シュガー・エンド・バカンス
ロセ
第1話
私は昔からなくしものを見つけるのが得意だった。
最初に見つけたのは亡き祖母が祖父から最初のデートで貰ったというイヤリングで、その次はお父さんのフロッピーディスクに、近所のお姉さんが飼っていたトイ・プードルのプリンと様々だった。
どうして当の本人たちが見つけられなかったものを私が見つけることが出来るのか。
それは私自身にも説明が出来ない。ただ行きたい方向へ行き、ぼんやり歩いていたら誰かがなくしたと話していたものを見つける。その連続だった。
時が過ぎ、大学生になった今でも私の不思議な特技は健在だ。
そうして私――
さもなければ、私は収入源がなく、近所にはえている雑草を食むしか食事というのが出来ない危険性があったからだ。とはいえ、失せもの探しも楽じゃない。労力的な意味じゃなく、金銭的な意味でだ。
意地汚い話になってはしまうけれど、一件一件の単価がものすごく安い。
もちろん理由はある。高額な値段をふっかけたにも関わらず肝心のものを見つけられなかった時が恐ろしいからだ。裁判沙汰にでもなれば、勝つ見込みはないし、もともと裁判をする為のお金すらない。
ので、私に単価が安いと愚痴を零す権利はない。こういう言葉だってある。塵も積もれば山となる。こつこつ貯めれば少額であっても大金になるのだ。
うんうん頷きながら昼までの講義を終えた私はいそいそと食堂へ向かった。大学生の夏休みは小中学生の頃の夏休みをはるかにしのぐほど長いスパンがある。その為か、いつもは人でごった返している食堂の中は閑散としており、奥で料理を作っているおばさまたちも今は井戸端会議をしているところだった。
私は肩にかけたポーチからがま口を取り出し、中に入っているお金を確認する。千円札が一枚と十円や一円玉が何枚かある。いつものことながら贅沢なものは食べられない。すこし値段が張る定食に目を奪われながら私は三百五十円と良心的な価格の定食を選んだ。
十分とかからずに選んだ定食が出て来る。メインでもある鶏のタルタルソースがけから甘酸っぱく香ばしい香りが立ち込め、お腹がきゅうと鳴いた。
昼食が乗った盆を手に、いつもなら埋まっている窓際の席が空いていたこともあり、私は一番見晴らしの良さそうな席に着いた。
定食の他のラインナップでもある生卵を割り、そこへ醤油を二、三滴ほど垂らす。じゃこもつけられていたので卵の中に投入し、掻き混ぜてご飯にかけると贅沢な卵かけごはんになった。
何日か前にお米がなくなってしまったので、カップラーメンや食パンの耳で食いつないでいたこともあって炊いたご飯を食べるのは久々だ。味わって食べようと心に決め、もぐもぐとコクのある卵と若干の塩気が利いたじゃこが乗ったご飯を頬張る。
「青島くん、今暇か?」
しゃがれた声に器を下げると私が所属するゼミのナホミ准教授が心底面倒くさそうな顔をして立っていた。気のせいか、また白髪が増えている気がする。
「青島くん、聞いているのか?」
「あっ、はい。……えっと、暇といえば暇です。はい」
「まったくきみは……。当初からはっきりしない学生だな」
准教授はぶつくさ言いながら私が選んだ学食より更にワンランク低い値段で出されている塩サバと納豆、味噌汁がついた定食に手を付け始めた。
サバの身をほじくる箸もその表情も何もかもが煩わしそうだ。そういえばこの間何ヶ月かぶりに研究室に顔を出したら、准教授がまた教授になり損ねたらしいと先輩たちが話しあっていたような気がする。
これで何回目だっけ。……、通算十八だったか。十九だったか。まあ、そこら辺だ。
「――お昼のニュースです。まずは本日午前未明に発生しました
昼時に似合わないニュースを聞きながら私は味噌汁を啜った。麹が入った味噌汁は甘く、低コストで行く為なのか味が薄められているのが特徴だった。
「今日日どこも物騒だな」
准教授のコメントに私は尋ねる。
「島もああ、ビスケットを叩いて割ったみたいになるものですか?」
「どうだろうな。僕はそちらの分野の研究職ではないし、深い話も出来ない。が、……知っているかね」
「何をですか?」
「どこぞの宗教団体が近々どこかの島がこうなることを予言していたという噂だよ」
「それ、十本足の舟ですよ」
「知っているのか?」
「……まぁ、あの団体は昔からそんな感じでしたよ」
「詳しいな、知り合いに入団者でもいたのかね」
蘇りそうになる記憶に蓋をし、私は箸を置いて生温いお茶を飲んだ。
「ところで話は元に戻るが青島くん」
「はい」
「人探しを頼めないかね」
「人、ですか」
大学に入学して少し経った頃、研究室の中でものが頻繁になくなることがあった。そのほとんどが事務用品ではあったけれども中には個人の大事なものも含まれていた。とはいえ、私はなくしもの探しに絶対の自信を持ってはいなかったし、昔に痛い目にあってからというものの自分の意思に関わらず何でもかんでも探し出してしまうこの特技を持て余してすらいた。
だけれども大事なものが見つからず、悲しくなる気持ちもよく分かった。だから今回だけ、と勝手に動く特技に制限をかけるように言い聞かせた。その効果があったのかなかったのか、私はなくしものを大方見つけ出し、准教授に提出した。が、ここで一つ私が予想出来ていなかったことが起こる。
