第2話



 腹ごなしを済ませて、乙立花さんから譲って貰った食材を片手に歩いていると、鄙びた無人駅の前に五、六人くらいの老若男女が通りかかる人たちに熱心にビラを配る姿を見つけてしまった。

 嫌な予感がし思わず、近くの建物の影に隠れて、老若男女の顔ぶれを観察する。

 痩せこけた神経質そうな眼鏡のお爺さん。白髪をワンポイントだけ紫に染めたお婆さん。爽やかな笑顔を浮かべては快活に挨拶をする青年。彼の傍を付いて離れないおさげ髪の少女。でっぷりとしたジャガイモみたいな体系の男の人もいる。

 家族じゃない。そうとも見えるけれど、彼らはそうじゃない。

「何かあったのか、青島」

 いつの間にか男の人は私の後ろに並び立ち、私が見ている方向を見て、「彼らが気になるのか?」と重ねて問う。

「気になるというか、なんというか……」

 答えを濁す私の目に、ある女性の姿が映る。

 当時はその耳にパールのイヤリングはなかったし、髪の毛も茶色に染まっておらず、今のように波打ってもいなかった。極めつけはその左手の薬指にはめられた指輪か。

 ああ、と私はこころの中で呻いた。

「青島? 大丈夫か?」

 手が震える。何でだろう。いや、分かっている。これはたぶん、怒りだ。

「大丈夫です」

 アパートへは、この建物の道を通っても帰れるはずだ。震える手を握り締め、「こっちから帰りましょう」と男の人に言おうとした時だ。「あのぅ」と声がかかった。

 振り返ると、背後におさげ髪の少女と快活に挨拶をして回っていた青年が立っていた。

「あの……、今、お時間」と少女は言いかけ、隣に立つ男の人を見、顔を真っ赤にさせて青年の後ろに引っ込んだ。

「こらこら」

 青年が茶化すものの、「無理です」と少女が泣き出してしまいそうな声で言うものだから嘆息した。

「すみません。彼女、恥ずかしがり屋で」

 眩い笑みを浮かべてるのだろうと分かる声が私には辛い。本音を言えば、私も少女のようにどこかに隠れたかった。

「いえ、なにか俺たちに用が?」

「あ、はい! 実は俺たち十本足の舟という教団の者で、皆さんに布教をして回っているんです」

「布教」

 男の人は青年の言葉を鸚鵡返しにし、「不勉強で悪いんだが、きみたちのことを俺は知らなくて」と言いながら、その視線が私に刺さった気がする。

「私は興味がありません」

「いや、当然ですよ。俺もついこの間まではそうだったんです。後ろの彼女は割と熱心で、俺よりも入団歴は長いんですけど、いかんせんこういうのは苦手で」

 たははは、と青年は笑う。

「で、本題なんですけど、お二人は神依島の崩落のニュースをご覧になられましたか?」

「神依島というと……」

「さっきテレビで見た特番を組まれていた島ですよ」

「ああ」

「ご存知みたいですね。話す手間が省けて助かります」

 青年はうんうんと頷き、実はですねと儲け話があるかのように話し始める。

「実は、うちの教団で信仰している神さまは以前からその予言をしていたんですよ」

 今日はよくこの話を聞く日だなと他人事のように思う。

「それはすごいな」

「正確にどこ、っていうのはやっぱり難しかったみたいなんですけどねぇ。けど警鐘があるのとないのとじゃ、火事の防ぎ方ってまた違うじゃありませんか」

「確かにそうだな」

「そうでしょう、そうでしょう! で、ここからが大事な話になるんですけど。俺も彼女に教えて貰ったんですが、神さまの力っていうのは人の信仰心によって変わるそうです。今の教団の信者数ではこういうことがあるだろう、っていう予言が神さまの力で出来る精一杯になっちゃうようなんですが、信者の数が増えればより正確に、いや予言だけにとどまらない奇跡も出来るだろうって」

 私は青年のぴかぴかなままのスニーカーを見ている。だから彼がどんな顔をしているのかは分からない。でも分かる。彼は今、きっとその年に合わない狂気を目に宿している。

「つまり……、きみたちは新しい入団者の勧誘をしているのか」

「そうなんです。あ、ビラもあるので宜しかったらどうぞ」

 ずい、と私の前に薄い紙が現れる。

――我が教団の神はあなたの健やかで献身的な心を、お待ちしています。

 薄っぺらい紙に踊る文字は私の記憶にあるままだ。腹立たしいことにビラに使われた薄紅色の用紙も、そこに印字された文字の大きさやフォントすら何一つ変わってもいない。

 下唇を噛んだ。ほんのりと、しかし確実に口の中に血の味が広がる。

 ビラを持つ手が震え、紙に皺が寄る。

「青島、どうした」

「ミケちゃん?」

 男の人の声と聞き覚えのある女性の声が被った。心臓がどきり、と跳ねる。

赤目アカメさん」

 その名前を聞き、私は顔を俯けたままそちら側を振り向く。

「ああ、やっぱりミケちゃんだ」

 私が怒りを覚え、出会いたくなかった女性――赤目さんがそこにいた。

「あれ、赤目さんのお知り合いの人だったんですか」

「知り合いも何も、よく話しているじゃない。私が入団した時に同じ高校生だったけど司祭まで行った男の子がいるって。彼女、その子の妹よ」

「あー、はいはい。ええとなんて言ってましたっけ……、アオ……」

「青島タマキくんよ」

 何年ぶりだろう、兄さんの名前を人の口から聞くのは。

「久しぶりねえ。元気にしていた?」

「……」

 無言を貫く私に赤目さんは何を思ったのか、「環くんのことは本当に残念だったわ」という。

「残念?」

「心からそう思っているのよ。実際に環くんは性格は良かったし、頭だって抜群に良かった。それに何より信仰心が人一倍あったもの。だから若いのに司祭まで行けたの。ミケちゃんには分からないかもしれないけど、これってすごく素晴らしいことだったのよ。でもだからこそ残念で仕方がないの。信仰心が厚かった彼がまさか首を吊って自殺するなんて」

