グレーズ・ブリーズ

 国立星港大学、理工学部応用科学科岡本ゼミ。大学が新入生ガイダンスだ新歓だと色めき立つ中、そのゼミ室は外界の空気に左右されない独立した空気を保っていた。何が変わることもなく、平穏というのが適しているだろう。

 尤も、現在時刻は午後9時半。こんな時間に新歓がどうとかで大学にいる連中もいないし、春学期はまだ始まっていない。ただ、こんな風に研究室で課題や暇潰しをする連中はまあまあいるらしい。


「……徹」

「ああ、ありがとう」


 ふわりとコーヒーの香りが漂う。それを淹れてくれたのは、岡本ゼミ唯一の女子である福井美奈。俺こと石川徹とは小学校3年からの付き合いで、高校は別だったけど大学で再会した。寡黙なのは昔からだけど、服装がかなり華美になっていて驚いた。

 ちなみに俺と美奈は同じ放送サークルに所属していたりもするけど、今年からは気が向いたときにだけ覗きに行く幽霊部員スタイルをとることになるだろうとはあらかじめ宣言してある。新歓のサークル説明会やビラ配りも何となくの参加。今日は欠席。


「リンはまだ戻らないのか」

「繁忙期……閉めの作業が……」


 俺と美奈、そしてリン……林原雄介という男を含めた3人で顔を合わせることが増えていた。同じゼミになったからというのもあるし、似た趣味があるというのもある。気がついたらそうなっていたと言うのが正しいだろう。

 リンは学内の情報センターでバイトをしている。情報センターはPC自習室という名目の教室だ。情報センターを利用するのは主に文系の学生だ。理系の学生はゼミ室や学部棟にあるPC演習室を使えばいいから課題などでセンターの世話になることはない。

 だけど、例外がある。履修登録の季節だ。文系だろうと理系だろうと履修登録や修正の作業は情報センターで行うことになっている。つまり、センターでは普段の倍以上の学生を相手にしなければならない。繁忙期という所以だ。


「おっ」


 ピーッとロックが解除される音がして、ドアが開けばやってきたのは噂の男。この世のすべてを睨みつけるような目をしたリンだ。席に着くやいなや、大きく息をつく。心なしか、ひとつに結った長い髪にもハリがない。


「繁忙期を3人で捌けなど、拷問か…!」

「いいだろ、時給1000円なんだから」

「何を言う、センターの日給上限は6000円だ。今日は朝の8時半から夜の9時半まで休みなく13時間働いて6000円だぞ」

「時給換算で461円か。ざまあみろ」

「最後の方は気力も薄れていたからともかく、中盤など、些細なことで腹が立ってな。こっちは腹も減っているのにお前たちは飲食厳禁の教室で飲み食いするかと。挙げ句連れ同士で騒がしくする始末だ。履修登録故つまみ出しはせんかったが、ブラックリストにぶち込みまくってだな」


 リンはネットの星大スレなんかで殺害予告を出されている。ただ、リン曰く雇い主から言われた通りにやっているだけらしい。雇い主、つまり大学。その大学が定めるセンター利用規約に悪質な場合はつまみ出せと書いてあるのだから、と。

 ふわりと、コーヒーとは別の香りが漂ってきたと思えば、音もなく美奈がリンにミルクティーを淹れていた。ミルクティーと、俺がバイト先でもらってきたハニーグレーズでコーティングされたドーナツと。


「お疲れさま……」

「ああ、すまない。……沁みるな。ドーナツも、この甘ったるさが今はいい」

「と言うかお前はいつも甘ったるいのばっか食うだろ」

「だが、今日は特別甘く感じる」

「疲れてるからだろ」

「しかし、今週いっぱいはこのような感じだと思うとゾッとする」

「……センターに、新しいスタッフは…?」

「来てもらわんと困る」


 春だ夏だとどこも忙しなく動くけど、ここにいる分にはさほどそんな時の流れにも無情でいられる。己の研究や突き詰めたい学問、そんなことに向き合える。外の世界に目を向けるのは、たまにでいい。

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