准教授に自作自演の疑いをかけられてしまったのだ。考えてみれば無理もない話だった。みんながどれだけ探したかは私は蚊帳の外で知らなかったけれども、それなりに時間をかけたらしい。それでも見つからなかったものを私があっさりと見つけ出して来たとなれば、疑いの目を向けられても仕方がない。でも私は脚光を浴びたいがために人のものを盗んではいないし、生活が困窮してこそいたものの窃盗は罪だと知っている。
信じて貰えるかどうかは賭けだったけども、疑いをかけられたまま大学生活を過ごすことが難しいことは私でも分かる。観念した私は正直に自分の珍妙な特技について話した。
准教授は私の特技を信頼こそしてはいない様子だった。けど転ばぬ先の杖ということわざもある。准教授は私に何かしらの価値を見出し、かつ生活に困っているにも関わらずアルバイトもろくに出来ないことを知ると最近なくしものがあると話す人を紹介してくれるようになった。いわば、仲介役だ。
見事、目的の物を見つけられれば感謝のしるしとして謝礼がいくらか入る。そして当然、仲介をした准教授のところにもいくらかが入る。そういう仕組みだ。
「そう、私が若い頃から懇意にして頂いている方のご婦人でね。つい最近彼女の恋人が消えたらしい」
深くは突っ込むまいと決め、「神隠しですか」と真顔で尋ねる。
「馬鹿を言いたまえよ。昨今においてそんな非現実的なことが起こるわけないだろう」
「……、じゃあ痴呆症とかですか。家の近所でもよくありますよ」
「もしそうならこの話を聞いた時点で、私は夫人といっしょに近くの交番まで付き添うんだがね」
准教授の口ぶりに私は得心がいった。恋人は恋人でも夫人のいう恋人はやや違うらしい。どうして夫人と失踪した恋人がそういう仲になったか聞くのはあまりに野暮だ。おまけに火傷もしそうだ。聞かないで置こう。
「少なくとも恋人の方は成人されていらっしゃるんですよね?」
「聞いた話では二十代後半だったそうだ」
「なら、あんまり言いたくはありませんが、恋人さんの方は夫人に愛想がつきてしまったと考える方が自然なのでは?」
「たしかに自然だ。だが、突然自分の一番大切なものが自分の手から消えたご夫人の頭は一般的知識に欠けていてね、自分に都合がいい解釈をしがちだ。しまいには過去の女や攫われたのだと言って、話し合いもまともに出来ない状態なんだ」
「それは、大変ですね」
本心だ。そして私もその末席に座ることになる。
「ああ、そこでだ。青島くん、きみには件の恋人を早急に見つけて貰いたい。勿論、謝礼はいつも通りある。なんならいつもより期待してもいいだろう。夫人はいるのか分からない犯罪組織に身代金を請求されて払う心つもりでいるんだからな」
私は学食を選ぶ際に見た散々たる財布の中身を思い出す。学食でいくらか使ってしまったから残りは六百弱でそれが今の私の全財産だ。貯蓄などない。両親からの援助もない。断る理由が見つからなかった。
「お引き受けします」
私が言い切るよりも先に准教授はメモ紙を二枚机の上に置いた。「見てもいいですか」と断ると准教授はしかめっ面のまま味噌汁を啜っている。
メモ用紙を手に取り、そこに書かれた内容を検める。一枚は探し人たる恋人の特徴が事細かに書かれてある。しかしこういう時に必須でもある写真がない。聞くと恋人が写真に写りたがらなかったからだという。絵であれば夫人の家にあるにはあったらしいが、白いキャンパスをそのまま額に入れ飾っているだけで恋人を描いたものではなかったらしい。残念。
二枚目には地図だ。描かれた建物や道の名前などを見ている限り、夫人の家は成金になった人たちが住む場所と昔から有名だった場所にあるらしい。
「期限は一週間、それ以上は夫人の気が持たないからな。きみのことだし、今回も見つけるとは思う。もし見つけたらこの地図に描かれた場所に行ってくれ。用件を言えば伝わる筈だ」
「……もしも見つからなかったり、その恋人に同意を求められなかった場合はどうしましょう?」
「その時はきみへの謝礼がなくなるだけだな。いや、僕の方も用意していた件がご破算になるな……」
ふらふらとした足取りで准教授は食堂から出て行った。
残った私は渡されたメモの内、恋人の特徴が書かれたメモに目を通す。
黒髪で浅く切っている。黒と紫が混じったような色の目。百七十五センチから百八十センチ。しっかりした体つき。視力が弱く眼鏡をかけている。失踪する前の服装はGパン。綿のシャツ。下駄。背中に奇妙な形の痣がある。
「……、巣立ちの時じゃないのかな」
ひとり呟いた私のぼやきを受け取る人は誰もいなかった。
・
・
人探しの依頼を受けたその日の帰り道、私は借りているアパートの近くにある商店街を歩いていた。
夕方の六時を過ぎると商店街に軒を連ねる店が一斉に値引きを始めるのだ。一人分の食事を作るのは手間であるし、材料を一つずつ揃えて行って一品を作るよりも出来合いのものを買った方が安く収まる。万年金欠の身である私は日々この商店街に助けられ生きていた。もしもここがシャッター街になろうものなら、飢え死は免れないだろう。
軽口を叩きながら目ぼしいものを探し歩いていると、足元から猫の鳴き声がした。見れば、よくみかける黒ぶちのノラ猫だった。経済的に余裕がある時には、刺身の一きれや二きれをご馳走しているけれども、今回に関してはそういう余裕がまったくない。
「ごめんね、今日はなんにもあげられないんだ」
