婦の境目はどこにあるのだろう?


(車の免許証みたいに、結婚して1年以内は新婚とか?それとも、子供ができるまで?でも、それだと、子供ができなかった場合はどうなるの?)


白浜で会った関西のオバチャンたちに言われた“新婚さんはエエなぁ、かわいいわぁ”と言う言葉を思い出す。


(あれって…どういう意味?初々しいとか…そんな感じかな?)



新婚と言うと思い浮かべる、甘い生活。


けれども最近は、ユウとはそんな甘い時間など過ごしていないとレナは思う。


(いつから…?一緒にお風呂に入ってから?)


あれからユウが、レナを求めて来なくなったとレナは気付く。


(ユウとそうするのが嫌なわけじゃないよ…。私はユウが好きだもん…嫌なわけない…。ただ…いくら夫婦と言っても、体ばかりの関係になるのが怖いだけ…。)


かつてレナを想いながら他の人を抱いていたユウが、どんどんレナに体ばかりを求めるようになるのが、たまらなく怖い。


(体さえ繋がっていれば、私じゃなくてもいいのかも…とか…。他の人とできない代わりに、私に同じことを求めてるのかもとか…。私、そんなことばっかり考えてる…。)


どんどん激しくレナを求めるようになっていくユウに、不安を感じる。


(どんなに考えてもわからないよ…。だって、私は…ユウしか知らない…。)



たくさんの人と経験を積んできたユウと、ユウ以外に恋愛経験のない自分とでは、考え方も何もかも、違うのかも知れない。


他の人とそんなことをしたいとは全く思わないけれど…ユウはどうなんだろう?


“すべてにおいて満足している”とユウは言ってくれたけど、それは本当だろうか?


今でも同じことを思っているだろうか?


(そんなこと…聞けないよ…。)


優しくレナを抱きしめるユウを想いながら、レナは一人、眠りについた。




誕生日のお祝いに、とメンバーたちに誘われ、バーでパーティーを開いてもらったユウは、少しふらつく足取りで帰宅した。


時刻は、午前3時半になろうとしている。


真っ暗なリビングの電気をつけると、ユウは冷蔵庫から水を取り出して勢いよく飲んだ。


(かなり飲まされたな…。)


水を飲みながら、ユウはテーブルの上に置かれたケーキに目を留めた。


(誕生日ケーキ…。)


レナが作ったケーキの横には、リボンのかかった包みが置いてある。


(レナ…待っててくれたんだ…。)


今日は帰りが遅くなると言い残して出掛けたのに、レナは自分のためにケーキを作り、プレゼントを用意して待っていてくれたのだと、ユウは申し訳ない気持ちになる。


(レナの誕生日でもあったのに…。)


一緒に思い出を作って行こうと約束したのに、誕生日を一人で寂しく過ごさせてしまった。


レナがユウを待っている間、ユウは仲間たちから誕生日を祝ってもらい、賑やかな時間を過ごしていた。


(またレナに寂しい思いさせた…。)


ユウは部屋に入り、ベッドのそばに行くと、うずくまるようにして眠るレナの寝顔をそっと見つめる。


(また、涙の跡…。)


最近、どれだけレナを、たった一人で泣かせているのだろう?


翌日ユウが謝っても、レナは一度もユウを責めもせずに、気にしないでと笑う。


(ユウのバカ!!って…責めたって、怒ったっていいのに…。)


ユウは、気を遣って何も言わないレナに、寂しさを覚えた。


(何も言わないで…何もなかったような顔して…レナは嘘の笑顔を浮かべるんだ…。)


眠っているはずのレナが、夢を見ているのか眉をしかめて涙を流した。


(レナ…?)