――ミケ、ありがとう。

 私の贈り物を喜んだ兄さんの顔と、飛び出た目で私を凝視する物言わぬ兄さんの顔が一つになる。お腹に入った食べ物がかっ、と熱くなり、私は「おえ」とえずいた。

「青島」

 しゃがみ込む私の背に男の人が手を当てる。

「大丈夫、ミケちゃん」

 甘い香水の香りが鼻頭を掠める。口に溜まった酸っぱいものに顔を歪めながら、どうしてこの人はと目の前にいる女性に対する怒りがふつふつと沸く。いや、その怒りの矛先は間違っている。赤目さんは事実を口にしているだけだ。思いのまま、同志だった兄さんを失って悲しいことを、無念をありのまま話しているだけ。

 兄さんに銃を持たせ、引き金を引かせた私にとやかく言う義理はない。そんなものはないのだ。

「赤目さん、俺ちょっと走って水を買ってきましょうか」

「そうね、お願い出来る?」

「だいじょうぶ、です」

 壁に手をつきながら立ち上がる。

「本当に大丈夫なの? ミケちゃんのお家はここからだと遠かったじゃない。送って行きましょうか?」

「……、今はこっちに住んでいますから大丈夫です」

「青島、おぶろうか」

 男の人の親切に私は首を横に振る。

「あら、あなたは?」

「青島の知り合いです」

 嘘が板に付いて来たと思った。

「知り合い。お名前は?」

 男の人がこちらを見る。混濁した私の頭はこの場から早く離れたい一心で嘘を吐いた。

玉置タマチくんです」

「玉置?」

 赤目さんは冗談でも聞いたような表情で男の人を見、「そう」と腑に落ちない声を零した。

「玉置さん、ミケちゃんのことよろしくね」

「青島、行こう」

 手を引かれ、進む私の背に複数の視線が刺さる。

 私は口に手を当てた。叫びたくなる衝動を我慢する為に、また腹の底から沸き上がる嫌悪感を耐える為に。


  ・

  ・


 玉置と仮名を付けた男の人は何故だか上機嫌だった。が、真逆に私は最悪の真っただ中だった。

 思わずえずいてしまいそうな気持の悪さを誤魔化し、道中ろくに話もなく、賃貸している二階建ての古いアパートに辿り着く。途端に、胸の中に安堵感が広がる。と同時に、虚無感がそろそろと付いて来た。

 私は錆びついて、踏み抜いてしまいそうな錆ついた階段を上る。カン……、カン……。ワンテンポずつ遅れて、金属製の階段が悲鳴を上げた。

 左から三番目の部屋が私が借りている一室だ。私はポケットから鍵を取り出し、穴に差し込んだ。拍子抜けするほどに、鍵は呆気なく解除される。

 開いた扉の向こう側に体を入れ、玄関に立つとカーテンを取りつけていない窓にとっぷりと沈んだ夜がはめ込まれていた。視線が私の意思とは関係なくふらつく。

 驚くほど、この部屋は殺風景だ。原初的とも言える。何もない。机と、座布団、中古の小さな冷蔵庫、それから押し入れの奥に布団が一組だけ。それが私の持てるすべてだ。着られる洋服は二着しかなく、履ける靴は今履いてるものだけ。

 どうしてこんな風になったんだろう。小さい頃はこうじゃなかったのに。一人でも、みじめでも、ひもじくともなかった。道徳の教科書にあるような普通の家だった。

 父がおり、母がおり、兄がおり、私がいる。温かい食事が出て、家の中は綺麗に整頓され、休日にはどこかへ出かける。そんな家だった。まだ兄さんが生きていた頃は。

 家の明かりが点いた記憶の中にしか残っていない家の姿を思い出して涙が浮かんだ。

 嗚咽を零しながら靴を脱ぎ捨てて、私はとぼとぼと勝手知ったる部屋の中を歩き、押し入れの障子を引く。押し入れの上の段には二つに畳んだ布団が入っている。私は諦めていっそう暗い下の段に入り、障子を閉めた。

 ぼやけた暗闇の中、私は膝に額をくっつけて、兄さんが死んだ日から続く罪悪感と後悔を味わっていた。

 沈む私の耳にカチリ、と照明が点く音が障子越しに聞こえる。

「青島、どこへ行ったんだ」

 青島は何処にもいませんよ。何処にもいなくなりたいんですよ。兄さんがいなくなった時から私はそう願っている。なのに、まだ生きている。臆病者だから、死ぬ度胸すらなかったんだ。