頭を撫でててそう伝えると、ノラ猫はにゃあと鳴いて脇道にそそくさと入って行く。
お腹が空いているのに、可哀想なことをしちゃったな。もし今日引き受けた依頼が終わってお金が入ったら、奮発していいお魚の刺身を買って分けてあげよう。そう心に決めた時だった。
今しがたノラ猫が入って行った道から、カランカランと空き瓶が何本も倒れる音が聞こえてどきりとした。その道は人が一人体を横にしてようやく通れるという細さで、普段から薄暗くて不気味だ。
柔軟な猫のことだ。わざわざ道に並べられた空き瓶を倒すことなく歩くことは簡単の筈だ。
ということはどういうことだろう。こういう細い脇道でありがちな状況というと、私の頭に浮かぶのは二つだ。
喧嘩か、乱暴か。どちらにしたって穏やかじゃないことは確かだ。こういう時ってどうしたらいいんだろう。警察に連絡しようにもまずは状況を確認しないといけないし、しようとして運悪く相手と目が合ったら一貫の終わりだ。いや、でも商店街だから人の目があるか。声を張り上げて叫べば、まだなんとかなるかもしれない。
覚悟を決めて、気配を殺し脇道をそっと覗く。すると目の前が一瞬にして真っ暗になった。「あれ」と声を出して驚く。電気のブレーカーが予告もなしにすとん、と落ちる。夏場によく起こる現象と非常に酷似していた。何が起こっているんだろうと辺りを窺おうとして、その場から背を向ける。
と、全身の毛が一気に逆立つような、ひどい悪寒を覚えた。
後ろに何かいる。普段は曖昧になっている部分が急に鋭敏になり、そう告げた。振り向くべきか、振りかえざるべきか。ちく、たく、と頭の中に出来た時計が時間を刻む。喉がからからだった。
「大丈夫か」
掠れた、低い声がかかる。
はっとして前を向く。視界が元通りの明るさに戻っていた。ほっと安堵の息を零した。
「きみ、大丈夫か?」
落ち着いた声に振り返ると、男の人が一人空き瓶がいくつも転がった脇道の地べたに座り込んでいる。
夕焼けと建物の影が重なってはいたけれど、その人が心配そうに向ける目の色に私はしばし見とれた。黒の中に紫色が蜃気楼のように揺らいでいたから。
「……っ、つう」
そうだ、うっとりしている場合じゃなかった。私は目的を思い出して、脇道に座り込む男の人を見る。その人は痛そうにこめかみに手を当てている。血は出ていなさそうだ。
「あの、大丈夫ですか」
「ああ。俺は大丈夫だ。きみは?」
「私ですか」
「具合が悪そうに見えたからな」
言いつつ、男の人は壁に手をついてその場に立った。その身長は優に私を見下ろせる高さで、大学の同級生たちより遥かに背が高かった。見下ろされる。目が、生気を失くした力のない目が。片方の足が恐怖で後ろに下がる。
挙動不審な私の動作に気付き、「どうかしたのか?」と男の人が尋ねて来る。顔が上げられない。
「大丈夫です、何でもありません」
「そんなに震えているのにか?」
わざと伸ばした前髪の隙間から相手を見る。「いつものことなので」とそっけなく答えながら、すこしだけ持ち上げた視線がゆらゆら踊る紫色が混じる黒色の目を捉えた。後ろに下がっていた足が止まった。体が取った行動に内心、吃驚しながら尋ねる。
「ところで、何でそんなところに?」
「それが自分でもよく覚えていないんだ」
「覚えていない?」
「気付いたらここに座っていて、きみが来たんだ」
脇道の中に置かれているのだろう室外機が吐き出す熱風が前髪をふわり、と浮かせた。
「それは……、記憶喪失ってことですか?」
「そうなるかもしれない」
よろり、と足の力が抜けそうになる。予感が的中し、ふらつく私の前で男の人はぽんぽんと自分の体を叩く動作をしている。何をしているんだろうと首を傾ぐ。男の人がひた、とこちらに顔を合わせた。
「一つ嫌な報告してもいいか?」
「なんですか」
「財布がないんだ」
ひく、と顔面が強張る。
「周りに落ちてないですか」
指摘すると男の人は振り返り、「ああ」と何かを見つけたのか奥に消えた。良かった、とほっとしたのもつかの間だ。奥から男の人が持って来たのは鼻緒が切れた下駄だった。
「助かった、靴があった」
私はがっくりとした。駄目だとは思うけど念の為に聞いておこう。
「自分の名前は覚えていませんか?」
男の人は顎に手を当て、考えている。が、肩を竦めた。
「悪いな、思い出せない」
だよなあ、と納得し、「警察に相談してみますか」と尋ねる。男性はううんと悩んだ声を上げ、私にこう尋ね返した。
「警察は必要だろうか?」
何を言っているんだろう、この人は。呆れ顔を隠し、「だって、記憶喪失なんですよね?」と念を押す。
「ああ」
「だったらこのままじゃ、どこにも行く場所がないですし、それにいろいろ不便じゃないですか?」
ああ、と男の人は拍子抜けするほど、あっさりとした声を出す。
「そこに関しては心配はいらなそうだ」
「どうしてですか?」
「たしかに俺は自分の名前はさっぱりそうなんだがな。していいことといけないことの区別はつくし、車をどう運転すればいいかも分かる。なんなら、きみにテーブルマナーも教えられそうなんだ」
「……、厄介ですね」
そうだな、と男の人は頷く。澱んだ熱風に首筋に汗が伝った。
お腹も空いた。早くご飯を見つけないとお値打ち品が売り切れてしまう。ナホミ准教授に頼まれた依頼だってあるし、……あれ?