「ユウ…行かないで…。」


涙を流しながら、レナが呟く。


ユウはたまらずレナを抱き寄せた。


「行かないよ…オレは、どこにも行かないから…。」


ユウはレナを抱きしめながら、レナの髪を何度も撫でた。


「オレが好きなのは…レナだけだから…。ずっと、そばにいるから…。」


ユウの腕の温もりを感じて、レナがゆっくりと目を開く。


「ユウ…。良かった…ここにいてくれて…。もう会えないかと思った…。」


「ごめん、レナ…。オレは、もう…どこにも行かないから…一人で泣かないで…。」


ユウはレナを抱きしめる腕に力を込めた。


「おかえりなさい…。」


レナはまつ毛を涙で濡らしたまま微笑む。


「ただいま…。オレが帰る場所は、レナのいるここだけだよ…。」


「うん…ありがとう、戻って来てくれて…。」


レナはユウの腕の中で、静かに呟いた。


「レナ…待っててくれてありがとう…。」


「うん…ユウ…。」


レナはユウにそっと口付けた。


「お誕生日、おめでとう…。」


ユウの胸に顔をうずめて、レナは幸せそうに微笑んだ。


「ユウ…愛してる…。」


ユウは、レナを強く抱きしめながら、目に涙を浮かべた。


「レナ…愛してる…。誕生日、おめでとう…。大事な日に、寂しい思いさせてごめん…。」


ユウに抱きしめられながら、レナはまた、静かに寝息をたて始めた。


安心したようにすやすやと眠るレナの髪に、ユウの涙が落ちる。


「愛してる…。」




翌朝、ユウがまだ眠っているうちに、レナは仕事に出掛けた。


ユウが目覚めてリビングに行くと、テーブルの上にはいつものように朝食が用意されていた。


(昨日のケーキは…?)


冷蔵庫を開けると、ケーキや手をつけていないたくさんの料理が、ラップをかけて所狭しとしまわれていた。


(料理もこんなに…。)


それなのにレナは、文句のひとつも言わずに、いつものように朝食を用意して出掛けた。


(レナ…どうして何も言わないんだよ…。それとも、何も言わないんじゃなくて…オレが、言えなくさせてるのか…?)




昨日の誕生日と言い、最近レナに一人で寂しい思いばかりさせているのが心苦しくて、ユウは朝食を食べながら、どうすればレナに笑ってもらえるのかと思いを巡らせた。


(考えたら、最近全然レナとゆっくりしてないな…。今日は早く終わるし…少しでも早く帰って、レナと一緒にゆっくり過ごそう。レナがオレにプレゼントを用意してくれてたんだし…オレも何か渡したいな。)



ユウは朝食を済ませてシャワーを浴びると、仕事までまだ時間があるので、早めに出掛けてプレゼントを探すことにした。


(何がいいかな?)


クリスマスのプレゼントを選ぶ時にも、随分悩んでやっとの思いで腕時計を選んだ。


(そう言えば…ホワイトデーは挙式やらパーティーやらで忙しくて忘れてたけど、レナにチョコのお返しもしてない…。)


ユウはたくさんの店の並ぶ通りを歩きながら、レナに喜んでもらえる物はないかとショーウィンドーを覗き込む。


(バッグか…いいかも…。)


ユウはそのショップに入り、あれこれと手に取ってレナに似合いそうなバッグを探す。


(これにしようかな。)


気に入った色とデザインの中から、レナが普段使っているのと同じくらいの大きさで、軽くて使いやすそうな物を選んだ。


レジに向かいかけて、たくさんの髪飾りがディスプレイされているのを見つける。


(髪飾りか…。そう言えばレナって、全然そういうのつけてないな。)


ユウはたくさん並ぶ髪飾りの中から、淡い桜色のバレッタを手に取った。


それは桜の花が描かれていて、桜の季節に生まれたレナにピッタリだと思ったユウは、それを少し遅いホワイトデーのプレゼントにすることにした。


バッグとバレッタをラッピングしてもらい、紙袋を受け取って店を出る。


(気に入ってくれるかな?)