「……、青島?」

 返答をせずに黙っていると、ため息とも吐息とも取れぬ声が聞こえた。

「かくれんぼか」

 放っておいて貰いたい。私は消えたいんだ。何処からも、ここでないどこからも。

「そのかくれんぼは、どれに関係しているんだ?」

 どれ、とはどれだろう。

「宗教の話か? アカメという女性に対してか? それとも、きみの兄のことか」

 閉じた瞼が開く。疑問符は、そこにない。確信をもって、この人は言っている。

「質問になっていないじゃないですか」

「そうか?」

「そうですよ……。するならするで、もっとらしくしてくれないとこっちが困るじゃないですか」

「次からは気をつけよう。それで、きみは俺の質問に答えてくれる意思はあるのか?」

 薄暗い闇の中、私は唇をきゅっと結んだ。誰にも言わなかった。誰にも言ってこなかった。両親にすら。

「言いたくない」

「それは、俺が赤の他人だからか」

「いいえ。単純に話したくないだけです」

「悲しいから?」

 は、は。口から乾いた笑いが漏れる。そうだったら、どんなに良かっただろう。そんな自分であれば、どんなに救われたか。

「そんなのじゃありません。兄さんが死んだ時のことを思い出すだけで、自分がどれだけ馬鹿だったか思い知るから、だから話したくないんです」

 障子越しに訴える私は馬鹿だ。いや、馬鹿そのものだった。

「なあ、青島」

 低い声は静かに問いかける。

「きみの兄さんはどんな人だったんだ?」

 予想外の質問に私は顔を上げ、「え」と驚きの一声を上げる。

「環くん、だよ。どんな人だった?」

「……、兄さんはもう死んでいるんですよ。話したところで兄さんはもういないから、そうなのかどうか確かめようもありませんよ」

「それでも、きみが兄さんのことを話すことで悼むことは出来るんじゃないのか」

「悼む?」

「死者のことを思い出して、話すのは一つの追悼だよ。青島」

 いいのだろうか、話しても。大好きな、兄さんが生きていた頃の話をしても。

「許して貰えるのかな」

「誰に?」

「お父さんとお母さん……、環兄さんに」

「不思議なことを言うんだな、青島。家族のことを話すのに許しは要らないだろう」

 口の中の肉を噛む。喉の奥で溜めに溜め続けて来た言葉たちが紐解かれた。

「兄さんは……、頭の良い人でしたよ。小さかった私でも分かるくらいに頭が良くて、優しかった。兄さんが小学生の頃は毎日遊んでもらってました。シャボン液を作ったり、キャッチボールをしたり、祖父母の家に二人で行ってヒマワリの種を蒔いたり」

 あの日々が狂ったのは、何時からだったか。私ははっきりと覚えている。

「それも兄さんが中学生になって終わりましたけど」

「友達と遊ぶようになったから?」

 私は暗闇の中で首を横に振る。

「近所で中学校受験をして、合格した子どもを持つお母さんがいたんです。うちのお母さんとそのお母さんは仲が良くて、必然的に相手の自慢話を毎日のように聞かされたそうです。最初はただ頑張った相手の子どものことを褒めていれば良かった。でも数を重ねるごとに、褒めるだけではその人は満足しなくなって、自分の子どもがどれだけ凄いのか示すために、お母さんにこう言ったそうです」

――青島さんの家のお子さんは、お受験されないの?

「それが種火でした。初めはお母さんも気には留めていませんでした。けど一度気にかかった部分を気にするな、なんて無茶な話なんです。お母さんにとって、友達の話は子どもの話でもそうでなくても全部五月蠅いものになってしまった。毎日、耳元で蠅がぶんぶん飛び回っているように思うんですって。遠くから聞いている分にはまだいいですけど顔の近く、特に耳元ってなんだか嫌なんですよ。五月蠅くて、五月蠅くて、仕方がないとしか言えないくらいに」

 私は溜め息を漏らした。

「人の自慢話なんて、他人には何の得にもならない。お母さんの友達はそのことを知らなかったんです。だからお構いなしだった。その間、お母さんに点いた種火は新鮮な薪を毎日くべられてごうごうと燃えた。そうして出来たのがなにか、分かりますか?」

 問いかけ、私は自ら答える。

「嫉妬です、新鮮な嫉妬。それは見事に、お母さんは嫉妬の炎に踊らされました。環兄さんを巻き込んで」

「それは、どういう?」

 卑屈気味に私は笑う。

「受験ですよ、高校お受験。それも身の丈以上の進学校です。みんな止めましたよ、お母さんの無謀を。だけど環兄さんだけは何も言えなかった。お母さんの期待を背負って頑張るしかなかった。怒ったって良かった、その権利だって勿論ありましたけど、兄さんはお母さんの期待に応えようと受験のその日まで机に齧りついていました」

「努力家か」

 障子の向こう側で玉置くんが呟いた一言が胸に刺さった。そうだ、それが兄さんを表わすもっとも優秀な言葉だ。だけど言葉は言葉でしかない。

「努力じゃどうしようもないことだってあるんですよ、玉置くん」

「その言い方だと、結果は良くなかったみたいだな」

「……、環兄さんは受験を失敗しました。合否発表日は酷かったですよ。家の中がお通夜みたいでした。みんな気まずそうに顔を伏せて、お母さん一人だけがわんわん泣いている。でも本当に最悪だったのはその後でした」

「その後?」

「高校受験だけで終わりじゃなかったんですよ。むしろ失敗してより一層過熱してしまった。有名学校に落ちた汚名が簡単にすすげるほど有名で実績がある。それでいて人に言えば、あら凄いのねって褒められる。そんな大学に入学を果たすことをお母さんは兄さんに期待しました。それからの日々は酷かった。前も酷かったけど、今度の方がもっと酷かった」

 高校の行事は参加する意味がないからと不参加にさせられ、せっかく出来た友達とも楽しい思い出が作られず、お母さんの監視のもと勉強に明け暮れる。

 文句ひとつ言わず机に向かい続ける兄さんの背中を私は眺め続けることだけしか出来なかった。

「心身共に兄さんは疲れていたと思います。だけどお父さんも私も誰もお母さんを止められなかった。お母さんと兄さんの二人だけの世界を壊せなかった」

「青島、きみはともかく、何故きみの父親まで?」

「……、お父さんに面と向かって聞いたことはありません。でも理由は分かります」

「どんな?」

「怖かったからですよ」

「それは、……きみの母親が?」

「いいえ、家が、です。玉置くんには悪いけど、きっとこれは実際に体験してみないと分からないですよ。とにかく怖いとしか言いようがないんです。どこか、なにかがおかしい。そうはっきりと分かるのに、誰も何も言えないんです。そこかしこに地雷があって踏んでしまったら、家が終わりになってしまいそうで言えなかったんです」