私はポーチの中から准教授に預かった探し人の特徴が書かれたメモ紙を取り出し、そこに書かれた特徴と記憶喪失の男の人の容姿を照らし合わせる。
髪型はあっている。特徴的な目の色も。眼鏡はかけていないけど、服装はそのままだ。決定的な証拠になりそうな痣はこの場で確認するには無理がある。
「それは?」
「わ!」
いつのまにやら男の人が目の前に立っていた。私は咄嗟にメモ用紙を後ろ背に隠した。男の人は不思議そうに首を傾ぎ、「見られて困るものだったのか?」と聞いて来る。
「いえ困るというか……、困りはしないんですけど、吃驚したから」
もごもごと言いながら私は後ろに隠したメモ用紙を出し、すこし悩んで男の人に見せることにした。
「見ていいのか?」
「まあ」
濁した回答を寄越すと、男の人は借りるぞと断り、メモ用紙を受け取って紙に書かれた文字をすっと流して読んでいる。「ちょっと事情があって、私はそこに書かれた特徴に合う人を探しているんです」と補足を交える。
「きみは、探偵かなにかなのか?」
「いいえ、一般的な大学生です」
「おかしなことを言うんだな」と、男の人はメモ用紙から顔を上げた。「俺が知っている限り、一般的な大学生は調査をしないはずだが」ともっともなことを言われてしまう。
私は渋い顔をして、「調査というか、人探しを頼まれただけです」と簡素に答える。
「人探し、ね」
男の人はその部分を口の中だけで繰り返し、「きみの名前は?」と話題を変えた。
「色の青に、島で青島です」
「青島か。よろしく、青島」
にっこりとした笑顔で握手を求められた。釈然としないものの拒否するのも変だと思い、その場の流れに乗る。
「俺も名前を名乗りたいところなんだがさっきも話した通り、俺は記憶喪失で名前……、というか自分のことについて全く思い出せない。かと言って名前がずっと無いままは不便だからな。それに関しては青島、きみが好きなように呼んでくれて構わない」
「はあ」
「うん。で、青島。ここからが本題だが、察するにきみは人探しが得意なんだろう」
「得意……、というほどでは」
「謙遜をしないでくれ。ふつう人は困ったら警察を頼るものだろう。なのに、依頼人はわざわざ大学生のきみに特徴を書いたメモを渡して、人を探させようとしているじゃないか」
雲行きが怪しい。この男の人が記憶がないというのに目ざといからいけない。
けれど男の人がこうだろう、と想像しているものと私は違う。こればかりは違う、と胸を張って言える。
六つくらいの年までは、たしかに私は男の人が言うように失くしたものを探して来ることを得意げに思っていた。事実、それで祖母も喜んでくれたし、父も褒めてくれたからだ。
だから、見つけたのだ。止めて置けば良かったのに、元気がなくなってしょげている兄さんの力になりたくて、もう一度笑って欲しくて探してしまった。
「青島?」
黙り込んだ私を名無しの男が呼ぶ。
「……、仰る通り私は得意です。人だけじゃない。何故か、人がどれだけ探しても見つからなかったものを見つけるのが得意です」
「そうなのか、すごいじゃないか」
諸手を叩いて喜色を浮かべる男の人に私は待ったをかけた。
「だけどそれだけです。それが良いことなのか悪いことなのかの区別もつきません。ただ見つけるだけなんです」
連ねた言葉が言い訳じみて聞こえた。いいや、まさしくそうだ。これは言い訳だ。責任を取れない私が唯一取れる責任の取り方なのだ。
「痛い目に合ったことでもあるのか?」
勢いよく顔を上げると、男の人は「図星か」と呟いた。
「悪いですか」
「いいや、自分がしたことを素直に認めて反省することは良いことだと俺は思うよ。ただ重さが釣り合うか釣り合わないかは別だ」
「重さ?」
「きみがしたことと、それに対するきみの反省だよ」
カウンセラーみたいだ、と私は思った。そして今も、これからもその重さが釣り合うことはないだろうことも確信した。
「私のことはいいんです。それよりお話したいことが」
メモ用紙の特徴から推察できる人物像と目の前の名無しの男の人は驚くほど共通事項が多い。ひょっとしたらひょっとするかもしれない。
「まあ、待ってくれよ青島。俺がきみの言わんところを当ててみせよう」
男の人はそう言って、私の前にメモ紙を証拠品のように突き出す。
「ずばり、きみが依頼された探し人と俺はよく似ている……、いや同一人物ではないのか。だろ?」
頬の肉を噛む。なんだか妙に悔しかった。
「そんな顔をするなよ、青島」
「こういう顔をしたくもなります」
「その気持ちは分からないこともないけど多少なりは喜んでもいいんじゃないか? いろいろと手間が省けたじゃないか」
「手間?」
「そう、青島が人探しをする手間に、俺が自分のことを思い出す為の手間」
「そんなに簡単なことなんでしょうか」
「そこは何とも言えないな。実際、俺の方はどうして記憶を失ったのかも知らないといけない」