ユウはそれを持って、事務所へ向かった。


今日は例のケイトとのコラボの打ち合わせで、できあがっている曲の中からライブで演奏する曲を選んで、事務所と同じ建物の別の階にあるスタジオで練習をすることになっている。


(早く終われるといいんだけどな。)


レナの喜ぶ顔が見たい。


レナの笑顔が見たい。


泣きながら微笑むレナじゃなくて、心から笑うレナを、思いきり抱きしめたい。


(最近オレ、レナにごめんばかり言ってる…。今日は、いつもそばにいてくれてありがとうって、言いたいな…。)




`ALISON´のメンバーがそろって少しすると、プロデューサーのヒロが現れた。


「ヒロさん、おはようございます!!」


「おう、おはよう。」


ヒロがイスに座ると、スタッフがコーヒーを運んだ。


「それにしても急な話だな…。」


「スミマセン、ケイト側から猛烈なオファーがありまして…社長もすっかり気迫に負けてしまったようでして。」


「ケイトか…。ロンドンでバンドのボーカルやってる頃は、いまいちパッとしない子だったけどな…。えらくなったもんだ。」


ヒロはタバコに火をつけ、煙を吐き出しながらパソコンを操作して、楽曲のデータを開き、曲に耳を傾けつつ、譜面に目を通す。


「これ、ハヤテの曲か。」


「ハイ。」


「詞は?タクミか?」


「そうです。」


「タクミは名前通り、言葉を巧みに操るな…。かわいい顔して、腹ん中ひねくれてやがる。おもしれぇ。」


ちょっと皮肉っぽい恋の駆け引きの歌は、ヒロの持つケイトのイメージに合ったのか、ヒロはタバコを吸いながらニヤニヤしている。


(まただよ…こえぇよ、ヒロさん…。)


ユウはやんちゃなヒロの悪そうな笑顔を見て、背筋が寒くなる。


「めちゃくちゃおもしれぇこと思い付いた…。オレってやっぱ、天才だな…。」


ヒロが唇の右端を上げながらニヤリと笑う。


(めちゃくちゃ怖いんですけど!!ヒロさん、一体何するつもりだ?!)


「タクミ、ちょっと来い…。」


ヒロはタクミをそばに呼び、他の誰にも聞こえないような小さな声で、タクミに耳打ちしている。


それを聞きながら、タクミも次第にニヤニヤし始め、しまいにはヒロとそっくりの悪そうな顔でニヤリと笑う。


(親子…じゃないよな?一緒にいると、いろいろ似てくる…?)


「面白いっすね、やりましょう!!」


「だろ?オマエならそう言ってくれると思ったんだよ。頼んだぞ、オレのかわいい息子。」


「任せて下さい、オヤジ!!」


「だからオヤジはねぇって!!」


「それじゃあダディ!!それともパパがいいですか?古風に父上とか?素直に父ちゃんとか?」


「…もう好きにしろ…。」


あのヒロをやり込めてしまうタクミに恐ろしさを感じながら、ユウは二人の内緒話が気になっていた。





「片桐さん、突然で悪いんだけど、頼んでいいかな?」


レナが仕事が終わって帰り仕度をしていると、須藤の代理で事務所を切り盛りしている先輩の川田が声をかけた。


「どうしました?」


「山根くん、急病だって。この後の撮影無理らしい。僕もこの後まだ撮影の予定が入ってるんだよね。片桐さん、お願いしてもいい?」


「まぁ…大丈夫ですけど。」


「音楽雑誌の撮影らしいよ。英語話せる人がいいんだって。ちょっと時間ギリギリだけど、これ詳細ね。じゃあ申し訳ないけどよろしく。」


「わかりました。」


レナに急な仕事を引き受けてもらうと、川田は慌てて次の仕事に向かう。


(私も行かなきゃ…。)


川田から受け取った時間と場所のメモを見て、レナも慌てて事務所を出た。


(ちょっと帰りは遅くなりそうだけど、きっとユウも遅くなるんだろうし…。)