「きみらは、家庭と環くんを天秤にかけたんだな」

 責めるような口ぶりだった。

「そうですね。お父さんも私もこのことを安く見ていたんです。兄さんが大学受験にも失敗してくれれば、お母さんの目も覚めるって。だから家族が終わることよりも、環兄さん一人に辛い思いをさせる方を選んだ」

「……、それで?」

「四月が過ぎて、六月の初めの頃です。兄さんが学校から帰って来た時に、珍しく部屋に向かわずに、私に嬉しそうにこう話したんです。『ミケ、俺は救われたよ』、って。聞いた時は意味が分からなかったけど、兄さんの嬉しそうな顔を見るのは久しぶりだから私も一緒に喜びました。そうすると兄さんも喜んで、……その日に出会った教団のことを教えてくれたんです」

「教団……? ああ、読めたぞ。そこで十本足の舟が出て来るのか」

「はい。今日会った赤目さんは兄さんと同じ時期に入団した人の一人です」

「なるほどな。だけど今日勧誘をしていた彼が話していた限りは環くんが惚れこむほどの要素は見当たらなかったぞ」

「それはそうです。あれは勧誘するための餌で、普段は別な文句で売り込んでいるはずですから」

「別な文句? そんなのもあるのか」

 玉置くんは呆れた風だ。私は記憶を辿り、当時兄さんが話してくれた教団の話を思い返す。

「入団者は、信奉する神さまが見る夢を見れるようになるそうです。中身は詳しくは分かりませんけど、素敵な夢だって兄さんは言っていましたよ」

「青島の家族は環くんが新興宗教団体に入団することを止めなかったのか?」

「お父さんは渋い顔をしていましたけど、お母さんは止めるどころか喜んでいましたよ。団体に入ってから環兄さんの成績は俄然良くなりましたから」

「優秀さが分かれば手段は問わなかったんだな、きみの母親は」

「善し悪しの区別がもうつかなかったんですよ」

 事実、成績がぐんぐんと上がったことで兄さんは机に張り付いて勉強をしなくても良くなった。一緒にご飯を食べたり、ごくたまにだったけど遊ぶことも出来るようになった。

 壊れかけの家族が少しだけ普通に戻った時だった。

「不思議だな」と、玉置くんは言う。

「何がですか」

「今のきみの話を聞く限り、環くんが自殺をする理由がなくなってしまったからだよ。受験直後ならまだ分かるが、新興宗教とはいえ教団に仮初にも環くんは救われたんだろう?」

「ええ」

「なら、何故彼は自殺したんだ?」

「……」

 私は口ごもった。すると障子が引かれ、明かりが満ちた部屋と二本の足が見えた。間もなく、玉置くんが下を覗き込むような体制で私にこう言った。

「時が来たんだよ、青島」

「何の?」

「人に話す時さ」

「行き倒れていた記憶喪失の人にですか」

「それは成り行きだ。だけどその方が楽じゃないか。何のしがらみもない。俺の言葉はどこまでも客観的でしかない。きみにも、環くんにも、きみたちの家族に対しても」

 視線を逸らそうとすると、「きみはそうしてずっと墓守をし続けるのか」と玉置くんに畳みかけられた。

 墓守。言い得て妙だ。だけども違う。私は墓守ではない。そしてここに墓暴きは来ない。環兄さんの死は完結しているからだ。けれどその死は、兄さんが望んだものではなかった。

「私にはその責任があります」

 玉置くんの目を見て私は答えた。

「きみがそう言う理由を聞かせてくれ、青島」

 生唾を飲む音がやけに生々しく聞こえる。私は意を決した。

「私が兄さんを殺したから」


  ・

  ・


「私が兄さんを殺したから」

 ぽつりと零した言葉が狭い押し入れの中を反響し、私の耳に戻って来る。

「きみが環くんを殺した……? 事実なのか」

 喉から声を絞りだすような玉置くんの問いかけに、私は膝に顔を埋めた。

「事実ですよ」

「だが、環くんは自殺だと言っていたじゃないか」

「そうですね」

「青島」

 玉置くんは困り切った様子だ。

「どちらも事実です。環兄さんは自殺しました。私が環兄さんを殺しました」

「待ってくれ。いろいろと矛盾しているぞ」

「矛盾はしていません。私は環兄さんに喜んで貰いたかったんです」

「きみは死ぬことが喜びだと思っているのか?」

「いいえ。あの頃の兄さんは本当に教団に救われて、高校受験前の生気がない頃が嘘みたいに元気で幸せそうでした」

「だったら、どうして」

 その疑問に対しての回答を私はずっと持っている。誰にも聞かれなかったからだ。誰にも話さずにいたからだ。当時の私は小学校に入る前の子どもで、たった一人だけの兄さんが大好きなどこにでもいる妹だったから。

「教団に入る前の環兄さんは、毎日が辛そうでしたけど、入団してからは一回もそういう表情をしたことがなかったんです。いつも高校生の自分が教団に何が出来るのか考えていて、忙しそうにしていました。けど嫌な顔はしていませんでした。楽しそうにニコニコしてたんですよ。それが暫くしてから、環兄さんはずっと怖い……、ううん難しい顔をしていました」

「難しい顔?」

「そうです、難しい顔。その頃、兄さんはいつも古めかしい本とノート、ペンを持っては頭をひねっていました。一度だけ兄さんに聞いたことがあるんです。『それは、何の本なの?』って」