どうして記憶を失ったのか。そういえばそうか。もしも原因が件の夫人との生活によるものなら、元鞘に収まったところで同じことが起きるだけだ。
私は前に出されていたメモを男の人から取り、しげしげと内容を見ていると、「青島」とまた名前を呼ばれる。メモから顔を離すと、男の人は何を思ったのか、Tシャツを捲り上げている。
「何してるんですか」
思わず、口から呆れた声が出る。
「いや、そのメモの最後に書いてあった痣がないか見たかったんだが」
「理由は分かりますけど、人の目もあるし別のところで」
「青島、なにからしいものはあるか?」
私の提案は見事に遮られた。男の人の背中はすでにこちらを向いている。どうも一度こう、と言いだしたら聞いてくれない性格のようだ。
私はしぶしぶ彼の背中にメモにある痣がないかを確認することになった。外気に晒された背中は私の肌よりも透明で、触ったら冷たそうだなという印象を受ける。確認しなくてはいけないとは言っても、あんまり人の背中をじろじろ見るのも変だ。
そう思い、背中から視線を外そうとした時、目がなにかを捉えた。冗談だろうと思いながらも、一度は離した対象をもう一度見るべく僅かに顔を上げる。
腰の辺りに岩の切れ目のように深く黒い痣があった。
ああ、と私は自分のそれが静かに事を成したことを知ると同時に、あの日から付いて回る虚無感をまた味わった。
「青島、どうだ? 痣はあるだろうか」
「ええ」
苦い答えに男の人はようやくシャツを下ろし、こちらに明るい顔を向ける。
「じゃあ、後は依頼人の方に本人か判断して貰うだけだな」
「……、そうですね」
「浮かない顔だな」
「いろいろと事情があるんです」
頭に無言の視線が降る。
「俺は依頼人のところに行かない方がいいか?」
「少しでも記憶が戻るかもしれない希望があるんだから、それは行って下さい」
そう答えると、男の人はふむと探偵よろしく顎を撫で、「青島」と真面目腐った声で私を呼ぶ。
「何でしょう」
「いくらか、お金の持ち合わせはあるか?」
何で今、そんなことを聞くんだろう。
「ある、とは言い難いです」
「そうか」
男の人はすこし残念そうだ。もしや、と私は尋ねる。
「お腹、減ってるんですか」
その問いに男の人は大げさに肩を竦めて見せた。
「ご明察だ、青島。さっきから腹が鳴りだして誤魔化すのに苦労しているところなんだ」
「……」
貝のように口を閉じ、思案する。袖振り合うも他生の縁ということわざもあるし、失くした記憶の手がかりが見つかったのだから、前祝に大盤振る舞いしてあげたいところではあるけれど、どう頑張っても私の全財産がこの一瞬で増えることはない。
なら、私に出来る選択は一つだ。
「中華料理は食べられますか?」
「中華? ああ、嫌いではないと思う」
「じゃあ、こうしましょう。ここをもう少し行った先に中華料理店が一軒あるんです。そこで拉麺と炒飯のセットを頼んで半分ずつに分け合いましょう」
「俺は食えるだけ有難いんだが、持ち合わせがないんじゃないか?」
「万年金欠です」
「なのに、いいのか?」
問われ、私は自分自身に言い聞かせる意味も込めて説明する。
「もしもあなたが依頼人の探している人であっているなら、いくらか謝礼が貰える予定なので」
「違って謝礼が貰えない場合は?」
「……、その時はその時です」
男の人は呆れた顔を浮かべる。
「俺が言うのもなんだが、そんな博打を打って大丈夫なのか?」
「そう改めて聞かれると、何ともいないところですね。でも私の財政難は今に始まったことじゃありませんから」
「貧乏学生という言葉自体は俺も把握しているんだが、現実はよりシビアなんだな」
なんだか私のせいで誤解を生みつけてしまっている気がする。
「いえ、ほかの人は……、ああでもどうなんだろう。私も他の人のことはよく知らないけど大学で勉強する合間を縫って、アルバイトをしたり、実家に住んで生活費や食費だとか浮かせられるものは浮かせている子が多いとは思います」
「青島はそうじゃないのか?」
「……、そうですね。実家はもう出ました。本当はアルバイトをして、生活費を工面しないといけないんですけど難しくって」
「それは、技能的なことが?」
見知らぬ人にどこまでを伝えるべきかですこし返答に迷い、「いいえ」と答える。
「単純に私自身の問題です」
「俺は青島に何かしら問題があるようには見えないけどな」
「たぶん、あなたがイレギュラーなんだと思います」
私は身長がそう高くない。だから人と話しをする時には、相手は眼下にいる私に視線を合わせようとする。なんてことはない動作だ。普通の人ならば気も止めはしない。
だけれど、私はそれが駄目だ。ぼんやりと、しかし恨みがまし気に視線を投げるその目が頭に焼き付いている。だからどこへ行っても人と目を合わせられず、上手く喋れなくなる。酷い時は吐いてしまうこともある。
治そうと思って簡単に治るものでもなかった。結局のところ、私に出来た選択は荒治療を持ってお金を取るか、お金に苦労する生活をして自然治癒を待つかの二択で、私が選んだのは後者だった。
