雨の夜明け前、唇にゴールデンバット

ナオムラミチノ

第1話

 鬱陶しいくらいに雨が降っていた。古めかしくて寿命の差し掛かった日本家屋に雨音が響いて、五月蝿くて気分が滅入る。今の所、夜はまだ明ける気配はないが、それも時間の問題だろう。こんな雨の夜明け前に、振り続ける雨音を聞いていると、「こんな雨の夜明け前に吸うのが、この煙草の一番うまい吸い方だ」と、ゴールデンバットを咥えてそう謂っていたあいつの顔を思い出してしまうから。


 その日も、寿命の差し掛かった日本家屋に雨音が響き渡るような、そんな雨の夜明け前だった。うっすらと畳の色褪せた部屋に布団を敷いて眠っていたんだ。眠る俺の耳に、何か雨粒以外のものが硝子を叩く音が聞こえて、俺は目を覚ます。

 下側が磨り硝子になっている硝子戸はこの雨のせいで酷く滲んでいて、向こう側の景色は殆ど判らない有様だった。ただ、見覚えのある背格好の、男であろう姿の者が、そこに立っていた。

 俺は硝子戸を開ける。そこに居たのは、青白い顔をした、酷く痩せた男。目の下には消えそうにない隈が浮き、髪はもう長いこと切っていないと見える。あぁ、やはり、そいつは俺が思い描いていたのと同じ人物だったので、俺はそいつをそこから室内に招き入れた。

「何故こんな時間に、こんな所から?」

 目の前の奴は色褪せた畳を見つめるかのように視線を下に落とし、しばらく押し黙っていた。それから意を決したかのように、ぽつりと呟いた。半分濡れた姿が、なんだか悲しげに思えた。

「夜が明けたら……俺は旅に出ようと思って、その前にお前の顔を見に来たんだ。だから……」

 奴はそこまで謂った後、また俯いて黙り込んでしまう。俺はその姿を見て、奴はもう二度と戻らない旅に出るのだと察した。

「とりあえず、座れよ」

 俺は奴をつい先程まで俺が寝ていた煎餅布団に座らせた。奴は雨が硝子戸を打ちつける様を、ただぼんやりと眺めていた。俺は奴の横に腰を下ろし、俺もまた、雨粒が硝子戸を打つのをただ眺める。しばらくして、奴はまたぽつりと謂った。

「……灰皿、くれよ」

「あ、あぁ……」

 俺は立ち上がり、机の上から小さな薄っぺらい銀色の灰皿を取ると、それを奴の目の前の畳の上に置いた。奴は懐からゴールデンバットと燐寸箱を取り出すと、燐寸箱を畳に投げ置き、片手に持ったバットの箱を軽く数回畳を使って叩いた。そして煙草を一本取り出し、口に咥える。床に置いた燐寸を取り上げ擦ってみるが、燐寸はこの雨で湿気てしまい、使い物にならないようだった。

「チッ、この雨で使い物になりゃしねぇ」

「ライター貸してやろうか?」

 ぼやく奴に向かって俺はそう言ったが、直ぐに奴は「俺は燐寸で吸う主義だからよぅ」と、返してきた。やれやれ仕方がない。帰らぬ旅に出る前の一服だ。奴の流儀に従って燐寸で吸わせてやろうじゃないか。確か仏壇の前に徳用の燐寸箱があった筈だ。

「少し待ってろ」

 そう謂うと俺は立ち上がり、静かに襖の方へ向かうと、そっと襖を開けた。今度は襖をそっと閉め、暗く長い廊下をひたひたと歩く。夜明け前だからだろうか。廊下は初夏だというのに冷えきっていて、やたらに寒く感じた。

 この寒さは奴が常に感じている寒さとは比べ物にはならないかもしれない。ただ、今感じている寒さの分だけ、今身震いした分だけ、夏でも震えているあいつの体を解ったと思うのは、少しばかり傲慢だろうか。

 仏間の襖を開け、中へ入ると、線香の箱の横にある燐寸箱を掴み取り、仏間を後にした。再び廊下に出て仏間の襖を閉めると、俺はまた身震いしてしまう。どうしてこう、廊下というのは、人の居ない部屋よりも冷えているのか。今は初夏だというのに。

 俺は自室の襖を開け、部屋に入りそして襖を閉めると、奴の隣へ行き腰を下ろした。そして灰皿の横へそっと、大きな徳用の燐寸箱を置いてやった。奴は直ぐに一本取り出し、そして火を点ける。燐寸に火が点いたその瞬間、燐寸が燃える、あの特有の匂いが辺りに漂った。そして奴はすかさず咥えていた煙草に火を点ける。そして燐寸の火を手首を捻って消しながら、こう謂った。

「そうそう、これこれ。この匂いをかがなくっちゃあ」

 奴はそう謂った後、ゆっくりと煙草を吸う。そしてまたゆっくりと、煙を吐き出した。

「この煙草がうまいのは……ゴールデンバットがうまいのは、こんな雨の夜明け前なんだ」

 奴は雨に打たれる硝子戸を眺めながら、ぽつりと呟いた。何で今お前はそんな事を謂うんだ。俺が今したいのは、そんな話じゃないのに……。

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