 記憶の中の兄さんは目元に隈を作って、微笑む。

「『神さまについて書かれた本だよ』、って兄さんは言ってました。何の神さまなのかは分かりません。でも十本足の舟が信仰する神さまに関連する本だとは思います」

「十本足の舟……、そういえばあの教団が祀っている神さまは何なんだ?」

 分かりません、と私は小さく首を横に振る。

「手詰まりか、いや待てよ」

 玉置くんは勧誘された際に貰ったチラシに目を配らせている。

「そこに情報はありませんよ」

「ヒントくらいはあるかもしれないじゃないか」

「ありません。確信をもって言えます」

「あえて言わせて貰うが、きみらしくない自信だな」

「そうでしょうとも。でもこればっかりは自信を持って言えます。そのチラシは環兄さんが作ったんですから」

 そう告げると同時に、玉置くんは目を瞬かせ、チラシを指さす。

「環くんがこれを?」

「笑ってくれて良いんですよ。兄さんが死んでからもう十年以上経つのにチラシの文章は勿論、使われている紙も文体に至るまで何一つ変わっていないんですから。現代の生きた化石の一つです」

 玉置くんはチラシをまじまじと見、ふたたび私に視線を戻した。

「きみは、何も聞かされていないのか」

「教団のことについては何にも。ただただ救われたとだけ兄さんは話していました」

「救われた、か。……、そも教団で祀っていたものが本当に神だったのか怪しいものだな」

 視線を投げると、玉置くんは肩を竦めた。

「神さまは自らの手を差し伸べて助けるような真似をしないんだよ、青島」

 どうしてそう言い切れるのか、私には分からなかった。だけどそうなのかもしれない。祈ったところで神さまは何もしてくれなかったんだから。

「それでも、兄さんは十本足の舟が祀る神さまに救われました。あの教団が祀るものが何なのかはどうでも良かったんです。救われた人にとっては、救われたことの方が何より重要だったんですから」

「厄介だな」

「そういう理屈がまかり通ってしまうのが宗教ですよ」

 私は静かに言葉を伏せ、過去を辿る。

「それから環兄さんは家にいる間は部屋に閉じこもって、朝はふらふらしながら学校へ行くことが多くなりました。その時の兄さんの後姿が受験前の、無理をしていた頃の兄さんの背中と重なって、私は今度こそ兄さんが壊れてしまうような予感がしたんです。でも兄さんが一人だけ嫌な思いをするのはもう嫌だったし、家族がバラバラになるのも嫌だった。だから私が兄さんの力になろうと思ったんです」

「力って、青島はその時いくつだったんだ?」

「六歳ですよ」

 玉置くんは頭を振り、「涙ぐましい話だよ」と皮肉を呟く。

 私はそれを左から右に受け流し、こう切り出した。

「教団が祀る神さまには敵対する神さまがいて、環兄さんは信徒である自らがこれを排除すれば、より祀っている神さまの力を証明することが出来るのではと考えていたようです」

「傲慢だな」

「冷静に考えればそうでしょう。けれど兄さんは本気でしたよ。心底真面目にいるのかどうかも分からない神さまを倒してしまおうと思っていたんです」

「しかし待て、青島。きみが言うように環くんが倒そうとしていた相手は存在すら不確かな神さまだぞ。コール・ガールじゃない。そんな相手を確実に呼ぶことなんて出来るのか?」

 それは、私にとって最もナンセンスな質問だった。

「玉置くん、忘れていませんか」

「何のことをだ?」

「私は、探し物が得意なんです。それも人がどれだけ手を尽くしても見つからないようなものが」 

 私がヒントを与えると玉置くんは半笑いの表情で冗談だろと呟いた。

「冗談ではありません。いえ、冗談であれば良かった」

「見つけたのか、きみは」

「見つけてしまいました」

「はは……、驚いたな。どういう代物であるか、はきみには関係がないんだな。それこそ断片的な情報でもあれば、あとは正解へ一直線なのか」

「怖くて、精査したことはありませんから真実どうなのかは分かりませんよ」

「それでも青島、きみは見つけたんだろう。環くんが倒そうとしていた神さまを呼ぶための、なにかを」

 記憶の中で、紅葉が舞う。赤い紅葉がはらはらと苔がむした石畳の上を染め上げて行く。

「環兄さんの話を聞いて何日も経たない日のことです。私は祖母と一緒に近くで催されていた古本市に出掛けました。本当は環兄さんも一緒に行く予定だったそうですけど、兄さんは調べ物に夢中だったから」

「想像はつくよ」

「市は盛況でした。東西南北からいろんな屋号を持つ本屋さんが集まって、ちょっとしたお祭りのようでしたよ。そんなでしたから祖母は早々に疲れてしまって、私は一人であちこちの本屋さんを見て回ったんです。品ぞろえは抜群でした。可愛い絵本やお古の教科書もありましたし、海外の風景が撮られた写真集なんかも売っている店もありました。端から端までくまなく私は見て回って、最後に一番貧相なお店に辿り着いたんです。青いビニールシートに本が一冊だけ売れ残っているみたいにぽつねん、とあるだけの寂しいお店です」

「随分と商売っ気がない店なんだな」

「私もそこが気になりましたけれど、店番をしていたのは若い学生の人でしたよ。あちらもあちらでまさか幼稚園に通っているような歳の子が来るとは思っていなかったんでしょう。吃驚して、あれこれ心配をかけてしまいました」

「いい人そうだな?」

「いい人だったんですよ、拍子抜けするくらいに。けれどそれとは対照的に本が持つ雰囲気は怪しかった。手にとって観察してもみたかったのですけど、仮にも売りものですから。買うと決めていないものをむやみやたらに触って壊してしまうのもいけない、と思って眺めていたら、学生さんが困った風に言うんです。何にも印刷されていない本だから、お絵かき帳くらいにしかならないかもね、って」

「いよいよ奇妙だな」

「ええ。私はどういう反応をしたか覚えていませんが、学生さんが捲ってくれた本には確かに何も書いていなかった。真っ白でした。ただその真っ白と揶揄したのも、少し自信がないんです」

