マネキン男
久浄 要
第1話
ケータイ小説の恋愛部門で、めでたく文壇デビューを果たした現役の短大生、早川麻美の自宅のパソコンに不可思議なEメールが届いたのは、短大も夏休みに入り、世間では既に盆休みを故郷で過ごす人達の帰省ラッシュも始まりだした、真夏の猛暑も蒸し暑い、8月10日の事だった。
近頃では文芸雑誌や本の帯などでも
『130万人がこの本に涙した! ケータイ小説サイト『カクヨミ』や『ベータポリス』で100万ヒットを記録した名作! 才能溢れる恋愛小説家は、若干20才の現役短大生!』
などと紹介された事もある麻美であるから、どうせまたその日届いたメールも、嫉妬や羨望の入り混じった素人からの的外れな批評や、悪戯の類だろうと軽く考え、いつものようにコーヒー片手にパソコンのメールボックスを開くのだった。
出版社や友人達からのメールに混じって、それは思った通り、原稿の体裁をあしらった長い文章であった。
別段前もって通知らしきメールの類は一切もらっていないが、突然誰か未知の人間から原稿のようなものが送られてくる例は、これまでにもよくある事だった。
それらは大抵、長々しい退屈きわまりない文章ばかりだったが、出版社との次回作の打ち合わせも終わり、短大の同級生達が額に汗してアルバイトなどに精を出す中、とりあえず本の印税で懐には困らないが時間だけは膨大にある麻美は、作家らしい好奇心に駆られ、ひととおり読んでみようと思い立ち、受信トレイを開いてみる事にした。
それは思った通り、見た事もないアドレスから送信されていた。
Eメールには表題も署名もなく、本文もいきなり『親愛なるあなたへ』という呼びかけの言葉で始まっている。
出会い系サイトなどにありがちな、URL付きの迷惑メールでもない。
…手紙? それともラブレターかな?
そう思い、何気なく2行、3行と読み進めるうちに麻美はそこからなんとなく異常な、妙に気味悪いものを予感した。
そして持ち前の好奇心から、ぐんぐん先を読んでいくのだった。
※※※
親愛なるあなたへ
突然、私のような見知らぬ男からこのような妙なメールを出すご無礼、どうかお許し下さい。
あなたはさぞかし驚く事でしょうが、私は今、あなたの前に私が犯してきた、世にも不思議な罪の全てを告白しようとしているのです。
私はこの数ヶ月、この様々な人達の住む世界から姿を隠し、それこそ気狂いのような生活を続けてきました。もちろん、この広い世界に誰一人として私の所業を知る者などいないでしょう。
私はあなたの作品を読んだ今となっては、あなたがどんな人間かを考えると、もう夜も眠れません。
あなたの作品に出会わなければ、こうして慣れないパソコンで長々と文章を書く事など、生涯なかった事でしょう。
そんな僕の心に近頃、不思議な変化が起こりました。そして、私はどうしても、私の罪をあなたに懺悔せずにはいられなくなったのです。
色々と不審に思う所もあると思いますが、ともかくこのメールを最後までお読み下さい。そうすれば、どうして私がこんな気持ちになったのか、なぜこの懺悔の告白をあなたにしなければならないのか、全て明らかになる事でしょう。
さて…あまりに異常な話なので、どう話してよいやら…。とにかく順序だてて入力していく事にしましょう。
私は生まれつき、世にもめずらしい、醜い容姿の持ち主です。
体型も背筋のひん曲がった小男で、手足は枯れ木のように細く、幼い頃から同級生達からは『チビお化け』や『妖怪』などと忌まわしい呼び方までされ、虐められてきました。友人もなく、私はいつも一人ぼっちで人を避けるようにして生きてきたのです。
街を歩けば『気持ちが悪い!』とか『近寄らないで!』などというあからさまな嫌悪の声は当たり前。飲食店の従業員や喫茶店で働くウエイトレスですら私の姿からは目を逸らし、そそくさと注文を聞いて立ち去っては、陰でひそひそと誰かと噂話をしているような有り様でした。
