第2話

 俺は何も答えない。奴はまた煙草を唇に咥えて、もう一度ゆっくりと吸った。

「かつての文豪達の愛した煙草だ。それを、こんな雨の夜明け前に吸うなんてのは、風情があるだろう?」

 奴の言葉と、乾いた笑いの隙間から、白い煙が溢れ出る。その消えていく白い煙が奴の魂の欠片のように見えて、消えていくのが惜しいと思えた。それでも吐き出された煙は消えて行き、俺は心なしか切なくなる。それでも奴は笑っているから、俺も同じように乾いた笑いを吐き出して、奴にこう答えた。

「風情ね、お前がそれを吸っているのは、ただ値段が安いからだろう?」

「さぁ、どうだろうな」

 俺はそれには答えない。奴もまたそれ以上何も言わなかった。

 俺は何も言わずゆっくりと煙草を吹かす奴の姿を眺めていた。少しずつ短くなっていく煙草、それを持つ奴の指先は黄色く染まっていた。奴の吸うゴールデンバットはフィルターの無い両切り煙草で、そのせいだろうか、奴の乾いた唇には煙草の葉が付いていた。俺は自分の見つけたその小さな煙草の葉が気になり、奴が煙草を唇から離した隙にそっと俺の手でその煙草の葉を拭いさった。その瞬間に奴は俺の方を向き、その目で俺の顔をじっと見つめる。

「煙草の葉が……」

「あぁ」

 ただそれだけの言葉を交わした後、奴と俺はまた黙り込んでしまう。雨音は相変わらず響いていて、奴の指先のゴールデンバットはすっかり短くなっていた。奴はそれを薄い灰皿の上で捻って消すと、何も言わず空虚な目で雨の打ちつける硝子戸を見詰めながら、片手でバットの箱を俺の方へと差し出した。簡易包装であるそのゴールデンバットの柔らかな箱は、肋の浮いた奴の薄い胸みたいに潰れてひしゃげていた。

「置いていくのか」

「あぁ、置いていくよ。俺にはもう、必要ないから」

 そう言って奴は立ち上がろうとする。そんな奴の腕を掴んで、俺は思わず引き止めようとしていた。奴は俺の眼をじっと見詰める。俺もまた奴の眼をじっと見つめ返した。

「キス、して良いか?」

「行くのが、辛くなるから……」

 奴は俺の掴んだ自分の手首の方へと視線を落とした。それから、ここと外とを繋ぐ雨の打つ硝子戸を見詰め、こう呟く。

「何も言わずにすればよかったのに」

「……そうだな」

 俺はそう言った後、掴んでいた奴の手を離した。奴は一度俺の方へ振り返り、そして硝子戸へと向かった。硝子戸の前まで行くともう一度俺の方へと振り返り、俺の目をじっと見つめた。俺もまた、何も言わず奴の眼を見る。

 それは永いようで短い一瞬だった。奴はこの部屋と激しく雨の降る外とを隔絶する硝子戸を開け、この部屋から出て行った。奴が部屋を出て硝子戸を閉じた後、硝子戸の下の床は先程開いた名残ですっかり濡れていた。


 ただ、何時かの雨の夜明け前に、こんな事が遭っただけだ。俺は潰れてひしゃげたゴールデンバットと、薄い銀色の灰皿、そして燐寸箱を取り出した。俺の見詰める先には、あの日奴が入ってきて、そして出て行ったあの硝子戸。今日もまたあの日のように、硝子戸は打ち付けられる雨のせいで外の様子が解らなくなっていた。

 俺は煙草を一本咥え、燐寸で火を点けた。あの日嗅いだあの匂いが、俺の鼻腔を通り抜けた。

 芥川龍之介に太宰治、そして中原中也……かつての文豪達が愛したという煙草。しかし、俺にとってそんな事はどうだって良い。あの日、あの雨の夜明け前に、奴がここへ置いていった煙草。ただ、それだけだ。

 俺は深くゆっくりと、その煙草を吸った。この煙草、ゴールデンバットが雨の日に旨いと感じるのは、そう、湿度のせいだ。夜明け前という時間は、気分や雰囲気と云ったところか。ただ、今日はあの日と同じような雨の夜明け前で、この部屋にはあの日と同じ匂いが立ち込めている。それは紛れもない事実だった。

 明けない夜はなく、止まない雨もないが、奴は夜明けを見る前に、俺の前から姿を消した。あの日の雨は確かに止んだが、それでもまた今も雨が降っている。

 俺の唇からはあの日の奴のように、白い煙が零れ出る。そしてその煙は音も立てず、ただ静かに消えていった。

 何もかもがあの日に似ていた。ただ、吸っているのはこの俺で、奴はもう居ない。

 空が明るみ始め、朝がやって来ようとしていた。雨はいまだに降り続け、硝子戸を打ち付けている。改めてバットの箱を眺めると、そこには二匹の蝙蝠が描かれていた。その描かれた蝙蝠の片方に、生温い雨粒が一滴、はたりと零れ落ちた。


―終―

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雨の夜明け前、唇にゴールデンバット ナオムラミチノ @azamimichi

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