「というと?」

「ふつう本というと、使いこんで黄ばんだり、埃っぽくなっていることがあるでしょう?」

「まあ、直接手が触れるものだからな。どんなに丁寧に保管しようとしても限度が来るさ」

 私は頷き、そして緩やかに首を横に振る。

「たしかにそうです。でも本には、そういった汚れがなかったんです。むしろ、綺麗すぎるというか。人の手に渡ったことがないようで、ですが英知だけは蓄えているというか。ほんとうに奇妙な本だったから、私と学生さんとで本を調べたんです。学生さんはどこかの大学生が作った芸術作品じゃないかと踏んでいましたけど、さすがにどこかに筆跡は残すんじゃないか、って思ったので」

「なるほど、一理ある。で、肝心のものは見つかった?」

「いいえ、けれど学生さんと私の中で共通意識が生まれはしました」

「へぇ、どんな?」

「この本には落書き帳くらいの価値しかない、そういう意識です」

「といってもな、青島。その彼だか彼女だかはどこぞの店長の代打だろう?」

「店を出る前に、商品の値段に関しては一任されていたそうです。ので、私はタダ同然で本を買えました」

「とんとん拍子だな……」

 玉置くんは顔を顰める。

「あの日の私は新しい落書き帳が買えたことが嬉しくて本の怪しさのことは忘れきっていましたし、帰ったらそこに市の様子や紅葉が落ちた風景を描いて環兄さんに見せてあげることばかり考えていました」

 不思議と喉が渇いて行く。水は胡藍で飲んだのに。

「祖母と家に帰宅した時、環兄さんがちょうど二階から降りて来るところでした。私は兄さんにその日買った本に絵を描いて見せてあげるね、とそう言ったんです。そうしたら」

「そうしたら?」

 瞼を閉じる。環兄さんは目を見開いていた。私を見て、じゃなかった。私が抱えた本を凝視していた。

「『――ミケ、その本をどこで?』、と。当然のように私は何のことだか分からなくて、市で見つけたんだよとしか返せませんでした。すると兄さんが言うんです。――、『これがぼくの探していたものだ』って」

 はは、と私は笑った。

「私はそれ以上言うことも、聞くことも出来ませんでした」

「せめて、何の本なのかも聞けなかったのか」

「聞けませんよ。聞ける訳がない。『ミケ、ありがとう』って、あんなに嬉しそうな表情で言われたら、もう何にも」

 祖母は環兄さんに本を渡す私を見て、良かったのかと訊いた。満面の笑みを作る環兄さんを見て、元気になってくれて良かったと心から思ったし、探すだけしか出来ない自分が役に立ったことが誇らしかった。

 それに私の手元にあの本があったところで、何に使っていいかも分からない。だったら、理解者の元にある方があの本に取っても幸せなことだ。

 私はそう考え、祖母に良いんだと返した。しかし今思い返せば、それは大間違いだった。

「本を渡してから環兄さんは丸一日ずっと部屋に篭るようになって、時々スーパーかどこかへ買い物に出かけてはまた部屋に閉じこもるを繰り返していました。ついに学校にも登校しなくなってしまいましたから、さすがの母さんも何度か説得しに行きましたけど何の反応もなくて諦めてしまったんです」

「きみの母親も匙を投げるほどか」

「部屋の片隅に座って嘆いていましたよ。どうしてこんなことになってしまったんだろうか、って。私や父さんとなると、さらに駄目です。お母さんが作ってくれたご飯を兄さんの部屋の前に置いて、時間になったら引き取りに来て。そんなのばかりでした」

「廃れた生活だ」

「そうですね……。でもその生活も長続きはしませんでしたよ」

 私は声に影を落としながら、あの日の近いところまで歩を進めて行く。

「冬です。その年は珍しく雪がちらついて、そのまま三日三晩降り続けたんです。朝起きると、室内が冷蔵庫の中みたいに冷え込んでいて。私はあまりの寒さに目が覚めてしまったんです。外を見ると辺り一面が雪で染められて、真っ白でそれはもう綺麗な光景でしたから、私は兄さんを起こしに行ったんです」

「何のために?」

「何のためだったんでしょう。あの真っ白な雪を見て喜んで貰えたらそれで私は満足だったし、うんと小さい頃のように遊んで貰えたらっていう下心もあったかもしれません。朝も早かったから両親たちをうっかり起こしてしまわないよう静かに私は兄さんの部屋の扉を叩いて、呼びかけました。けれど何の返答もなくて」

「まあ、当然だろうな」

「そう、いつもなら私はそこで止めていた筈です。でも私は諦めきれなかった。環兄さんと遊びたかった。話をしたかった。前みたいに、笑って欲しかった。だから」

 玉置くんの視線が刺さる。

「開けたのか、部屋の扉を」

 私は無言で頷いた。

「環兄さんの部屋はとても暗かった。その中に石油ストーブの赤だけがぼうっと浮き上がっていました。薄暗い部屋の中で環兄さんの姿が見えなくて、名前を呼んでみたんです。それでも環兄さんは返事をしてくれなかった。仕方なく私は窓際のカーテンを開けました。すると朝日が部屋に差し込んで、これで大丈夫だと思ったら、兄さんが空に浮かんでいたんです」

 玉置くんは固まっているのか、それとも状況を整理しようとしているのか、何も言わなかった。

「きっと私を驚かそうとしているんだろうと思って、私は兄さんの名前を呼びながら近付きました。それでも兄さんは浮かんだまま降りて来てくれないんです。首を傾げながら、兄さんの前に立つと環兄さんの顔がよく見えました」

「青島」

「当然ですよね。だって環兄さんは首を吊っていたんだから」

「青島」

「目は飛び出ていたし、口もぐにゃっと曲がっているし、舌だってあっかんべえするみたいに出て、おかしいったらなかった。けれどよくよく兄さんと顔を合わせていると気付くんですよ」

