四月のさかな

 寝静まった寄宿舎の中で、英は耳をすましていた。部屋の扉の向こう側から、物音ひとつしないことを確認し、小さく扉をあける。広がるのは闇と、静寂。白い寝衣を纏い、銀朱の羽織を肩にかけていた。足元から忍び寄る冷たさにふるえ、羽織を胸元にかきよせる。革靴は部屋に置いてきたため、足元は裸足だった。

 物音を立てないよう、誰かに気付かれぬようにそっと闇に紛れる。

 目当ての部屋を見つけ、英はちいさく扉を叩いた。ちいさく、ゆっくり三回。それは英が決めた合図。

「はなぶささま?」

 扉の向こうからくぐもったような声が聞こえた。

「そう、わたくしよ、なでしこ」

 囁くように告げた言葉に反応するように、扉が細く開かれる。そして、中にいた少女が英を確認すると慌てた様子で部屋の中に彼女を引き入れる。

「本当にくるなんて」

 後に続く言葉を飲み込んだ少女に英は微笑みかける。

「あら、これも、淑女のたしなみだわ」

 それでも、夜に寄宿舎の部屋を抜け出すのは罰則と決まっていた。誰かに見つかってしまえば、英でもなにかしらの処罰を受ける。しかし、少女たちが夜中に部屋を抜け出すのは、この女学校内の流行だった。

「見てちょうだい、なでしこ。今夜は特別なの」

 いかがかしら、と羽織の下から取り出したのはあたたかい薬罐と加須底羅カステラ。撫子は驚きとともに、感嘆の声を漏らした。

「夜のお茶会って素敵じゃないかしら。本で読んだことがあるの」

 薬罐のお茶と、加須底羅を摘みながら二人は寄り添うように寝台に座る。

「外つ国のものがたりですか?」

 そうよ、と答えた英はやわらかく笑う。大切なものを抱きしめるように。

「はなぶささまは、なんでもご存知なのですね」

「あら、そのようなことはないのよ。わたくし、ずっと屋敷の外に出ることなく生活してきたの。今だって、この女学校の中にいる。あなたの方が、ずっと詳しいことがあるわ」

 寝台の脇に置かれた本に目を留め、英はそれを手に取った。紺色の表紙のその本は、英が図書室で見つけたもの。

「ねえ、なでしこは誰にも言わないでくれるかしら?」

 本で口元を隠しながら、英は上目遣いで撫子を見つめる。撫子はいつだって、英のお願いを反故にしたことはなかった。頷くと、英が耳元に口付けるように近寄った。

「わたくしは双子なの。この女学校は、わたくしたちを隠すために作られたちいさな花園。だれも、気がついてはいけないのよ」

 撫子はちいさく息を飲んだ。伏せた目に、英の白い手と紺の表紙の本が焼きついた。

「なんて、嘘よ、本気にしないで、なでしこ」

 明るい調子で告げるその口調と裏腹に、冷たい瞳が撫子のことを見つめていた。


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