「運命だな」
「は?」
唐突に零された言葉に私は耳を疑った。
「口説いている訳じゃないぞ、ましてや運命信者でもない。ただ、本当にそう思っただけなんだ」
「そうですか」
「そうだとも。ただな青島、もう少し反応があった方が俺としては助かる」
「すみません」
軽く謝ると、男の人は「きみと話していると気が抜けるな」と言うので、私はよく言われると返した。
これから行こうかと思っている中華料理店を教えて貰ったゼミの先輩にも似たようなことを言われた。きっと私はそういう風になったのだ。心ここにあらず、に。
きゅるる……。かすかに聞こえる腹の虫の音に男の人と顔を合わせる。
「……、青島」
「みなまで言わなくていいですよ」
「すまない」
路地裏から商店街の通路に出ると、辺り一面を夕焼け空が包んでいた。
・
・
坂をすこし上った先には、油じみた汚れが目立つ中華店が一軒ある。
『
控えめに言って、ふつうの店だったのだ。
私の住んでいるアパートもこの近所と言えば近所だったが、外食をまったくしないこともあって胡藍のことはまったく知らなかった。が、あるきっかけで大学のさる先輩に私の慢性的な金銭問題を話してみたところ、この店を紹介された。味こそ普通だけど、店を切り盛りする
以来、私はこの店に助けられてきた。
坂を上りながらそんな話をし、店の前にまでやって来たところで、私は前持って男の人に釘を刺しておくことにした。
「私は今後もこの店には通いたいんです。だからあまり変なことは言わないで下さい」
「変なこと、というと例えば?」
「行き倒れていたこととか、記憶喪失のこととかです」
「全部だな」
「まあ、そうですね」
男の人は神妙な面持ちをした後、「まあ、きみが言うのなら従おう」と素直に頷いてくれた。
良かった。ほっと一息を吐き、暖簾をくぐる。いつものことだったけど扉を一枚隔てたその先に人がたくさんいるような様子がない。
「随分と静かだが、開いているのか?」
「開いてますよ、たぶん」
言いながら取ってを掴んで扉を開く。正面の通路には人がいない。
店内に入って中の様子を窺う。と、腰が海老のように曲がった白髪を短く刈った乙立花のおじいさんが左の隅っこで相撲のテレビ中継を眺め見ている。そういえば最近は耳も悪くなって来たと言っていたような気がする。
「お邪魔します」、と声を張って挨拶をする。
山のようにどっしりとした背中がぴくり、と動き、目元に皺を刻み、やや光を失った目が私を睨んだ。
「なんだ、あんたか」
「どうも」
小さく会釈すると乙立花さんはぶっきら棒に好きなところにかけていいからと言う。私が頷いている間に、乙立花さんは一昔前のサンダルをぺたぺたと鳴らしながら店の奥に行き、「婆さん、客だよ! 客!」と叫んでいる。
その様子を棒立ちで見守っていると、「青島、どこに座るんだ?」と小奇麗な横顔が私の顔の隣にぬ、と現れた。
「びっくりさせないで下さいよ」
「そう驚いている風に見えないけどな」
不満げに聞こえた声が十秒と経たずに調子を変え、「どこに座るんだ?」と尋ねて来るのだから笑ってしまう。
「カウンターの方の席に座りましょう」
「オーケー」
私は勝手知ったる店に設置されたウォーターサーバーへ向かい、水を二つ貰って戻った。男の人は真剣な顔でメニュー表を見ている。何も言わずに私が隣に座ると、男の人は参ったと言わんばかりに机にメニュー表を置き、「どれも美味しそうだ」としみじみ呟いた。
「期待させて申し訳ないですけど、今の私の財力じゃセットメニューを一つだけしか頼めません」
「ああ、悪い青島。そういうつもりじゃないんだ。こうして食事を提供してもらえるだけで十分なんだ。ただなんというかな、理性と本能は別物だから」
「ああ」
言っていることは身に染みてよく分かる。私も無い袖は振れないが、レストランのショーウィンドウに並べられた食品サンプルを見るだけで生唾が出て来る。
「あらら、ミケちゃーん」
朗らかな声が聞こえた方を見ると、おたふくさんを思い起こす顔立ちをした小柄な婦人がぱたぱたと厨房から出て来た。乙立花の奥さんだ。
「こんばんは」
「こんばんはぁ。……あら、あらら。こちらのお兄さんは初めましてだったかしら」
奥さんは何度も目をしばたたかせながら、隣にいる男の人の姿を確認している。鼻をひくひくさせる兎みたいだ。
「ええと……、知り合いで。お腹が空いたって言うのでこちらに」
「そうなの、初めまして」
奥さんがお辞儀すると男の人はにっこり微笑み、初めましてと挨拶を返す。
ほわあと頬を染めた奥さんにミケちゃんの良い人と耳打ちされる。奥さんは隠したつもりなのだろうけれど、カウンター台越しだったし、肝心の人は隣にいるものだから丸聞こえだと思う。
「違いますよ」
「そうなの? よかったわ」
首を傾げる私を他所に、「注文はどうしましょ」といつもの調子で尋ねる。
「胡藍セットを一つお願いします」