家に帰って夕飯を用意して待っていても、最近ユウの帰りは真夜中になることが多い。


(夕飯作ったって、ユウが帰って食べてくれるかもわからないし…どうせ一人で待って…待ちくたびれて、一人で寝るんだもん…。遅くなっても仕事してる方が、まだマシだよね…。)


カメラの入った重いバッグを肩にかけ、指定されたスタジオへ足を運んだ。



スタジオに入ると、アシスタントに入っていた後輩のルミが、ホッとしたようにレナに駆け寄ってきた。


「先輩!良かったぁ。もう、どうなることかと思いましたよぉ。」


「お待たせ。スタンバイは?」


「完了してます。」


「まだ時間ある?」


「コーヒーでも飲みます?」


「いや…そうじゃなくて…でもせっかくだからもらおうかな。急いで来たら喉渇いた。」


「どうぞ。」


レナはルミから缶コーヒーを受け取り、スマホを取り出した。


(一応、連絡だけはしないとね…。)



“急な仕事が入ったので遅くなります。

もしユウが早く帰ってお腹空いてたら、

冷蔵庫の中の料理を温めて食べてね。”



ユウにメールを送信して、コーヒーを飲む。


そして、スタジオ入りした今日の撮影の被写体となるその人を見て、レナは目を見開いた。


「え……?」


(音楽雑誌の撮影…。英語話せる人がいいんだって…。)


川田に言われた言葉を思い出しながら、レナはその人を見た。


(ケイト…。)


ケイトはレナに気付くと、一瞬目を見開いて、レナに近寄って来る。


「あなた、ユウの…。カメラマンだったの?」


「ハイ。今日の撮影をするはずだったカメラマンが急病で来られなくなったので、代わりに私が…。」


「ふうん…。まぁいいわ。さっさと始めてちょうだい。」


レナのそばにいたスーツ姿の男性が、嬉しそうに声を上げた。


「高梨先輩じゃないですか!!お久し振りです!」


「え?」


「僕ですよ。水野です!!」


その男性は、中学の吹奏楽部と、高校の写真部の後輩の水野孝だった。


「水野くん…。」


「僕、音楽雑誌の編集部にいるんです。それで今回はケイトの記事を担当してます。」


「そうなんだ…。」


「じゃあ、早速ですけど、よろしくお願いします。」


「うん…。」


最近、やけに昔の知り合いに会うことが多いなと思いながら、レナはカメラを構えた。


「それでは始めます。よろしくお願いします。」


レナは複雑な思いを胸の奥にしまい、プロとして淡々と撮影を始めた。




家に帰り、レナからのメールを見たユウは、ガックリと肩を落とした。


(なんだ…。遅くなるのか…。)


レナへのプレゼントの入った紙袋をソファーの上に置いて、ユウはシャワーを浴びて冷蔵庫から缶ビールを取り出した。


(夕飯…もう少し待ってようかな…。)


ソファーに座ってビールを飲みながら、ユウはぼんやりとタバコに火をつける。


(静かだな…。)


いつも待っていてくれるレナがいないと思うだけで、一人の部屋はやけに静かだ。


(レナはいつも、どんな気持ちでオレの帰りを待ってるんだろう…。)



一緒に暮らし始めて1年が過ぎた。


レナはいつも、ユウのために夕飯を作り、笑顔でユウの帰りを待っていてくれる。


最近はユウの帰りが真夜中になることが多く、レナは食べてもらえなかった料理を冷蔵庫にしまい込み、一人で涙を流しながら眠っている。


(寂しいよな、すごく…。)


ただ帰りの遅い夫を待つのが寂しいだけじゃなくて、レナの中にも何か不安なことがあって泣いているのかも知れない。


(知らない過去…か…。)


自分の過去を話すことができなくて、レナにも聞くことが出来ない。


(今日の急な仕事って…あの相川ってヤツと一緒じゃないよな?)


やけに親しげに“レナ”と呼ぶ相川は、一体レナとどういう関係なのだろう?


