第6話

「緊張なさっているのね?」

「す、すみません。……こういうところ、はじめてで」


 一瞬、ラブホテルにいるのかと思っただろ? 残念! 俺と円香ちゃんがいるのは、料亭だ!!

 俺はいつものように猫をかぶり、休日に彼女を誘い出した。もう一度言おう、料亭だ!! つまりは今日、俺たちは和食のマナーを勉強するつもりだ。事前にそのことは説明しておいた。

 個室になっていて、庭が見える。これなら周りの目もないから、円香ちゃんが多少間違えても、気負わずに済む……と気を使ったつもりが、どうやら逆に緊張させてしまったらしい。そわそわと落ち着きなく、何度も襖を見る。

「外食はしたことがあるんですけど……個室は今まで、なかったから」

 あ。しまった。

 これは、完全に俺の落ち度だ。

 円香ちゃんの―――いわゆる、一般的な外食は、あんまり個室ってない。あっても、せいぜいが仕切りくらいだ。今日みたいな、完全な個室じゃない。

「そうですわね。……わたくしも、初めてこのお店に来たときは、緊張しましたわ」

「烏丸先輩も?」

「ええ。何をどうしたらいいのかまったく分からなくて、不安でいっぱいでしたわ」

「とても想像できませんけど」

 首をかしげる円香ちゃんに、俺は笑った。

 確かに、今の烏丸伊澄は、こういう料亭だの高級レストランだのに慣れきってしまった。骨がいっぱいの魚料理だって、完璧にナイフとフォークで食べられる。でも、そこに行きついたのは、単に回数をこなして慣れたから、じゃない。

「不安の原因は『分からない』ことですわ。どうやって料理を注文すればいいのか。いつ、店員が現れるのか。……タイミングがつかめなくって、不安なのでしょう?」

「はい」

 うん。円香ちゃんは素直だ。


***


 あの日以降、俺は野外ステージへ行っていない。

 平日は他の生徒たちの相談ごとに乗ったり、よその委員会を手伝ったり。休日になったら円香ちゃんと一緒に美味しいお店を回るとかして、俺はできるだけ予定をたくさん入れておいた。

 そして、あっという間に一ヵ月が過ぎた。

 鷹司統志郎とは、普通に接した。いつものように令嬢・烏丸伊澄(猫かぶり)で接し、向こうもいつものように穏和で紳士な態度で接した。

 一ヵ月間、俺は一度も野外ステージへ行かなかった。これだけの期間を置けば、きっと鷹司統志郎も野外ステージでの出来事を忘れてくれるだろう、と踏んだのだ。


 そして、一ヵ月間「完璧な淑女」を演じきった自分へのご褒美として、野外ステージへ赴いた。鷹司統志郎はいない。そう信じて。

「あ、よかった。今日は来たんだね、烏丸さん」

 あっさり覆された。

 野外ステージに腰かけた統志郎は、片手をあげ、俺へさわやかな笑顔を向けてきた。

 回れ、右。ダッシュ! ……は、叶わなかった。

 あっという間に追いついた統志郎は、俺の腕をつかんでいたのだ。振り向けば、整った綺麗な顔が微笑んでいる。ありがとう、という時によく見る顔だ。

「これの続き、読みたいんだけど」

 そう言って統志郎がかかげたのは、俺が好きな少年マンガだった。確かあれは……あの日、持ってきたまま忘れてしまったマンガだ! また一巻から読もうと思ってたやつ! 持ち運ぶの面倒だったから。

 なんて思いつつも、俺の口は「わ、わたくしのものだという証拠は?」と動いていた。情けない抵抗である。

 訊かれた統志郎は、一瞬きょとんとした。年上のくせに、なんだか子どもみたいな、隙だらけの表情だ。

「貸してくれないのかあ、困ったな」

 が・すぐに奴は笑顔になった。あれ、なんだこの笑い方。いつもと雰囲気が……

 統志郎は、にっこり笑ったまま、ポケットからスマホを取り出した。

「実はこの間、このステージで素晴らしい歌声を聞いて、つい録音しちゃったんだよね」

「アレ録っていたのかよ!?」

 あ。

 統志郎は、俺の腕を離して口元を抑えた。俺にはもう、逃げだす気力がなかった。へなへなとその場に崩れ落ちる。

 くっそ。ものすごくしょーもない手に引っかかってしまった。

「てっきり、ケガをした鳥が苦しんでいるのかと思ったら……烏丸さんの歌声で……ふふっ。……本当に、驚いたよ。意外な一面だよね」

 笑いをかみ殺した声が、上から降ってくる。見上げれば、口元を抑えて、小刻みに震える統志郎がいた。もういっそ、思いっきり笑い飛ばしてほしい。

「嫌なことがあった日に聞くけど、すごいね。……気持ちが吹っ飛ぶよ」

「お前、耳は大丈夫か!?」

 我慢の限界だった。らしい。統志郎は腹を抱えて、弾けたように笑い声をあげた。そして噎せた。

 咳き込む統志郎の背中を、俺は丁寧にさすってやった。なあ、信じられるか? 俺が「完璧なる淑女」なら、こいつは「絶滅寸前の王子さま」なんだぜ?

