少女たちは永遠をうたう
花のなまえ
緊張の面持ちで少女がひとり、椅子に腰をかけて座っていた。よそゆき用の小花柄の小袖に紺色の袴。足元は革製の
彼女は外つ国風の煉瓦作りの建物の一室で周りを忙しなく眺めていた。黒檀の卓を挟むように置かれた椅子。床には赤い絨毯が敷かれ、壁際には額に入った絵画や硝子窓のついた棚が置かれていた。棚の中には本や置物が丁寧に配置されている。
父に連れられ田舎から出てきたばかりの彼女にとって、目新しいものばかり。そしてなにより、今日からこの女学校で生活することになるのだということがにわかには信じられず、落ち着かない気持ちにさせた。
長く鎖されていたこの国でも、外つ国の文化が入ってくるようになり、この女学校では外つ国の建物や文化に囲まれながら、少女たちが生活している。
「あら、新入生?」
その声に驚くように振り向くと、同じように小袖に袴を纏った少女が扉から覗くように立っていた。そのひとを見つめ、彼女はおもわず息をのむ。白い肌と黒い豊かな髪。薄紅色の花びらのような唇。うつくしいと少女はおもった。現れたそのひとは、少女がひとりでいることに気が付くと、部屋の中へと入ってきた。
「あなたの名前は聞かないでおくわね」
ここでは意味がないの、とそのひとは軽やかな声で笑う。近づく距離感。少女が座る椅子の背にそっと手を置いた。浮かぶ寂しげな微笑みに、少女の胸が痛んだ。
「あなたにも、花のなまえが与えられるわ。ここでの最初の贈りもの」
少女はふいに、この女学校へ向かう途中の馬車の中で聞いた言葉がよみがえる。
『あなたが行く女学校では、あなただけが全てなの。身分も立場も捨てるために、花のなまえが与えられ、女学校に居る間はずっとそう呼ばれ続ける』
馬車の中でとなりにいたひとは誰だったのか、少女はもう思いだせない。少女を励ますように白い手が重ねられたことは覚えていた。そういえば、ひどく目の前のひとと似ているように思える。顔を思い出そうすると、輪郭がぼやけていく。悩む少女のよそに、そのひとは思いついたというように続ける。
「そう、あなたの名前はなでしこが良いとおもうわ」
なでしこ、とよっつの音が少女の舌の上をころころと転がる。なでしこ、ともう一度呟くと、不思議とそれが少女自身の名前のような気がしてくる。それまでの名前をそっと大切に仕舞い、少女は撫子の衣を纏う。
「あなたの、お名前は?」
なでしこ、と名付けられた少女が尋ねる。その問いかけにしばし困ったように曖昧に笑っていたそのひとは、思いついたようにぱっと微笑む。それはまるで蕾が花開いたようだった。
「はなぶさ。はなぶさを探して。わたくしははなぶさと供にいるの」
はなぶさ、と少女は繰り返す。万に一つも忘れることなどないように。
「はなぶさと呼ばれるひとのこと、絶対に探し出します」
力強く頷く少女に対し、そのひとはそっと抱き寄せる。触れられていないような軽やかな感覚。散りゆく花の香りが鼻腔をくすぐる。
「どうか、はなぶさをお願いね」
ふわりと、長い髪が視界を覆う。おもわず目を閉じた少女がその瞼を開いた時には、もうそのひとは足音ひとつ残さず消えていた。ただ、花の香りだけがそのひとのことを知らしめていた。さくらの香りだと気が付いたのは、その名残さえ消えたころだった。
今までは、村の子どもたちが集まって勉強をするような日々を送っていた撫子にとって、女学校での生活は何もかもが新しい。寄宿舎と校舎の往復の中で、めまぐるしく過ぎていく時を追いかけていた。覚えることも学ぶこともたくさんある。女学生の中に溶け込むことは難しく、めげそうになる時にはきまって、故郷に居る友人に手紙を書いた。それを家に送れば、友人の元へ届くようにしてくれることを知っていた。
彼女は、なでしこと名付けてくれたひとのことを忘れることはなかった。はなぶさという名前が心の中に引っかかったまま、なかなかそれを取り除く術も見つけられず、無為に時間を過ごしていた。