『キモい』とか『死んでしまえ』とか『無理』などという言葉を投げつけられるのはまだいい方で、私はまだ若いうちから親父狩りやホームレスの人達のように、街を行く見知らぬ人達に路地裏で殴られたり、蹴られたりした事もあります。
私にとっておよそ人混みと呼ばれる場所はいつだって憎悪と恐怖の対象でしかなく、私をお化けや妖怪と忌み嫌い、蔑む人達はそれこそ私には得体の知れない怪物に見えた事でした。
私という男は、なんと因果な身の上に生まれてきたのでしょうか? 私は醜い容姿をしながらも、胸の内では人知れず、激しい情熱や夢に憧れていたのです。
私がもし豊かな家に生まれていたのなら金銭の力で様々な遊びに耽り、醜い容貌を整形手術で変える事もできたでしょうし、異性に触れる事もできたでしょう。
もし私に芸術的な素養があったのなら、小説や絵画、音楽の天分で醜い容貌や世の中の味気なさを忘れ、他人に認められる裕福な人生を過ごす事もできたでしょう。
しかし不幸な私はどの恵みにも属さず、醜く、哀れな職人の一人としてその日その日を生きて、暮らしを立てる以外に道はなかったのです。
私は工場で働く、しがない一介の技士…いわば職人にしか過ぎず、この年になるまで結婚はおろか、恋愛のチャンス一つにすら恵まれた事はありません。始めに断っておきますが、私は容姿の醜さからこの通り、誰にも見向きもされず、今まで日陰の人生をただ生きてきた男です。
この点は後々重要となりますので、どうかお見知りおき下さい。
そうでないと、万が一でも私とあなたが出会ってしまった時、あなたが卒倒するかもしれませんから…。長い月日の不健康な生活で爛れた醜い姿を、なんの予備知識もなくあなたの前に晒してしまうのは、私としても耐え難い事なのです。
私はまるで180度もタイプの違う、それも会った事すらないあなたにこんな不可思議なメールを送ろうとしているのですから実際、妙な気分ではあるのですが…。
私の専門は、マネキンのような人間サイズの大型の人形を作る事です。世間ではリアルドール職人とでも呼んだ方が通りはよいかもしれません。
リアルドールとはその名の通り、現実の人間に限りなく近付けた人形。それもただ工場で型に嵌めて、特殊樹脂を流し込んで大量生産されるだけの世間一般にいうマネキン人形などとは少し違っています。
あなたはフィギュアというものをご存知でしょうか? あるいはダッチワイフと呼ばれるものを、その手で触れた事はありますか?
私が説明するのもおこがましいのですが、世の中にはアニメの美少女のキャラクターやフィクションなど、二次元の世界を異性の対象とし、現実の世界に住む女性や男性を、興味の対象にできない人達がいます。
僕の仕事はそうした人達のニーズに合わせ、注文どおりの実寸とスリーサイズ、人間の皮膚に近い素材と質感を局部やその他に持たせ、表情を作り、最終的にはコスプレの衣装まで着せたりして(最初から裸の人形を要求してくる人もいますが…)クライアントの要望に応えるのです。
私の作る人形達はどんな難しい要望にも応え、リアルで精巧な仕事をするというので、小さな工房でも特別な部屋を用意され、表のマネキン工場の収入では得られない、特別な利益をあげておりました。
社長や工場長も私の仕事ぶりを誉め、仕事も上物ばかりを回してくれておりました。上質の物ともなりますと、注文主も妥協せず金を出すのがこの業界の面白いところです。コレクターやマニアと呼ばれる人達は、人形たちが使う小物やコスチューム、表情や可動部位の動き方に至るまで、一切の妥協など許さないのです。
私も職人の端くれです。中の素材に使うゴムや特殊樹脂の配合の度合い、色合いや質感、腕や足、腰のくびれや目の形、色、髪の毛一本一本の質感、各部の寸法や弾力など、1人1人の好みに合わせる為には、他の職人達にはおよそ想像のできない苦労がいるのです。
しかし、苦労すればしただけ、出来上がりの時の達成感と充実感は他の何物にも変えがたい、素晴らしいものでした。
