9話 神様の悪戯

【クラッグ視点】


「最近変わったことぉ?……いや、変わったことはないのぉ…………」

「……最近?」

「じいさん、詳しく教えてくれ。その言い方だと前は何か変わったことがあったみたいだぞ」

「ちゃうちゃう、起こったのではないわい」


 湖からくる静けさと冷たさが俺達の肌を撫でた。


「いつも起きとるんじゃい。この都市では、変わったことというのはな」


 俺の奢ったコーヒーを飲み、じいさんはニヤッと笑った。


 俺とエリーは酒場を離れた後、神殿の次にこの都市の名所であるポスティス湖を訪れていた。神が住まうとされているこの大きな湖の周囲には、教会、修道院などの宗教建築の他に、小洒落こじゃれた品の良い店が多数出店されていた。


 俺たちはカフェの中に入り、とりあえず隣のテーブルにいた老夫婦に話しかけ、情報収集を試みた。この老夫婦の名前は『ジェイク』と『モニカ』。「この都市に来るのは初めてなんだが……」と始め、この都市の名所、穴場、知っておいたほうが良いことなど普通の情報を教えてもらった。


 その後で「最近変わったこと」という本命の情報を聞いてみたら、そのような返答が返ってきた。


「…………いつも変ったことが起きている……ですか?」

「そうじゃ。この町に住む者の間では有名な話での……わしらはそれを『神の業』とも呼ぶし『神の悪意』とも呼ぶ」

「……穏やかじゃねえな?」

「確かに、穏やかじゃないかもしれないねぇ……でも、もう、この街じゃ当たり前の事だからぁ…………

 旅人さん?この街の『聖域』についてはご存知?」


 上品なばあさんが聞いてくると、うちのエリーがほんの少しだけ得意そうになって喋り出した。


「あ、はい!モニカさん。聞いたことがあります。この神殿都市のどこかに神の住まう神域である『聖域』という存在が噂されていて……って、痛って!」


 エリーの頭を叩いておいた。


「何すんだ!クラッグ!」

「俺はお前の話なんて聞いてねぇ」


 エリーの頭を少しばかり力を入れぐしゃぐしゃと撫でる。


「すまねぇ、ばあさん。俺は外からの半端な知識より、ばあさんの話が聞きたい。一から『聖域』というのを教えてくれ」

「む…………」

「ふふふ……勉強熱心な旅人さんね。でも、お嬢さんが言ってたことでほとんど間違いが無いわ。この湖の底にはね、神の住まう異世界があるとされているのよ。それが『聖域』。まぁ、実際に湖の底に行っても何も無かったみたいだけれどねぇ?」


 俺たちの目の前には綺麗に澄んだ湖、ポスティス湖が一面に広がっている。この湖に一心に祈り続けたオステル・マルタが水神ポスティスと出会う。そして水神ポスティスを崇めるポスティス教が生まれた。


「この都市では『神隠し』があるのよ。神様達の住まう『聖域』に人が招待されているという『神隠し』がねぇ」

「それが……この都市の『変わったこと』ですか……思ったよりもずっと恐ろしいですね…………」


 エリーは眉を顰めた。この老夫婦は慣れてしまっているのか穏やかに喋るが、確かに人が行方不明になるのは俺も恐ろしいと思う。


「ふふふ、外から来た人はみんな恐がるわ。でもね、神様達のお仕事を手伝うのはとても名誉なことだから。神様がね、貴方は優秀ですねって、私たちの国に来て私たちの手伝いをしてくれませんか?って言うの。それはね、とっても名誉なことでしょ?」

「……あぁ、そうだな」


 情報提供者の意見を否定する必要はない。


「……『いつも』変わったことが起きてるって言っているが、その『いつも』っていつからだ?」

「む?うーむ?わしがガキの頃から言われていることじゃからの?わしの爺さんが当たり前のように話していたわい」

「……なるほど」


 となると、50年以上。いや、この都市が出来てからの噂なのかもしれない。

 そうなると、最近になって初めて出てきたと言われている『オブスマン』の話とは食い合わない。


「……その、『神隠し』にあった人はもう一生戻ってこないんですか?」


 エリーが心配そうに聞く。


「いや?勿論戻ってこない奴も多いが、数日で戻ってくる奴もいる。そういう場合は『神隠し』ではなく『神様の悪戯』と言われとる」

「……『神様の悪戯』?」

「そうなの。神様がね、遊びましょって、私の家にいらっしゃいって言ってねぇ、その人を『聖域』に招待するの。それでね、数日するとちゃんと帰ってくるのよ?」


 はて?どういうことだ?


