四月のさかな

「嘘をつく日ですか?」

 撫子が驚いたように繰り返すのを、英は楽しそうに笑いながら微笑んで頷く。結い上げた髪から解れた後れ毛がふわりと揺れる。撫子は考えるように眉根を寄せた。英はくるりくるりと変わる撫子の表情を楽しそうに眺めていた。

「ええ、そうよ。この本に書いてあったの」

 膝に置かれた本の上に白い手が置かれる。天鵞絨のような赤い色をしたその本の表紙には外つ国の言葉が書かれていた。撫子には読めない文字で書いてある本を、英は愛おしそうに撫でる。

 寄宿舎の談話室の一番奥に、卓と二脚の椅子が置かれている。そのやわらかい椅子に腰をかけ、窓から差し込むあたたかい日差しの中で英は、再び本の表紙を撫でる。英の特等席となっているこの席は、他の生徒から少し離れた場所にあって、だれかに話を聞かれることもない。

「せんせいにもお話して、少しだけ嘘をついてみようと思うのだけれど」

 どうかしら、と英は撫子の表情を伺うように尋ねた。撫子は反対する理由もなく、力強く頷いた。

「想像ができなくて、たのしみです」

 ふふふと、笑っていて英は急に深刻そうな表情になり撫子の方に顔を近づけるように身を乗り出す。動いた拍子に、英の小袖に焚きしめた香のかおりがした。さくらの香りだと撫子はおもった。

「あら、なでしこ、これはひみつよ。わたくしたちだけの、だれにも言ってしまってはいけないわ」

 そう囁くように告げて、再び英は顔をほころばせる。ふたりだけの秘め事だというそのあまやかな響きに撫子は酔ってしまいそうだった。頭がくらりと溶けていく。

 英は、ね、と念を押すように囁いた。少女はその声に導かれるように頷く。その同意に満足したように英もまた深く頷いた。


 それは、四月に入った最初の日。

 朝の談話室に、英が入ってきた。背筋をまっすぐに伸ばし、いつも通り特等席へと向かっていく。その姿を見つめ、生徒たちはちいさく感嘆の声をもらした。

 伸ばした黒い髪を高い位置で一つに結い、黒い洋装をしていた。立て襟のベストにズボン、足元は黒い革靴。羽織っているフロックコードの前面が開いているため、動くたびに煉瓦色の裏地が覗く。その姿が凜々しい若い男性のようにも見え、英の少女らしさのない様子に周りの生徒たちは聞こえない声を上げる。

「はなぶささま」

 撫子が驚いたように英の方へ近寄ると、普段はしないような片方の口角だけをあげるような微笑み方をする。それが、別人のようにも思えて、撫子はなにも言えなくなってしまった。

「さあ、席へ」

 撫子の背中へ腕を回すと、そっと導くように押す。どうぞ、こちらへと言うように左手で椅子の方を示す。導かれるままに椅子へ腰を下ろした撫子は落ち着かないようにそわそわと周りを見回している。英の方を見ることができなかった。

 英は気にもとめない様子で、フロックコートの長い裾をばさりと跳ね上げ、向かいに腰を下ろす。すっと足を組んだ。すらりと長い足が強調される。そして、撫子を見て微笑む。

「どうかな、気に入ってくれただろうか」

 声までも高い声を低く抑えたような話し方をする。本当に男性のようだった。

「まるで、はなぶささまではないよう」

 撫子はどうしたら良いのか分からなかった。見つめられないように俯くと、英の手を撫子の頬に触れる。

「いつもの私だよ、なでしこ。顔を上げて」

 彼女が顔を上げると、英が瞳を緩ませる。

 その様子を眺めていた他の生徒たちは、息を呑んでふたりを見つめることしかできなかった。

 英の男装の話は瞬く間に広まり、その日一日、たくさんの少女たちに囲まれ、たくさんの贈り物をもらい、英が漸く落ち着けたのは部屋に戻ってからだった。まるで憧れの殿方であるかのように、英は扱われたのだった。

 一息を付き、寝台の上に寝転んだ英の耳に、ちいさな足音が届く。まなうらに、扉の外の様子が浮かび上がる。木の床の上を歩く革靴の音。その音は、英の部屋の前で止まり、中の様子を伺うように沈黙した。そして、そのまま通りすぎていく。

 撫子かしら、と英はおもう。しかしながら、今は撫子と向き合う気分になれなかった。今日は特別な日だ。毎日の嘘と、一日だけの真実。どうして、男装をする気になったのか、英は自分自身でも分からなかった。

「今日は、大変だったみたいね」

 衣擦れの音一つたてず、少女の声が降り注ぐ。英は、まなうらの世界から、外へと目を向ける。寝台の横に立った、英によく似た少女が見下ろしていた。無表情のまま、目だけがやさしい。

「はなぶさ」

 弱々しい声が出る。はなぶさ、と呼ばれた少女は、頬を緩め微かに笑う。そして、幼い子どもに言い聞かせるように話かける。

「はなぶさは、あなたでしょう」

 ゆっくりと歩き出す少女は、歌うように英に告げる。

「この女学校で、あなたは英として、何も知らない少女たちに囲まれて生きてゆくの。わたくしの代わりにずっと」

 ね、ひでひこと、少女は笑いかける。寝台の上で上半身を起こしていた英が、英彦と呼ばれたその声に身を固まらせる。もう、ずっと呼ばれていなかった名。

 少女はその様子に、楽しそうに声を上げてわらった。ひでひこ、ともう一度甘えるように呼ぶその声に、もう過去になってしまった幸せだったひとときを取り戻したような気持ちになってしまう。もう存在しないはずのその姿に縋ってしまう。部屋の中をゆっくりと歩んでいた少女が英を正面から見つめる。

「わたくしは、あなたのはなぶさがだいすきよ。だから、なくしてしまわないで」

 懇願するように、泣きそうな表情を浮かべた彼女はそっと、英を抱きしめる。まるで、夜の闇の中にいるような冷たい空気が英を包む。英は少女に触れることができない。

「怒っているのでしょう、勝手なことをしましたから」

 少年のような声音で英が尋ねた。それは、英彦の声。嘘を吐くと称して、男装をしたのは英の我儘だった。英でいることを厭ったことはないけれど、誰かに止めてほしかったのかもしれなかった。

「大切なひとを失ったあなたと出会うように撫子にお願いしたけれど、あなたが元気になってくれて良かった」

 答えることのない少女の言葉に、英は撫子もまた去っていってしまうことを感じとらずにはいられなかった。

 この女学校を出て行った大切な友人と、かわいい妹のことをおもう。ここに居る限り、別離ばかりが訪れる。数少ないたいせつなものも、抱えきれずに零れ落ちていってしまう。

 ――いつか、ここから抜け出して自由になれますように

 大切な彼女がうたう、いつかの願いが耳の奥から蘇る。彼女は英の全てを恐らく知っていた。それでいて、黙って隣にいることを選んだ。

 ひでひこ、とそれをかき消すように少女が囁く。耳元に、少女の声を感じる。

「わたくしはあなたがだいすき」

 あなた、と呼びかけるその声が、英彦ではなく英と呼んでいるように聞こえた。いつだって少女は、英に愛を囁き、そして奪っていこうとするのだった。

「あなたも、わたくしのことをいっとう好きでいて」

 その言葉は、英のことを丁寧に包んでいく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る