生意気なようですが、私の作る一点モノは芸術家の作品のように、異彩を放つものだと自惚れる事もありました。
一つの仕事が終わると私はまず、女性の形をかたどったそれらの衣服を脱がしていきます。
メイド服に女子高の制服や水着。ドレスやナース服。チャイナドレスやファンタジ-系のローブ。はたまた特撮モノの衣装など、着ている衣装は全て実際の既製品なのです。ウェディングドレスや修道女の服、SMのボンテージなどの時もありました。
下着も高級なランジェリーやビスチェ、ガーターベルトなどを着けたアニメのキャラクターもあります。
私はその時ばかりは、まるで恋人と情事を交わす時のようにその首筋に、唇に、乳房に口づけし、腕に、足に、自らの指を這わせ、撫で、揉みしだき、その肌触りと感触を全身で味わうのです。
私の工房はいつも薄暗く、誰1人として現れる者などないのですから、私はマネキンや人形達の首や腕、足といったパーツがあちこちに投げ出された部屋で、偽りの恋人達と束の間の情事に耽り、己の欲望を満たすのです。
真っ暗で日の光の一筋とて射さぬ薄暗い部屋…。先生も想像してみて下さい。なんと妖しい魅力と甘美な匂いに包まれた空間でありましょうか!
そこでは人間が日頃、何気なく見ているマネキン達が、まったく別な、不思議な生き物として感じられるのです。五感は研ぎ澄まされ、衣擦れの音や艶めかしい彼女たちの吐息の一つ一つまでがリアルに感じられるのです。物言わぬ彼女達が、まるで私の愛撫の一つ一つに応えるように甘い声で喘ぎ、その囁き声が外に漏れはしないかと錯覚するほどです。
なんという気狂いじみた行いでしょう!
…先生、どうかこの私のあまりに露骨な描写の仕方に、お気を悪くしないで下さい。
私は人形との情事を終えると虚しくなり、工房の窓から差し込む夕日を眺めては、長く、暗い溜め息をつくのです。
私は醜い。世の中はもっと醜い。
こんな醜い世の中なんて、面白くもなんともないし、まともに生きてるなんてバカバカしい。
そしていつしか私は、ある怖ろしい考えに取り憑かれるようになっていきました。
ここまで読んできた先生なら、ある程度は察しはついている頃ではないでしょうか。
僕は日陰の人生を転げるように、余人には想像もできない、“ある犯罪計画”を実行する事にしたのです。
始めのうちはよくできた私の人形達を、見知らぬ他人に渡すのが惜しくなった気持ちから発露した思いです。
人形に入ってみると私の枯れ木のような腕は他のフィギュアと違い、マネキンにすっぽりと収まってしまうサイズなのです。そこで私はマネキンを内側からしか着脱できないように仕上げ、内側に食糧や水をしまい込むポケットまでつけ、他のマネキンに紛れ混む、この途方もない計画を実行したのです。
凄くドキドキしました。この醜い僕の誇大妄想が、いかに常識や法から外れた馬鹿げた行いであるかは充分に承知していました。
しかし私には自信がありました。私はマネキンの特性を、他の誰よりも知っている男なのです。他のマネキン達に紛れながら、私は息を潜めてほくそ笑んだ事でした。
発注先の伝票は、既に確認済みで故障したマネキンを一体、住所の表記へ送り付け、宅配便の業者に運んでもらうのです。私が送られる先は都内でも有名なデパートにある、女性用の高級ブランド服売り場でした。
最初に申しました罪の告白とは正にこの事なのです。私はマネキンの中から抜け出してはあちこちで盗みを働き、時には女性達の試着室を盗撮したり、見知らぬ人間達のプライベートな情報を握っては、ゆすりや恐喝を生業とするようになっていきました。
今では監視カメラの場所も動きや角度も、警備員が巡回する時間さえも把握できるまでに至り、私はマネキンの中を第2の人生の舞台として選んだのです。
しかし、なんとまあ世の中の女性達や買い物客というものは、男性がいない場所では、こう隙だらけに出来ているのでしょうか!
