オクターブのその先へ

「あー、んがー!」

「どうしたカン、奇声を上げて」


 ダーンと鍵盤に手を打ち付ければ、絶望を湛えた不協和音が響き渡る。年末に行われるイベントに向けて、日々練習を繰り返しているときのこと。どうやらカンは大きな壁にぶち当たっているようだった。


「スガ、例の、ブルースプリングのピアノ?」

「ああ。どうかしたか」

「俺はそいつがどんな奴かは知らないんだけど、1コだけわかったことがある」

「――っていうのは」

「多分、そいつ手がデカくて指が細い」


 シャッフルしたバンドでランダムに選ばれたバンドの曲をやるというスタイルのイベントだ。カンには純粋にピアノがいるバンドということでブルースプリングというジャズバンドの曲が比較的多く割り振られていた。

 ただ、カンが辿り着いた結論からすれば、身体的ハンデ……とまで言うと大袈裟だろうけど、ピアニスト、キーボーディストとして大きく影響し得るフィジカルの差というものが壁を作り上げているようだった。


「俺もそんな特別小さい方じゃないとは思うんだよ。8度と9度の間くらいだから」

「小さい方ではあるけどな」

「特別小さくはねーの! 少し小さいだけだ!」

「はいはい」

「でも、ブルースプリングの曲をやってると俺の手がいかに小さいかを思い知らされる。多分このピアノ10度なんて余裕で届くんだろうな、羨ましい」


 10度というのは、ピアノの鍵盤で言うとドからオクターブ上のミまでが届くということ。余程特殊なケースでもなければ大体の曲で手が届くのがこのくらいなのだという。対してカンは8度と9度の間ほど。

 ブルースプリングの曲をやるに当たって、手の大きさの差が壁になっていた。運指のスピードやその他のテクニックでそれらしく聞こえるようにするという努力はしているようだけど、それでも思うようにはなかなかいかないらしい。

 ピアノは手の大きさが大きな制約となることがある。どれだけレッスンをしても、手が成長しなければ弾けない曲などごまんとあるという。ベートーヴェン以降は9度以上ないと厳しいとか。現に、カンが暇潰しに弾くクラシックは9度届けば十分なショパンなどが多い。


「羨んだところで背も手も急には伸びないだろうしなあ」

「うるせースガ! 物理的に見下ろしやがって! 177がどうした! 170あんのがそんなに偉いのか! 167には167なりの意地とプライドがあんだよ!」

「ならそのように頑張れ。俺はお前のピアノが一番だと思ってるし」

「そ、そうか! まー見とけよ、どんな卑怯な手を使ってでも攻略してみせるぜ!」


 カンも自分で高度なテクニックを求められるような曲を書くくらいだ。フィジカルの差を覆す“卑怯な手”だってその気になればいくらでも打ち出せるだろう。それに場数だってまあまあある。

 本人曰く「少し小さいくらい」という手の大きさについては、それこそスピードやテクニックでカバーできると俺は思っている。カンが音楽、そしてピアノには真面目だということを知っているからだ。


「あー、小指いてー!」

「ギリ届く程度だから攣るみたいなことか」

「うるせースガ! 俺の心配してる暇があんならタンバリンの練習しとけ!」

「ドラムじゃなくてタンバリンってところがリアルすぎて嫌だ」

「ヴィ・ラ・タントンのタンバリン推しの曲とか面白すぎるだろ。安心していいぞ、ちゃんと冷やかしてやるからな!」

「やめろ」


 そうだ。俺にもノルマはあるし、他のバンドの曲をしっかりとやれるようになっておかなくちゃいけない。ただ、それよりも不安なのはヴィ・ラ・タントンだったりするから何だかなあって。「ホップ・ステップ・タンバリン」とかいう鬼畜な曲だ。


「それにさ、流しのラッパ吹きのおじさんから渡されてるノルマもあるじゃんな」

「なんかさ、言ったら聞かないって自分で言っといて難だけど、本当に来るのかって。そこまで暇じゃないと思うんだけどな」

「いや、俺に聞かれても」

「そうだよな、悪い」

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