「青島」

 三度目の呼びかけを私は無視した。

「環兄さんの死に顔が恨みがましそうな表情でいることに」

「それは、見間違いじゃないのか」

「見間違いじゃない。見間違いである筈がありません」

「どうして?」

「兄さんがああなってしまった理由を作ってしまった理由は私にあるんです」

「理由って、きみに責任があるような部分は今の話のどこにもなかったぞ」

「いいえ、あります」

「いったい何だ? まさかきみが渡した本が読んだ相手に死を運ぶ呪いの本だったという訳じゃないよな?」

 私はひた、と玉置くんに目を合わせた。と、彼は髪を掻き乱した。私は玉置くんから押し入れの床に視線を落とし、あの日の続きを語った。

「死体になった兄さんを見つけた日、部屋の中に変なものがたくさんあったんです」

「変なもの?」

「星の位置を描いた図面や笛、それから天秤。あと何かの紋様が描かれた画用紙もありました」

「たしかにそれは変だな……。一貫性がないし、何かの儀式みたいだ」

「そうなのかもしれません」

「そう、とは?」

「儀式です。環兄さんは私が見つけた本で、十本足の舟が信奉する神さまの敵を召喚する儀式を決行したんだと思います」

「だが決行したなら、どうして環くんは死んでしまったんだ?」

 問われ、私はぐるぐると回る思考を吐き出した。

「この何十年とずっとそのことを何度も考えて来ました。明確なことは分かりません。ただ一つだけ言えることがあります」

「なんだ」

「私が兄さんに渡したあの本が兄さんの部屋からなくなっていたんです」

「誰かが持ち出してしまった、とか?」

「可能性がないとは言い切れませんが、低いとは思います。私が入るまで部屋は完全ではなかったにせよ、密室でした。それに現場検証の為に警察が兄さんの部屋を調べましたけど、あの本は見つからなかったんです」

「しかしな、それじゃあまるで本が一人でに消えたということにならないか?」

「……、可能性はあるかもしれません」

「青島。発言した俺が言うのもなんだが、今のは結構馬鹿馬鹿しいものだぞ?」

「たしかに馬鹿馬鹿しくって、ほかの人に話したら鼻で笑われるかもしれません。けど私は笑わない。だって兄さんは絵空事の神さまに救われて、あの沈んでいた時期が嘘のように明るくなりました。もしかしたら、じゃない。神さまはいる――、そう仮定すれば本が消えたことも仮説が立てられます」

「オーケー、話を振ったのは俺だからな。付き合おう。で、どんな仮説なんだ?」

 肩を竦めおどける玉置くんを私はじろり、と睨み、咳払いをする。

「環兄さんが儀式に成功して何者かを呼び出した。ですが、呼び出しただけでは不完全だった。だから環兄さんは儀式を強制的に終了させるために首を吊って、本は呼び出したものが持ち去った。そういう仮説です」

「まあ、ない話ではないだろうな。だけど青島、その仮説を立てるなら一つ飲み込まなくては」

「何をですか」

「きみは、環くんを殺してないということだよ」

 私はまた膝に顔を埋めた。

「殺したんですよ。殺したとしか言えない」

「きっかけを作ったのは青島かもしれないが、何も知らなかったんだろう。というか、知れる筈がない。もしも内容をきみも知っていたとして、その時にきみは環くんに本を渡すか?」

「……、渡さないですよ。どんなに兄さんが喜んでくれるとしても、死んでしまう可能性があるものを渡しなんかしない」

「そうだろうとも。なら、だ。青島」

 私の目の前ににゅ、とてのひらが現れる。見れば、玉置くんが場違いにもにこりと笑っている。

「きみが負うべき責はない」

「話を聞いていましたか。何も知らなくても兄さんが死ぬ原因を作ったのは私なんですよ」

「環くんには気の毒だが、それはどうしようもなかったことだと証明できた。それ以上の事実が必要か?」

 私は言葉に詰まった。

「必要ですよ、少なくとも私には。私が見つけた。見つけてしまわなかったら、環兄さんは今も生きているかもしれないのに」

「ここできみとシュレティンガーの猫を言い合う気はしないよ。第一に青島、きみには悪意もなければ殺意もないじゃないか。それではきみが殺したとは言い難い」

「じゃあ、玉置くんは子どもが何気なく生き物を踏み潰しても、殺意がないと言えるんですか」

「殺意はないよ」

「……っ、おかしいですよ。そんなの」

「ほんとうさ。まだ目の当たりにしたことはないけど、彼らがそうするのは至って自然な本能だろう」

 私が二の句を次ごうとすると、彼は自らの記憶が一旦凍結した頭の側面を指で叩いた。

「青島、人は思考する葦なんだ。だからこそ、どうなるかを知りたがる。何故って、そうしないと分からないから」

「それは……、殺意よりもひどいものじゃないですか」

「そうだよ、気付いていなかったのか青島。人間は、そういう生き物なんだ」

 私はがっくりとした。人類がいかに動物じみていたかを思い知らされたからじゃない。私自身もそういう生き物であって、環兄さんを追いやったのではないかと思ったからだ。

「なあ、青島」

「なんですか……」

「きみ、ひょっとしてきみの両親に環くんが死んだ理由を話していないのか?」

「そうですよ。言ったところで、煙たがられるだけだし信じて貰えなさそうですから」

「なるほどな。まあ、きみの言う通りだろう。聞く限り、きみの両親にこれを理解して、許容する力はなさそうだから」

 私が顔を上げると、彼は諸手を挙げて、「悪気はない」と断った。その一言にまた沈む。

 事実だ。幸か不幸か、私たちのお父さんとお母さんは至極まっとうだった。

 環兄さんが自殺したことが知れるや否や、お母さんは兄さんの亡骸にすがり泣き、物言わぬ兄さんに自殺の理由を問い続けた。お父さんはそんなお母さんを口を閉じて、じっと見守り、涙が涸れて来ると肩を抱いて自分も泣く。