(まさか…昔の男…?いや、レナはオレ以外の男とは付き合ったことがないって言ってたし…キスもオレとしか、したことがないって…。)


レナの言葉を信じているはずなのに、途端に不安がユウを襲う。


(何疑ってんだ…。レナはオレだけのレナだろ…?他の誰のものにもならないで、オレの帰りを、ずっと待っててくれたんだろ…?そんなレナが、浮気なんてするはずない…。)


ユウは不安を打ち消すように、缶ビールを飲み干した。




撮影を終えたレナが、バッグにカメラをしまっていると、ケイトがレナに近付いてきて話しかけた。


「あなた…ユウの幼なじみって本当?」


「ハイ…。」


「ユウは私のこと、何か言ってた?」


レナは黙って首を横に振る。


「ふうん…。あなたに言ってないんだ。ロンドンで、私たちがどんな関係だったか。」


ケイトは意味深な言葉で、レナを挑発的な目で見ている。


「音楽仲間…でしょう?」


「まあね。それも間違いじゃない。ユウは私のいたバンドにヘルプで入ってたから。でも、私たちは、バンドの活動以外でもよく一緒にいたの。一緒に食事をしたり、お酒を飲んだり…。ユウは私を恋人だとは言ってくれなかったけど…私は、ユウが好きだった。だから、何度かユウが抱いてくれた時は嬉しかった。きっとユウも私を好きなんだって思ってた。」


「………。」


(やっぱり…。)


レナは黙ってケイトの話を聞きながら、知りたくもないユウの過去を、もうこれ以上聞きたくなくて、耳を塞ぎたい衝動に耐えていた。


「私は今もユウが好き。ユウが私といる間もあなたのことをずっと好きだったなんて、私は絶対信じない。ユウが日本に帰ってあなたと付き合ったのも、結婚したのも、ただ懐かしさで勘違いしただけよ。」


ずっと黙ってケイトの話を聞いていたレナが、ポツリと呟く。


「私は…ユウを、信じてる…。」


レナはカメラの入ったバッグを肩にかけると、ケイトに頭を下げた。


「お疲れ様でした。失礼します。」


涙が溢れそうになるのをこらえながら、レナはスタジオを後にした。



スタジオを出て早足で歩いていると、目の前がじわりとにじんで、レナの視界がぼやけ、頬を伝ってポトリと涙が落ちた。


(もう…何も知りたくない…。ユウが誰と何をしていたかなんて…知りたくない…。)


レナはとめどなく溢れる涙を隠すようにうつむいて、ただ歩き続けた。



ひたすら歩いて事務所に戻ったレナは、車の中で一人、涙が乾くのを待ちながら、ぼんやりと考えていた。


(ユウには、私には話したくない過去がたくさんあるんだな…。私は…ユウにすべてを話したから…今更隠したい過去なんてない…。)



もし自分にも、ユウに話していない、ユウに知られたくない過去があったとしたら、それを知ったユウはなんと言うのだろう?


ユウ以外の人と付き合って深い仲になった人がいたとしたら、ユウも不安になったりするのだろうか?


(まさかね…。ユウにとっては、そんなこと、たいしたことじゃないよね…。だってユウは…いろんな人と付き合って、たくさんの人と関係を持って…。私なんて、そのうちの一人に過ぎない…。)


ケイトに懐かしさで勘違いしただけだと言われたことを思い出すと、レナの胸はまた嫌な音をたてて痛んだ。


(10年も離れてたんだもん…。幼なじみの私が懐かしくて昔の気持ちを思い出しても、不思議じゃない…。)



それでもユウは、一生レナを愛して守ると言ってくれた。


ずっと一緒に生きて行こうと約束してくれた。


(神様に、誓ったんだよ…。)


リサの作ってくれた真っ白なウェディングドレスを着て、大切な人たちの前で、ユウを愛して一生添い遂げると誓ったのはついこの間のことなのに、もうずっと前のことのように感じる。


左手の薬指に輝く、まだ新しい結婚指輪を見つめて、レナはため息をついた。



(帰ろう…。私が帰る場所は、ユウのいる場所しかないんだから…。)