「……じゃあ、その『神様の悪戯』にあった人たちはその『聖域』の中を知っているってことか?」

「いや、戻ってきた者は全員意識を失っとる。で、数日間の記憶もない。神様が忘れさせちまうんじゃい。帰ってきたときは疲労困憊、魔力枯渇、何日も目を覚まさない。で、起きてもなーんも覚えとらん」

「……疲労困憊?」


 魔力枯渇?


「それはね、色々な説があるんだけどね……神様の遊戯が人の身には大変であるという事や、仕事を付き合わされているとか、色々あるんだけどねぇ…………そのぉ…………」


 ばあさんの口が急に淀みだし、困ったようにきょろきょろしながら、口に手を当てて俺たちに身を寄せてきた。俺もエリーもばあさんに身を寄せる。


「…………帰ってきた子が身籠っている場合があるのよ。神様の子を」

「ぶっ……!」


 真剣な顔で耳を傾けたエリーが吹き出した。


「えっ!?えぇっ!?み、身籠っているって……うそっ!?…………赤ちゃんっ!?」

「はっはっは!嬢ちゃんはウブじゃのうっ!」


 エリーは身をたじろかせ、なわなわと口を震えさせながら真っ赤になっていた。


「なんだ、神様ってエロい奴だな」

「そ……そこぉっ…………!ちょ、直接的な言葉を使うんじゃないぃっ…………!」


 脱力して椅子に深く腰掛ける俺に、エリーはあわあわとしながら俺を指さし叱咤した。偶然にもエリーをからかえて楽しい。


「……っていうか、その神様の子供はあれか?何か特殊な能力とか宿してたりすんのか?」

「いや?普通の子じゃわい。ただ、やはり神聖な子供じゃからのう、そういう子は小さい内から修道院に入って英才教育を受けるもんじゃ」

「やっぱ優秀だったりするのか?」

「うーん……?そうねぇ……?確かに優秀かもしれないわねぇ?大司祭まで上り詰める優秀な子もいるし…………あ、でも、そうでない子も多いわねぇ……?」

「うーん……?」


 どうもはっきりしねぇな?とりたててその子供たちが特別って訳じゃないんだな。


 ……例えば不貞の子を授かった時の言い訳として『インキュバス』という悪魔がいる。男の淫魔のことだ。不義密通により孕んでしまった子を『これはインキュバスの仕業だ』と言って逃れるのである。


 これもそのパターンか……?

 いやでも、『神隠し』も起きているし、それは不義密通とは何も関りがない、駆け落ちでもしない限りは。それに戻ってきたときに一様に意識がない状態なのもおかしい。そんなインキュバスの話は聞いたことがねえ。


 …………さて、この一件、どう解釈するべきか……


「あの……」


 そう考え事をしている内にエリーがおずおずと手を挙げた。


「その『神隠し』の事件……街の人たちは解決しようと思わなかったんですか…………?」

「ん?」

「はい?」

「だ、だって……行方不明の人が出たら、困るでしょ?……悲しいでしょ?…………もう行方不明の人が出ないように……問題を解決しようと思うでしょ…………!?」


 彼女は少し俯いて、自分の頭で言葉を整理しながら言葉を紡いだ。

 エリーの考えは尤もだ。だけど……


「…………あのね、お嬢さん」


 ばあさんが穏やかに笑う。


「外から来た人たちには受け入れられにくいとは思うけどね……この街の人にとって『神隠し』は名誉なことなのよ。だって、神様のお力になれるんですもの。喜んで身を差し出すわ」

「でもっ……もし、身近な人が行方不明になったら…………!」

「その時は祝福をもってその人を送り出すわ。神様に選ばれた幸運な人。おめでとう、って。頑張ってね、って。その人はこの都市の……いいえ、世界の誇りだもの」

「………………」

「若い者には……それに外の者には分からないかもしれないのぉ…………」

「…………」


 にこにこと笑う老夫婦を前に、エリーは茫然としていた。

 この2人がおかしい訳ではない。これはそういう価値観なのだ。この価値観の元、長年を生きてきたのだ。

 エリーもそれは分かっている。でも、納得がしがたく受け入れがたい価値観を前に、彼女は息を呑むしかなかったのだ。


「…………」


 彼女はそんな自分の中に蠢く有象無象の感情をぐいと呑み込み、ぎこちない笑顔を作った。


「……興味深い話をありがとう、ジェイクさん、モニカさん。お礼にもう一杯コーヒーはいかがですか?」

「わっはっは!嬢ちゃん、太っ腹じゃの!」

「ありがとう、エリーちゃん」

「じゃあ俺はジンジャーエール」

「おめーには奢らねーよ、この焦げ茶ぁ」


 そう言って神の湖を臨みながら、俺たちはまだしばらく歓談を続けていた。この湖は想像以上に、人の底に神を根差しているのだと感じながら。

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