ニセコマドリのはなし

「ごきけんよう」

 その声につられるように英はかんばせを上げた。文字の世界から現実に戻ると、目に様々な色合いが飛び込んでくる。中庭の噴水の縁に座り本を読んでいた頭がくらりとした。何度か目を瞬かせると、漸く様々なものが戻ってくる。ぼんやりとした表情を浮かべた英の前には、弱々しく微笑む少女が立っていた。

 墨のような色合いの胸まである髪を片側に垂らし、結ばれた真紅の髪紐が揺れている。薄い空色の小袖に深い紺色の袴。空と海の色合い。彼女はいつも青い色を好んで身につけていた。

「いつかあなたがここから抜け出して、自由になれますように。そして……」

 微笑んでいたその表情に影が帯びる。そして、何も言えなくなって俯く彼女の手に、英は身を乗り出しそっと触れた。冷たい手。

 少女は意を決したように面をあげると、さようならと言った。袴を翻し、去っていく背中を英はぼんやりと見つめていた。さようならと告げる悲しい響きのその声と、石畳を走る革製の長靴の音が響いていた。思い出したように少女の名前を呼ぶ。しかし、彼女は振り返ることはなかった。もう戻ってこないことを、英は知っていた。

「はなぶささま」

 名を呼ばれ、周りを見まわしたが誰もいない。再び、はなぶささまと呼ばれる。姿のない声に導かれるように英が踏み出すと、そこには大きな闇が口を開けていた。そのままふわりと身体が浮かび上がる感覚。

「大丈夫ですか?」

 目を開けた先には、心配そうに英を見つめる顔があった。今のはゆめだったのだと悟ると英は寂しさと共に安堵する。

「なでしこ」

 掠れた声が、彼女の名を呼んだ。それは幼いこどものつたない言葉のように響く。

「泣いていらしたので」

 撫子が英の頬に触れる。その温もりに英は救われたような心地がした。

「随分前に、ここから居なくなったひとが夢に出てきて、さようならと告げるものだから」

 つい寂しくなってしまって、と英はゆめの中の彼女の姿を追いかける。父親の仕事の都合で遠くへ行ってしまった少女は、英の中にちいさな爪痕を残して去っていった。最後に手渡された、ちいさな小瓶のさくらの砂糖漬けよりも大きなものを残して。

「ごめんなさい、大丈夫よ」

 談話室の一番奥に置かれた特等席に座り、本を読んでいた。英の指定席。周りを見回すと、人影は疎らで、しんと静まり返っている。読書をしている途中で、うつらうつらと微睡んでしまったようだった。

「ニセコマドリですか?」

 誰にも聞かれたくないように、ひそめられた声で撫子は尋ねた。ニセコマドリ。それは、女学校から立ち去った少女たちのこと。この閉ざされた女学校からぷつりと消息を立つ少女たちが時折現れる。まるで、彼女たちは存在しなかったように綺麗に消えてしまう。居なくなった彼女たちは、この女学校のなかで忘れられる存在。ニセコマドリと呼ばれることは彼女たちにとって、不名誉なことであった。逃げ出したのか退学させられたのか、真偽は不明でも、そう思われることが耐え難いこと。

「いやよ、そんなふうに呼ばないで」

 英は質問に答えることはなく、いやだと首を振る。ニセコマドリと呼ぶ、その呼び方を英は好まない。

「すみません」

 慌てたような表情を浮かべ、弱々しく紡がれるその言葉に、英は返す言葉に躊躇する。そして、大丈夫よ、と微笑んだ。英は、自らの言葉の重さを知っている。

 女学校の中に漂う、英を特別扱いしようとする先生方を含めた雰囲気と、その冷たさを孕んだ容姿のせいで、英は目立つ生徒だった。それを、自身も自覚している。

 この女学校では、みな身分も何もかも気にせず過ごせるよう、花の名を付けられる。それでも、透けて見えるものがある。英は自らのその透けるものを効果的に活用する術を心得えていた。

「わたくしの大切なひとのことなの、だからそんなふうに呼んでしまわないで、ね」

 そっと手を握られると、撫子にはもう頷くことしかできなかった。

「このお話は終わりにしましょう。この本を読んでしまいたいの」

 わたくしのかわいい妹と、英は付け加える。撫子はそう呼んでもらうのをいっとう好んだ。英の、やわらかな声音で発せられるいもうとの音はまるで、愛の言葉のようにも響く。

 撫子は、英の邪魔をしないように隣で、読みかけの本を開いた。

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