ようやく様々なことに慣れてきた頃、授業が終わった撫子は図書室へと向かった。本が読むことが好きだった彼女は、自然と図書室に通うことが多かった。それは、少女にとって心を落ち着かせることのできる時間。
おだやかな日差しが差し込む昼下がり。撫子がひんやりとした静かな階段を上がり、図書室の扉を開くと、だれの姿も見えなかった。絨毯の敷かれた床は足音も吸収してしまう。外から聞こえる鳥のさえずりしか物音がしないようだった。とても、静かだと呟いた声さえも、静寂の中に吸い込まれていく。
壁に沿って置かれた書棚に収められた書名を眺めながら部屋の中を歩いた。中を読まずとも、背表紙を眺めるのが好きだった。ゆっくりと歩くと、入口の方から見えなかった部屋の奥が見えるようになる。そこに、ひとりの生徒が立っていた。古い本の表紙を白い指がゆっくりとなぞっている。長い睫毛がふるりと震えた。撫子はそのひとが泣いているようにおもえて、小さく息を止めた。ゆっくりと近づいていくと、その気配に気がついたようにそのひとは顔を上げる。ひどく寂しそうな、傷ついたような表情をしていた。撫子にはその姿が故郷の友人の姿と重なって見えた。とても大切な友人は、裏切られたような何かを失ったような傷ついた表情を時折見せて、その度に撫子は不安に駆られたのだった。
「はなぶささん?」
ふいに撫子は、そのひとの名が英だと分かった。子どもに呼びかけるようなやさしげな声で撫子は名前を呼ぶ。零れ落ちたその名をゆっくりと、英が拾い上げた。
「あなたは?」
泣きそうだとおもった表情はかき消え、薄紅の唇の口角を上がる。人形のような白く整った顔立ちをしたそのひとは撫子を見つめていた。その顔立ちはあの少女によく似ていた。纏う雰囲気だけが異なっていた。
「なでしこと、呼ばれています」
なでしこ、と繰り返した声が、少女の耳をくすぐる。それはとても心地よかった。
「ひとりで、泣かないでください」
思わず、撫子の口から零れ落ちる。ふたりの間に、小さく沈黙が降りた。撫子は慌てたように口を掌で塞ぐ。零れ落ちた言葉は戻せない。
「すみません、泣いているように見えて」
撫子の耳の先が赤く染まる。羞恥から身体が火照るのを感じた。
「いいえ、良いのよ。そう……泣いていたのかもしれないわね」
ずっと、英がどういうひとなのか、撫子は気になっていた。夜眠りにつく前に、少しだけ英のことを考える。この女学校のどこにいて、どう過ごし、どう笑うのか。それは、物語のようにあまい時間。
何も言えなくなっている撫子を見つめ、英はふふふと笑みをこぼす。目を三日月のように細めると、ね、と呼びかけた。
「なでしこ、わたくしの妹になってくださらない」
どうかしら、と尋ねる目と、撫子の大きくなった目がぶつかる。女学校のなかで、姉妹として結ぶ繋がりがあることは撫子も知っていた。彼女には縁のない話だと勝手におもっていた。
「けれど、わたしなんて、そんな……」
来たばかりの田舎娘に過ぎない撫子には、途方もない話のようにおもえた。しかし、英はゆっくりと首を横に振る。黒い髪が揺れる。
「いいえ、わたくしは妹にするならあなたが良いの。あなたの名前はあの子が付けたのかしら」
あの子と指すのが誰か、撫子も気がつかないわけにはいかなかった。あの少女について、聞きたいことはたくさんある。口を開きかけた撫子の口をふさぐように英の人差し指が少女の唇に軽く触れる。
「あの子のことは今は話せないの。どうぞお願い、ひみつをひみつのまま、わたくしを姉と慕ってくださらない?」
耳朶を打つ、その甘やかな誘いに撫子は思わず頷いた。抗うことはできない。その様子に嬉しそうに英は微笑み、少女の手を取る。
「一緒にいましょう、この花園を出てゆく日まで」
はい、と応える声が、小さく落ちた。
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