「はいはい。お父さーん」
適当な相槌を打ち、奥さんは厨房に帰って来た旦那さんに注文を伝えている。旦那さんは無言で頷き、中華鍋をコンロに置こうとして、ふっと振り返った。渋い顔の目が訝し気に細くなって行く。
「嬢ちゃん、その隣の兄ちゃんは?」
ああ、と私は納得して、「知り合いです」と簡潔に説明した。
「嬢ちゃんの知り合いねぇ……」
ぎょろりとした目がその内に男の人をくっきりと映す。
「青島には、世話になってるんです」
口からでまかせを吐く男の人に嘘を吐け、嘘をと思った。
「世話してやってる、の間違いじゃないのか」
「いいえ」
旦那さんはそこで関わるのを止めにした方がよさそうだと気付いたのか、背中を向けて料理を作り始める。中華鍋に引くごま油の香りが部屋に満ち、食欲をそそる。鍋に投下される野菜や肉のじゅわっという音が心地いい。
――ポーン。
弾くような音色に顔を上げる。テレビの画面に大きく映る映像は、一瞬目を疑う映像だった。
赤茶く濁った海水。その表面に漂う木々に紛れ、大きさの異なる衣服や靴、おおよそ日常生活でかならず使うだろう生活道具のすべてがぷかぷかと浮かんでいる。
焦点が動き、カモメが体を半分以上浸からせている車にとまっている姿を捉えた。
これは、何だろう。
「今、放送している映像は本日午前未明に崩落した神依島の現在の状況です。崩落の原因については不明のまま、半日が経っています。また海上自衛隊が島民の方の捜索をしていますが、誰も見つかっていないらしく……」
「ひどいな」
ぽつ、と零された言葉に隣を見る。男の人は神妙な面持ちでテレビ画面を眺めている。
「そうですね」
「あれじゃ、生存者もいないだろう」
草木も眠る逢魔が時。そんな頃に島という土台が跡形もなく壊れた。その時、島の人たちがどんな状況下にあったのか私でも想像できる。寝惚け眼を擦り、目にしたものが島の崩落なのだから。誰もが混乱した。夢の続きを見ているんじゃないかと。でも何度頬をつねっても悪夢は終わらなかった。しょうがない。それは現実そのものだったのだから。
カンカン、と鳴る硬い音に意識を前に向ける。
「そういやぁよ、前からあの何とかの舟とかいう宗教団体がいたじゃねぇか。あれがまた五月蠅くなって来てるのな」
昼間にナホミ教授から聞いた話を思い出した。
「十本足の舟、ですね」
「そうそう、それだ。婆さんも昨日買いだしに行ったスーパーで見かけたっていうし、俺も先週くらいに馴染みの麻雀屋の近くで見かけてよ……、とお待ちどう」
乙立花さんは頷きながら、注文した胡藍セットをカウンターの台に置く。私は腰を浮かせ、カウンター台からテーブルの上にお盆を置き、温かい湯気を出す料理たちに唾を飲んだ。
今日の胡藍セットメニューは炒飯と野菜炒めにコーンとカニカマ、卵のスープ、ブロッコリーと椎茸の和えものだ。一段とボリューミーなラインナップだ。これを一人で全部食べられたらお腹がいっぱいになるんだけどな。
ちら、と横を見る。男の人もまた空腹が限界にまで来ているらしく、その料理の数々に目を奪われ、ぐるると腹の虫を鳴らした。手早く炒飯と野菜炒めを取り分け、自分の前に持ってくる。和えものとスープは取り分けが面倒だったので好きに食べましょうとだけ告げた。
「いただきます」、と蓮華で炒飯を掬い取る。ほかほかと湯気を立てる炒飯が口の中に入ると、叉焼と玉ねぎのうま味が一緒になって口の中に広がった。ここ最近食べたものの中でまともなものというと、大学の食堂で食べたご飯が一番まともで、でもそのご飯たちも学食の中では貧相な中に入ってしまうから驚きだ。
カチャ、カチャ。陶器が鳴る音がやけに耳に残る。炒飯と野菜炒めを交互に食べ、時々和えものに箸を伸ばし、スープを啜る。
腹八分目のところだけれど、それでも十分満ち足りた心地がする。
「ごちそうさまでした」
「青島、もう食べないのか?」
心の内を見透かされたような質問に「まあ」と濁した答えを返す。
「お腹がいっぱいですから」
「遠慮をしてくれているんじゃないのか?」
「まさか」
私が答えると、「なんだ、お前ら二人とも金なしか」とカウンターの向こうから乙立花さんが訊ねる。
「私はもともとですけど、こっちもあるとは言い難いですね」
「なら、これ持ってけ」
乙立花さんはカウンターの端っこに置いてあったどんぶりに盛られた卵を私たちの前に持って来た。
「これは?」と男の人が首を傾げる。
「ゆで卵ですか?」
どんぶりに所狭しと入れられた卵を一つ手に取ってみるとずっしりとした重みが手に乗る。
「今日はお前さんらで最後だろうし、持って帰って腹減ったら塩でも振って食べるといい」
乙立花さんはちょっと待ってろ、と言うと厨房の奥に姿を消した。
「いい人だ」
その言葉に残った料理を黙々と片付けている男の人に目を向ける。
「そうですね、いい人です」
「だから繁盛していないんだろうな」
音もなく、スープを飲む男の人から私は目が離せなかった。
