我が響き

サハラ・サーブラ

無境界

僕の愛する人が傷つけられたという痛みを感じた。彼に対する嫉妬と憎悪が僕の中に生まれると同時に、清廉潔白を理想と掲げたばかりの心はすぐに憎しみにまみれた。それまでの白は黒に浸食され、罪悪感が酸のように噴き出し、どす黒い塊となって僕の頭ごと脳内をよじる。


「恐れることを恐れてはならない。負の感情と向き合うのだ。正の感情であるテーゼと負の感情であるアンチテーゼをもって、静かなる感性の水面に感情を放て。その若さ、そのエネルギーが波紋を生み、水面に映る新たな世界はジンテーゼとなるはずだ。」… ヘーゲルの弁証法は今の僕には意味をなさない。

問題の本質は確かに僕自身にあるが、それを認める事ができれば、憎しみにまみれることもない。


内包すべき嫉妬と憎悪が魂から飛び出し、感情たちが真心を曇らせる。人間を偏見というフィルターなしに見られなくなった僕の心に映る世界は、モノクロではなく、欲望にまみれた小汚いキャンバスだ。

僕は何度も自らの感情を上書きする。世界は僕の色とキャンバスに在る色に境界を設けてはいないのに。人々はキャンバスへと溶け込むのだ。そう僕も彼女も彼もたった一つの世界に。


「お前が傷つけられたって。笑っちまうぜ。ちっぽけな自己愛が満たされず傷ついただけだろ。何かを求めるから傷つくのさ。傷ついた時点でお前の愛など『好意の欲望』だ。愛せるものなら愛しぬいてみろ、聖人君子の僕ちゃん。すでに欲したのを認めたらどうだ?望んだのだよ、お前は。彼女が救われるのを。」

品のない風刺画家のニヒルは、どうやら僕を気に入ってくれたみたいだ。正論とは僕にとっても気持ちがいい。だが、風刺画家であってもキャンバスの中から抜け出せない。世界とは恐ろしいほどに中立だ。


「あの痛みは僕らの痛み。好意の交換でなく、魂の一致。世界への回帰だ。報われたいのでも報われてほしいのでもない。」と心ない心で叫ぶ。もう僕は世界の一部で、声に所有者はいない。音のみの世界。


 実際あの痛みは生み出されたものか、伝わったものかは判別できない。あるいは判別したくないのか。だが、そこはすでに重要でない。これは愛か欲かと聞くようなものだ。テレサは、愛の反対は無関心だ、と言った。愛は好き嫌いという欲を超越しており、好きと愛は両立し、嫌いと愛も両立している。愛を持った時点で、僕は彼女も彼も愛すことを誓ったのだ。ただ、そこにはもう誰もいない。テレサさえも。


 あるのは世界だけ。対立も戦いもない、唯一の世界。僕は知っていた、最も欲深い人間は誰か。僕は今、僕の声に呼ばれ、幻想の境界が識別不能になったキャンバスに新たな想像を創造する。声が続ける。

「『自らの行動』を、損得勘定による合理的規定で導くのも、赴くままの感情に支配されるのも、もう止めにしよう。己の哲学を有し、信念の名のもとに行動を決定するのだ。それこそが善悪の対岸を離れ、川の流れを纏い、人生の目的地へと向かう唯一の道。本心に眠る気高き声と共に、自らの使命に生きよ。」


 我思うゆえに我有り。デカルトの言葉を思い出す。そう誰にとっても堪らなく愛おしいのだ、真のリアリティでもバーチャルでもない、この自分だけの現実が。僕と僕の声は再び一体となり、響き出した。

「国家の法だけに従う者は国家の奴隷であり、社会のモラルだけに従う者は社会の奴隷であり、何者にも縛られないと自由を謳う者は、快楽と欲望の奴隷である。自らの魂に楔を放ち、悟性という律法を持ってこそ、我々自身は真の自己よりも自分らしくあれるのだ。葛藤の中を突き進もうではないか。」

「自然の光が君らを照らしはしない。内なる光よ、自ら輝け。世界を照らせ。愛ですらない愛で。」

遠くで、そう鐘が鳴った。

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我が響き サハラ・サーブラ @toaskyhawk

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