彼女達は服を選んだり、友人や店員さん達と会話するのに夢中で、目の前に僕のような男がいる事など気付きもしないのです。
試着室に近い場所にいる僕には、他人のスマートフォンや携帯電話や個人情報を特定できるものを拝借したり、プライベートな情報を盗聴してICレコーダーのアプリに記録するのは、訳もない事なのです。
女性達は特にハンドバッグに色々と物を詰め込む習性があるので、仕事は非常に容易いものでした。
最近では、ながら歩きだけでは飽きたらず待ち合わせに退屈すると誰もがケータイやスマホを触るようなご時世ですから、私のような人間…いや、人形にとっては日中でも実に住みやすい世の中になったものです。
閉店になればシャッターの降りた暗い店内を堂々と渡り歩き、様々な犯罪や下準備を実行出来る。入金機室や両替機室にだってカードキーで忍び込めます。たとえ防犯カメラがついていようと、スタッフの着ている服で堂々と忍び込めたりもします。実に簡単な事ではありませんか。
昼と夜。光と闇。法と混沌。現実と妄想の境目など、実にいい加減な化けの皮一枚にしか過ぎないのです。そして、それは人間とて同じ事です。
醜ければ、醜いなりの生き方をすればよかったのです。それだけの事だったのです。
たとえば最新の服が出ると、売り場のマネキンも当然模様替えを致します。
私は一度、全裸でこのマネキン人形の中に入ってみたら、どんな気持ちになるだろうと考えた事があります。
この薄いマネキン越しに、最新のコーディネートに着替えさせられたこの私を、女性達が間近で眺める!
もう想像しただけで、クスクスと笑いが込み上げてくるような光景です。女性客達のガールズトークときたら、まぁ赤裸々で男の視線がない場所の会話など聞くに堪えないものも多いのですが、裸の私が目の前にいても、平気で会話を交わすことでありましょう。
「わぁ、コレ可愛い!」
「この服、カッコいいよね~」
「ねぇねぇ、この間の合コンどうだったの? わざとお持ち帰りされてあげたんでしょ?」
「ああ、あの包茎? 金持ってそうだったからホテルまで行ったけど、臭そうだから帰った。もう二度と会いたくないな~」
「…マジ? 包茎とかありえなくね?」
「またあの今泉が言い寄ってきてさ~」
「あぁ、アンタのトコのあのハゲ上司? マジでキモいよね~」
「今度の会社の飲み会で睡眠導入剤でも盛ってやろうかな~」
「マジで? 超ウケる! 動画にアップしちゃえばよくない?」
「デブでキモいのしかいないよね~」
「オタクみたいな気持ち悪いのばっかりじゃん。いい男いないかな~」
「ねぇ? 金持ちとかいないかな~。あ、コレすっごいカワイイ!」
「ねぇ、コレなんか似合うんじゃない?」
「え~! 嫌よ。私、このマネキンよりスタイル悪いんだもん」
しかし、私はいつしかそうした悪行の数々も次第に慣れ、飽きてくるようになっていました。どうした所で性根も醜く、哀れなこの私が表の世界で生きていく事などできないし、いくらあがいた所で人並みの人生など送れる訳もないのです。どうした所で性根も醜く、哀れなこの私が表の世界で生きていく事などできないし、いくらあがいた所で人並みの人生など送れる訳もないのです。
私が思うに犯罪とは一度手を出したが最後、決して抜け出せなくなる薬物や、パチンコといったギャンブルの依存症のようなものなのではないでしょうか。刺激に慣れた私は退屈な毎日を送っていました。騒ぎになればなったで、逃げ出して機会を窺えばよいのです。今さら少々のスリリングさを味わった所で、長続きしないだろうという事もわかっておりました。
そんな時、私はある人に出会ったのです。それは私にとってまさに運命の出会いでした。
その人は友人と楽しくおしゃべりをしながら、マネキンの僕の着ている服を眺めては、品定めをしていました。
なんと素敵な人なのでしょう! 私は一目見て、その人の虜になっていました。もうその人の事で頭や胸がいっぱいでマネキンの中から飛び出さんばかりに嬉しくて、飛んではしゃぎ回りたい気持ちでした。
なんとしても私はその憧れの人に近付いてみたくなりました。私自身はマネキンですから人目を隠す空間さえあれば、あとは別段、怪しまれる事もないのです。
また、盗撮などと違いリアルタイムでその人を覗くという行為に、私は段々取り憑かれるようになったのです。
ここまで読めばもう、お分かりでしょう。私の意中の相手とは早川先生、あなたの事なのです。
願わくばこの醜い私の願いを聞き入れ、せめて哀れみの言葉の一つもかけてはもらえないでしょうか? このメールが届く頃には私は既にあなたの姿がよく見える場所におります。
先生、どうか私の切なる思いを受け止めて頂く訳にはまいりませんか?