「どういう理屈なんですか、それ」
「青島は店が繁盛するためには何が必要だと思う?」
「それは提供するものとか、値段とか、考えだしたらキリがないんじゃないですか」
「たしかに店によって売るものは違うし、それぞれの原価から値段を算出する。何より人間はいろんな損得を考えるのが好きだから青島の言うことも正解といえば正解だ。だけども青島、もっと根本的なこともあると俺は思うんだ」
「と仰ると?」
「人だよ」
「人ですか」
「青島、きみだって立ち寄った店にいる人間がいやな態度をしていたら二度と来たくないだろう?」
「それは分かりますけど、乙立花さんはいい人ですよ」
「だからだ、青島。善人は家に必要かそれ以下のものしか残さないし、残らないんだ」
男の人の言い分は私が乙立花さんたちの善意に群がっているハイエナのようにしか聞こえず、しかし反論しようにも事実その通りで何も言い返せなかった。
「もう来ない方が良いでしょうか」
「どうして?」
「食い扶持の一つでも減れば、少しは財源が潤うかな、と」
「それできみが骸骨になったら元も子もないと思うけどな」
肩を竦めておく。と、乙立花さんが手に袋を下げて戻って来た。
「ほら、これも持ってきな」
私は椅子から腰を浮かせ、袋を受け取る。中を覗くと、冷凍した魚の切り身と土が付いたキャベツや張りのある茄子が所狭しと入っている。
「こんなにいっぱい貰って良いんですか」
「そっちの兄ちゃんも金がないんだろう?」
「お恥ずかしながら」
乙立花さんは私たちが食べた後の食器を片付け、水の張った桶に入れた。
「それでも少ない方だけどな、何もなくて餓え死ぬよりはマシのはずだからな。腹が減ったらうまい具合に調理して腹に入れときな」
私はしばし袋の中に視線を注ぎ、次いでありがとうございますと頭を下げた。
「おう、礼は就職でもして、そこの同僚やら上司やらと飯食いに来ることでいいからよ」
「はは……、厳しいところです」
「そこの兄ちゃんもだぞ」
声をかけられ、男の人は乙立花さんに目を合わせ離さない。
「なんだ? なんか付いているかね」
「いや、どうしてそこまで親切に出来るものなのだろうかと思って」
私も、そして乙立花さんも瞬きを繰り返す。
「青島は分かるんだ。顔なじみのようだから。でも俺は違う。青島を通じて今日顔を合わせたばかりの奴だ。そんな奴にまで、どうしてあなたは親切に出来るんだ?」
「難しいことを言う兄ちゃんだな」
乙立花さんは破顔したまま、そう短く零した。それでも男の人は顔を反らしたり、何か言うこともしないので、乙立花さんは困ったように自身の髪を掻いた。
「俺ァな、人にはよ、出来ることと出来ないことがあると思うんだよ。見てのとおり、俺はもう爺さんだけど自分や婆さんと毎日食べていけるくらいの蓄えはあるし、料理一本で生きて来たからな。飯をこさえてやることも多少くらいは出来るわけだ。だけど嬢ちゃんや兄ちゃんはそんな爺婆たちより若ぇのに金もねえし、頼る伝手もねえと来た。とくれば、俺らが手ェ貸さねぇっつうのはよ、あんまりにも薄情じゃねえか」
「薄情であなたの懐は満たされないぞ」
「老い先短ぇのに今更懐温めても何の得にもなりゃしねえよ。それよりも今日嬢ちゃんや兄ちゃんに飯を安値で食べさせてから、恩義の一つでも感じて、爺がおっ死んだら墓参りの一つでもしてくれる方が嬉しいもんだよ」
男の人は顎に手を当て、「そういうものか」と頷く。
「失礼なことを聞いた。許して貰えると嬉しい」
「高給取りになって来たら考えてやるよ」
「次の機会までに努力しておきます」
「ほどほどに頑張りな」
会話が一区切りしたところで会計を済ませようと、男の人に先に店を出るよう促した。
「ごちそうさまでした」
「あいよ」
がらがらと戸が閉まる音を聞きながら、私は受け皿になけなしのお金を置いた。乙立花さんは古めかしいレジのボタンをぽちぽちと押すと、「大学の方はちゃんと行ってるのか」と世間話を投げた。
「一応は。……行ってなくても、誰も気づかないだろうし、咎めたりもないとは思うんですけど」
「一回話し合いの場を設けちゃどうなんだ。実際、お前さん苦労してるだろう」
舌の上で苦労の二文字を転がす。たしかに私が今味わっているのは、苦労だ。だけどその苦労はしょうがないことだった。
家族がバラバラになる理由を作ったのは、ほかでもない私自身だった。だから私にはこの件に関して文句を言う権利もなければ、周囲に助けを乞う資格もない。
漠然と、許されるのを待つばかりだった。
「ご飯、美味しかったです。今度はもっとお金がある時に来ます。ありがとうございました」
一気にまくしたて乙立花さんの顔を見ないまま外に出る私の背にニュースキャスターの声が届く。
――引き続き、当番組では一部内容を変更致しまして、神依島の情報をお伝えいたします。
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