第25話 It begins to move emotions
「ただいま」
玄関で靴を脱ごうとしゃがむと、スマホが振動する。新着メールだ、送り主は奏
[今家出たから十分以内に着く予定!]
[了解だよ、気をつけて帰って来てね。]
手短に文を送り清一郎が待つリビングに進んで行く...
追加の必要な荷物を手に持ち、四月の夜を歩く奏の顔はほころんでいる。
文中の帰って来てと言う言葉が表情に影響を与え、歩く速度も若干速くなったのだ
正直、何日か空けていた自分の家に入るのは気まずかった、誰かがいる訳じゃない、いやむしろ誰かがいないからこそ心を締め付けていたのかもしれない、受け入れようと真正面から向き合おうとすればするほど
過去の辛い気持ちたちが蘇ってくる。
病院の一室で横たわった母親の手を握り枯れるほど涙を流したあの日
まるで世界で自分だけが一人ぼっちなんじゃないかと錯覚を感じる程に
でも田島家に帰れば暖かな明かりが目に入る。帰りを待ってくれる人たちがいる。
学校に行けば大切な友達と会える。言葉を交わせる。
それらは奏の心を強く支える力となり先に進む意思をくれるのだ、
強い感謝の気持ちを胸に早足で道を歩いて行く、暖かな複数人で囲む食卓へと...
同時刻、インスタントコーヒーを飲みながら雨霧八雲は一人だけの家で、考え事をしていた。先刻知り得た情報を父親に問いかけても良いのだろうか
(田島さんはああ言ってたけど、直接父からも話が訊きたい...けど訊いたとしても、何かが変わるわけでもない、それにもしかしたら、どこかに痕跡が残ってるかもしれないし)
八雲は立ち上がり、意を決して普段一度も入った事が無い音也の部屋に入る。
音也の部屋は綺麗に整頓されており、特に机周りは楽譜やバイオリン教室の教材などがファイリングされていて、几帳面な性格である事がそこから見受けられた。
今日はまだ暫く帰ってこないとは言え確認したら元にきっちり戻しておかなければ、勘付かれてしまうので細心の注意を払いながら辺りを探す。
机の上に立てかけてあった写真には家族三人が写っていて、そこには音也と響、そして幼い八雲、いつ取った写真だろうか...そう思いながらフォトフレームを持ち上げる。
すると一枚の写真が入ったフレームの割に少し重い事に気がついた、中を覗くと写真は一枚ではなく何枚か纏めて入っていたのだ
フレームから中身を取り出し写真を広げる。
ビンゴだ、そこには一枚目を含めて五枚写真が入っていた。
八雲が小さなコンクールで初めて入賞した際の写真、幸せそうな笑顔を二人共している結婚式の写真、母である響が赤ん坊を抱き抱えている写真、そして...
バイオリンを抱えた雨霧音也とギターを抱えた田島清一郎が肩を組みあって手に持ったグラスで乾杯している写真。この写真だけひしゃげていた為少し指で強く押した形跡が残されていた、
(これは...田島さんも音楽に触れていたのね。しかもこのギター、新しい様には見えない)
抱えていたギターは年季の入った様に見受けられる。相当使い込んでいなければ、ここまでならないだろう
つまり田島清一郎は昔から音楽を嗜んでいたと推測できる。先程訊けた話では自身の演奏歴については何も話していなかったが、もしかしたら話さなかったと言う事は何か意味があるのかもしれない
この写真からわかる事はもう一つある。最初に清一郎に見せた写真とは違い幼い八雲と空が写っていないと言う事
(お父さん...こんな笑顔で笑うんだ)
写真を見つめてフレームに順番通り戻していく、今はもう殆ど見る事無い父の笑顔が知りたい欲求を加速させる。
室内を入る前の状態に戻し部屋を後にする。一度冷静に頭を整理し考え直近の演奏会に意識を向けて
(今無理に焦らなくてもタイミングを伺いつつって感じかしら)
そう決断するとピアノが置いてある部屋へ動く、演奏会まで一ヶ月を切っている。技術を高め憧れた母の演奏へ近づき沢山の人に認めてもらうために
同時刻、二階自分の部屋で湯上りの大原陸人が頭を悩ませていた、視線の先には進路希望調査が置いてある。
(さっぱり思い浮かばん。)
希望調査には第一希望から第四希望までの空欄が有り、名前は書いてあるものの見事に真っ白である。
期限は四月末まで、まだ猶予はある。だが、大会を控えて練習が増えた部活もあるので出来れば早く書いて済ませたい、頭を稼働させるもしっくりくる案は浮かばない
(進学...は無いな、母さん大変だろうし)
大原家は離婚している。陸人が五歳の頃、親権を勝ち取った灯里は一人で子供二人を育てる事に、これまでも養育費で相当苦労をかけただろう...凛も来年高校に入学する。それもあって今回大学への学費負担をかける訳には行かなかった、陸人は就職したい仕事は何か考える為スマホに手を伸ばす。高卒 仕事一覧で検索、資格を取得し公務員の道、派遣会社での長期勤務から正規雇用、PCに強い方募集ウェブページのプログラマーなど様々な仕事が紹介されている。
だが、どれもピンと来なかった。
(駄目だ、やりたい仕事がわからん。)
すると部屋をノックする音が聞こえる。ドアの向こうから妹の声が
「お兄ちゃん。まだ起きてる?ちょっといいかな」
「おう、なんだー凛」
反応を返すと同時にドアが開く、凛はパジャマを着ていて、何やら手には細長い紙を持っていた。
「あのさ、お願いがあるんだけど...」
思わず目がパチクリしてしまう、まさかじゃじゃ馬妹が相談を持ってくるとは思わなかったのだ
「珍しいな、凛が俺に相談なんて、どうしたんだ?」
「うん。あのね...実はこれを、空兄ちゃんに渡して欲しいの」
もじもじしながら出した手には遊園地のチケットが握られていた、陸人はそれを見ながら答える。
「これドリーミンランドのチケットじゃん。空にあげるって事は...凛まさか」
「お母さんから貰ったの、これで頑張りなって」
「マジか!...でもこれ直接渡した方が良いだろ、誘うって覚悟決めたんなら凛がちゃんと誘わないと」
「わかってるよ、わかってるけど、私だと学校違うから渡すタイミングが無いんだもん。」
「なら家行って放課後に渡せばいいじゃん。」
「それだと怪しいって思ったの!出来るだけ自然な流れで渡して、当日は園内周ってから観覧車がベストだって思っちゃったんだよ」
そこまでプランを考えてるとは...我が妹も今回は本気である事を感じる。兄として、そこまで姿勢を見せられたら応援せずにはいられまい
「...わかったよ、出来るだけ自然な流れで空に渡す。そのかわり二人きりでいられるチャンスなんだ、当日絶対頑張れよ!」
「お兄ちゃん...ありがとう!私頑張るから、正直ドキドキしちゃい過ぎて緊張するけど、今から準備して頑張るから!!」
そう言い残すと、凛は部屋を出て行った。
陸人は妹の長年積み上げてきた想いの成功を祈る。何年前からだっただろうか、陸人自身が気がついたのは最近だった気がする。
最早先程までの進路希望調査などもう頭の片隅にも無い
ふいに満点の星空が見たくなって窓を開ける。四月の夜風が頬を吹き抜けて、始まりの季節に終わりを告げた
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