どうか、どうかお願い致します!
※※※
メールはそんな熱烈な祈りの言葉で結ばれていた。
麻美は手紙を中ほどまで読んだ時には、もう既に怖ろしい予感で真っ青になってしまった。しかし、なんと怖ろしい事実だろう!
麻美は背中から冷水を浴びせられたような悪寒を覚えた。
そして、麻美は自分でも気づかないうちに、部屋の周りをそわそわと歩き回った。
あまりの事にぼんやりして思考がまったく定まらなかった。
家の周りを調べてみるべきだろうか? それとも本人と会って…。
…いやいや! どうしてそんな気味の悪い事ができるだろう。あの男は今もこの家を、いやらしい汚らわしい目で覗いているに違いないのだ。
その時だった。
突然、麻美のスマートフォンからメールの受信メロディが鳴り響いた。
死ぬほど驚いた。
麻美は動揺しながらも、とりあえず携帯を手に取った。
まさか…。
麻美は長い間ビクビクしていたが意を決し、とにかくメールを見てみる事にした。
発信者は同じ短大に通う親友の唯だった。
ホッとする麻美。
しかし、メールを開いた麻美はその内容に再び、驚く羽目になった。
そこには次のような文章が書いてあった。
『ヤッホー!eメール読んでくれた?
私もなかなか面白い話を書くでしょ?
今度、出版社の人にも見せてくれたら嬉しいなぁo(^o^)o
改めて…暑中お見舞い申し上げます(^-^)
暑いけど、お互い体に気をつけて残りの夏休みを頑張ろうね!
追伸
向かいのアパートの空き部屋と、ポストの中に素敵なプレゼントを用意したから、スッキリするがよいぞ(笑)』
麻美は呆れた。唯のあっけらかんとした性格に完全に騙されていた。
麻美はようやく違和感の正体に気付いた。
そうだったのだ。これは、江戸川乱歩の『人間椅子』のパクリではないか!
麻美は苦笑した。家のポストを開けてみる事にしよう。
ポストの中には宛名も消印もない茶色い封筒があった。
中からはマジックショーなどで使う、刃の引っ込むナイフが入っていた。
まったく唯ときたら…。あ、そういえば向かいの部屋にもプレゼントがあるとか…。
麻美は慌てて封筒を持ったまま、隣のアパートの二階へと駆け込んだ。
問題の部屋の鍵は閉まっておらず、中はフローリングの床が剥き出しのガランとした空き部屋。
部屋の隅には件のマネキン人形が、爽やかな夏の日差しを浴びてぽつんと立っている。
朝日に照らされたマネキンはなんだか間抜けな姿だった。
…ネタが分かってみれば部屋の隅に置かれた無表情なマネキン人形はどこか滑稽で、彼女がふざけてした悪戯もどこか微笑ましく映るのだった。
麻美はクスクスと笑いながら彼女に言われた通り、スッキリしようと思い立ち、おもちゃのナイフでマネキン人形を思い切り刺してやった。
ビュッと音がして、玩具のナイフの刃はへこみ、中からは偽物の血糊が吹き出し、麻美の手にも血飛沫が飛び散った。
騙された腹いせも手伝って思いきり突っ込んだせいか、勢い余った麻美はマネキンごとゴトリと床に倒れてしまった。
麻美は床に大の字になって、こんな真似をして憂さ晴らしをしている自分がなんだか可笑しくてクスクスと笑った。
笑い声は次第に高くなっていき、最後には麻美は大笑いしていた。
ふぅ…。
…なんだかスッキリした。
不思議と腹は立たなかった。後で唯に電話しないと。
唯、面白い暑中お見舞いありがとう!