 そういう両親だった。そしてそのままお母さんは事実を受け止めきれず、病んだ。病んだお母さんを支える力がなかったお父さんは他所へ逃げた。私はくらげみたいなものだった。

 ぷかぷか波の行くまま、風の行くまま、流され行く。

 その結果、高校を卒業し大学へ入学が決まると、お父さんからも切り離された。

『大学やアパート代だけは工面するから』

 それが最後に聞いたお父さんの言葉だ。私の手に残ったものはない。何もない。

 あの馬鹿げつつも家の明かりが点き、お母さんが食卓にほかほかの料理を並べ、環兄さんが手伝いをし、みんなが寝静まった頃にお父さんが帰って来る――。

 そういう家は、もうない。帰りたい家は、もうない。

「……」

 黙りこくっていると、視線を感じた。

「話は終わりました」

「でもきみ、納得してないだろ」

 そこにこだわるのか、彼は。私は嗚咽を飲み込み、納得出来る訳がないと一蹴した。

「十何年と私が考えに考えた結果なんです、放って置いて下さい」

「放って置いて、青島は楽になるのか?」

 唇を噛む。「なりますよ」、と嘘を吐いた。

「それは嘘だろう、青島」

「嘘じゃない」

「意固地だな」

「…………」

「無視か。傷つくぞ」

 知らない、と私は蝸牛のように殻に閉じこもった。

 環兄さんはきっと怒っている。救われたのに、馬鹿な妹のせいで死ぬことになってしまって怒っている。そうに違いな――、ぐにゃんと頭が揺れた。

「ぅぐ」

 首が変な方向へ倒れたせいで、変な声が出る。「ああ、悪い。加減が」と言って、頭が左右に揺られる。

「何を、してるん、ですか」

「違うか? いいことをした時には、褒めるべきだと覚えているんだが」

「それは犬猫や子どもの場合であって、成人の私には」

「じゃあ、ハグでもするか」

「要りません」

 間髪入れずに答える。と、玉置くんは「はは」と笑って、私の頭をぐりぐりと撫でつけるように揺らした。

「俺が保証する。青島、きみはいいやつだ」

「何を……」

「まあ、聞けよ。きみの美徳は無意識にでも困っている人の役に立とうとする。そういうところだ。だからこその探す力なんだと俺は思う」

「それで貧乏くじ引かせてたらしょうがないですよ」

「くじは引いた人間の起こり得るだろう幸運と災厄が書かれてあるだけで、どう回避し、手に入れるかは自分次第だ。だろう、青島」

 私は何も言えなかった。正しかったからだ。それでも私の胸の中には、小さい頃に出した結論が今も残り続けている。

「俺もこれできみの悩みがすっきり解決するとは思ってないさ。もし解決したらしたで、きみの今までの時間がいったい何だったのかっていう話になるからな。俺が分かって欲しいのはさ、青島は謝る機会を逃しただけで、そう悪いことをしたわけじゃないってことなんだよ」

「機会」

「そう。なあ、青島。もしも俺が依頼人の探し人で報酬が入ったら環くんの墓参りに行かないか」

「兄さんの?」

「そうそう。墓参りには線香と花だな。環くんの好きなものも買って、墓の掃除もしよう。で、環くんが安らかに眠れるよう手を合わせる時にきみはその時のことを含めて謝るといい」

「誰も答えてくれないのに」

「誰も答えてはくれないだろうさ。ここは生者の国だからな。だが、謝りたいと思うままでいるよりも、多少卑怯でも墓を前に謝る方がいくらか誠実だよ。それにだ。不謹慎だが、もしかしたら環くんが枕元に立ってくれるかもしれない」

「……、怒るでしょうか」

「青島が環くんに手を合わせる時に、俺がフォローを入れて置くよ。青島はいいやつなので、そう叱らないでやって下さいって」

「……、はは」

 私は空笑う。腫れた目で玉置くんの背後にある窓の外を見る。

 夜が更けつつあった。

「上の段に布団がありますから、玉置くんはそれで寝て下さい」

「分かった。きみは?」

「私は……、考えたいので」

「そうか」

 玉置くんは軽く頷き、布団を押し入れの上の段から取り出して、畳の上に敷いている。

「明日の予定は?」

「午前中に講義が入っているので、昼から依頼人の家へお伺いしませんか」

「それは構わないが、きみは午前中は大学なんだろう。どうやって合流する?」

「一度帰ってきますから大丈夫ですよ」

「それはそれで二度手間じゃないか。大学から依頼人の住所までは遠いのか?」

「いえ、そうかからない距離ですよ」

「なら、俺が大学まで行くよ」

「玉置くんがですか」

「安心してくれ。迷子にはならないし、姿を消すような真似もしないさ」

「後者にいたっては心配はしていませんけど……、じゃあ明日大学までの地図を描いておきます。もし道が分からなかったら周囲の方に尋ねて下さい」

「オーケー」

 カチッ、と照明のスイッチがオフになる。

 暗闇の中を玉置くんは動き、布団の中に潜ったようだ。ようやく人心地がつけそうだ。

「おやすみ、青島」

 不意の言葉に瞼が開く。もう何年と交わしていない言葉の一つだった。口の中でたった何文字かの言葉が詰まって、なかなか出てこない。何度も何度も噛み砕いて、ようやくおやすみなさいの一言が返せた。

 その時には、もう人の寝息が聞こえていたから言葉は届いていなかったかもしれない。すこしがっかりした。

 気を反らそうと、何気なく見た窓の中には三日月が笑うようにこちらを見ていた。

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