レナはエンジンをかけ、ゆっくりとアクセルを踏んで、車を発進させる。


(なんにも聞かなかったことにしておこう…。ユウが何も言わないんだから…私は…ユウを信じよう…。)




レナが帰宅すると、時刻は11時を過ぎていた。


ユウはリビングのソファーでうたた寝をしている。


(今日は早かったんだ…。)


レナがキッチンに行くと、水切りかごにはキレイに洗われた食器が並んでいた。


(食べてくれたんだ…。)


レナが水を飲んでリビングに戻ると、ユウが眠そうな目をこすりながら起き上がる。


「おかえり…。」


「ただいま。遅くなってごめんね。」


「うん、お疲れ様。」


「夕飯、昨日の残りで悪かったけど…ちゃんと食べてくれたんだね。」


「うまかったよ。」


「良かった。」


ユウはソファーに座って、レナを手招きする。


「ん…?」


レナが近付くと、ユウはレナを長い腕で抱きしめた。


「レナ…最近、寂しい思いばっかりさせてごめんな。」


「……ううん…大丈夫だよ。私は…ユウがいてくれたら…それだけでいいの。ユウが、私だけのユウでいてくれたら、それだけで…。」


レナはユウの温かい胸に顔をうずめた。


一度は止まったはずの涙が、また溢れ出す。


(ユウは…勘違いなんかで私を選んでくれたんじゃないよね…?)


「オレはどこにも行かないよ。オレは、レナだけのオレだから。」


「うん…。」


(私…ユウを信じて、いいんだよね?“誰に何を言われても、オレにはレナしかいないよ”って…言ってくれたよね?)


胸に顔をうずめて涙を流すレナの髪を優しく撫でながら、ユウはただレナを抱きしめた。


「ずっとこうしてたいな…。」


「うん…。」


ユウの腕に抱かれながら、今ここにいる自分だけの知っているユウが、本当のユウであって欲しいとレナは思う。


「ユウ…。」


「ん?」


「キス、して…。」


「うん…。」


ユウは優しくついばむように、レナの唇に何度もキスをした。


「もっと…して…。」


「うん…。」


長い長いキスの後、ユウはレナをギュッと抱きしめ、吐息混じりに囁く。


「もっと…レナを感じてもいい?」


「うん…。」


ユウはレナを抱き上げ、ベッドへ運ぶ。


レナを優しくベッドへ寝かせ、ユウはシャツを脱ぎ捨てると、レナに覆い被さるようにしてレナを見つめた。


「レナ、愛してる。」


「ユウ…もう、どこにも行かないでね…。」


「行かないよ…。ずっとそばにいる。」


「うん…。ユウ…愛してる…。」


ユウの頬にそっと触れると、レナはユウの唇に口付けた。


ユウはレナの体に優しく触れながら、何度も何度もキスを繰り返す。


(もう…私以外の人を抱いたりしないで…。)


レナはユウに抱かれながら、祈るように目を閉じて涙を浮かべた。



その夜、胸をかき乱す不安を消し去ろうと、レナは何度もユウを求めた。


(ずっと…私だけのユウでいて…。)




何度も愛し合った後、涙を浮かべながら眠ったレナの髪を撫でながら、ユウは、今夜のレナの様子がいつもと違ったと思っていた。


ユウからレナを何度も求めることはあっても、レナがこんなにユウを求めたことは、今までなかった。


(そんなに寂しかったのかな…。)


子供のようにすやすやと寝息をたてるレナの寝顔を見つめ、ユウはレナの涙の跡に口付ける。


(オレがまたどこかに行ってしまうんじゃないかって…不安だったから…?)


“ユウがここにいてくれたらそれだけでいい”と、不安そうに呟くレナの顔を思い出すと、ユウは胸が張り裂けそうになる。


(もう、レナにそんな顔させたくない…。)


ユウは胸の痛みをかき消すように、レナを抱きしめながら眠りについた。



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