そうだ! 次は推理小説を書いてみようか! 唯もこのネタを使ったら喜ぶかもしれない。
タイトルはズバリ『マネキン男』で決まりだ!
麻美は喜びのあまり、フローリングの床に倒れたマネキン人形の肩を、友人の肩に腕を回してスキンシップするようにバンバンと叩いた。
その拍子にごとり、とマネキンの首が外れた…。
中から出てきたのは唯の死体だった。
よく見るとマネキンの背中には鋭利な包丁が突き立っている。
「なッ…! これは…!」
その時だった。
「きゃあああっ!」
「人殺しいッ!」
そんな声がいきなり聞こえた。
表の方がひどく騒がしい…。
窓を開けて表を見ると、なんと人だかりが出来ていた。
「おい、出てきたぞ!」
「お巡りさん! こっちよ! あの男です! あの男を捕まえて!」
「いやああぁっ!」
「人殺しッ!」
「この気狂いめ!」
…何を言ってるんだ!?
向かいの家に住む中年のおばさんが、近所の子供達が、老人ホームの人達が、何が起こったのかとしきりにこちらを見上げている。
訳もわからず唖然とする麻美の耳に、パトカーのサイレンの音が聞こえてきたのは、それからすぐの事だった…。
※※※
東日新聞夕刊より抜粋
本日正午、警視庁捜査1課強行犯対策課は、世田谷区在住の東南短期大学の二年生、早見徹容疑者(20)を殺人と死体遺棄の容疑で緊急逮捕した。
付近の住人によるとアパートの二階から何やら騒がしい物音とけたたましい笑い声がして駆けつけた所、血のついたナイフを握った早見容疑者を窓辺に発見し、即座に近隣の交番に通報したのだという。
早見容疑者は都内に住む同じ短大に通う、長谷川唯さん(20)をマネキン人形に詰め込み、背中側から刃渡り20cmの文化包丁で刺したと見られている。
早見容疑者は昨年の春、文芸春冬から発売された『天使がくれた靴』で早川麻美という女性のペンネームで文壇デビューを果たした、携帯小説業界では知る人ぞ知る覆面作家としても知られた有名な男性作家で、警視庁は怨恨や痴情の縺れから、彼が犯行に及んだ可能性もあると見て事件との関連も含め、引き続き同容疑者を追及する一方、調べを進めている。
…………
………
……
…
※※※
「…あら、どうしたの、美沙? 学校から帰ってきて夕刊読むなりクスクス笑ったりして…。おかしな子ね」
「ふふっ…なんでもないよ、お母さん」
「あら美沙、その携帯どうしたの?」
「学校帰りに拾ったの。東南短大の辺りで」
「あら、ちゃんと持ち主に届けてあげなきゃ駄目じゃない。近くの交番は?」
「え〜! 面倒くさ〜い」
「馬鹿な事言ってないで届けなさい。持ち主から電話は?」
「さぁ…もう来ないんじゃないの〜?」
「もぅ…。ところでアンタ、部活の文芸部もいいけど、来年は高校受験でしょ?
スマホで推理小説ばっかり書いてないで、ちゃんと勉強しなさいよ」
「わかってるわよ、うるさいなぁ…。
でもお母さん、この間は私の小説見て喜んでくれてたじゃん。結局は佳作止まりだったけどさ」
「そりゃ、アンタの書いた小説より今売れてる、『天使がくれた靴』だっけ? お母さん、あっちの方がうまいと思うわ」
「ま、チャンスはいくらでもあるし、別にいいんだけどさ…。うふふ」
「変な子ね…。早く制服から着替えてらっしゃいよ。晩ご飯もうできてるから」
「は〜い! ねぇお母さん、今日の晩ご飯、なぁに?」
「今日はアンタの好きな肉詰めピーマンよ」
マネキン男 久浄 要 @kujyou-kaname
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