 呼吸が落ち着いてくると、統志郎は顔を上げて俺を見た。実に自然な動きで、目じりに浮かんだ水滴をぬぐう。

「ごめんね、烏丸さん。でも、本当に楽しかったんだ。君の歌声も、このマンガも」

 そこまで、言ったのに「違うな」と統志郎は自分の言葉を否定した。

「ここで君に、もう一度会えるのも、楽しみにしていた」

 その言葉に、一瞬、舞い上がりそうになる。

「おぼ……」

「普段の烏丸さんとあまりにも違いすぎて……本当に……同一人物なのか、確かめたかったんだ」

 笑いを噛み殺しながら続けられ、俺は口をつぐんだ。

 こいつ、今、絶対、俺がB'z熱唱してた時のことを思い出していやがるな。ていうか、どんだけ笑い上戸なんだよ。

「笑いすぎですわよ。鷹司先輩」

「ああ、うん。そうだね。……ごめんね」

 結局、そのあとまた五分ぐらい、統志郎は笑い続けていた。

 笑いが落ち着くと、俺は統志郎を連れて野外ステージへ戻った。その奥―――つまり、舞台袖にある小さな地下倉庫から、奴が読みたがっていたマンガの続きを取り出す。

「そんなところに、ずっとあったんだ」

「文化祭とか近くなったら、3冊ずつ持ち帰んなきゃいけないけどな」

 このマンガは20巻以下なので、なんとかなる範囲だ。

「じゃあ、ありがたく読ませてもらうよ」

 統志郎は続きを一気に3冊取り出し、なぜか俺の方を見た。

「俺はどのあたりにいてもいい?」

「へ? 寮で読まねーの?」

 別に持ち帰ってもいいのに。そう思って訊くと、統志郎は首を横に振った。

「できれば、ここで読みたいな。いいかな?」

「べつに、いいけど。……なんで?」

 俺が訊くと、統志郎は首を傾げた。癖のない髪が、傾けた方へさらさらと流れていく。

「なんでだろう。……なんとなくだけど、烏丸さんと一緒に読みたいんだ」

「俺、もうそれ全部読んじゃっているけど」

「そうじゃないくて……読み終わってすぐに感想を語りたい」

「ふぅん」

 悪くないな、と俺は思った。

 20巻以下だし。結構前に完結しているし。あんまりメジャーじゃないけど、俺はこのマンガ、結構気に入っている。それを気に入ってくれて、なおかつ、面白かったって気持ちを共有したいってのは、結構、嬉しいもんだ。

 多分、相手が統志郎だからってのも、ある。

「うっかりネタバレしないように、気を付けてやるよ」

「ありがとう、烏丸さん」

 今度こそ、統志郎は素直に笑った。


 マンガを読み始めた統志郎の横で、俺は持参した袋に手を入れた。本日のメイン・ディッシュ、もう一つの気晴らし。……まあ、駄菓子なんだけど。

「あ、水忘れた」

「水?」

 俺のボヤキを聞いた統志郎が、不思議そうな表情でこっちを見た。頭のてっぺんから移動する視線が、胸の部分でちょっと止まって、手元で止まった。お前、正直だな。

「喉が渇いたの?」

「いや、これ作るのに必要なんだよ。水と混ぜるの」

 答えて、俺は駄菓子のパッケージを見えやすいようにかざした。統志郎は、「理解できない」と言いたげな表情で、パッケージと俺を何度も見る。

「水とそれだけで、お菓子ができるの?」

「そうだよ。中にある粉と混ぜて出来上がり」

「……そんなに簡単にできるの? オーブンもなしに?」

 俺が頷くが、まだ納得できない統志郎は、眉間に皺を寄せた。

統志郎は辺りを見回した。俺もつられたように見回すが、いつもの、無人の野外ステージだ。人が来る気配はない。

 統志郎は少し考え込んで、おもむろに立ち上がった。

「ちょっと走って、買ってくる」

 結構真面目な顔をして、統志郎は三分以内にミネラルウオーターを携えて戻ってきた。そして、説明書き通りに作ったお菓子に、感激していた。

「すごいなあ。理科の実験だ。いいなあ、これ」

 駄菓子の変化を、目をキラキラさせて眺めていた。うん。俺も初めて買ったとき、こんな気持ちだった。

「こういうお菓子、烏丸さんはいつもどうやって買っているの?」

「いつも行くと親にバレるから、季節の行事とかの前の週にまとめ買いしている」

「へえ」

 短く答えた後、統志郎はお菓子のパッケージを手に取った。伸ばしたり、ひっくり返したりしているが、何かを考えながら、ついでにいじくっている感じがする。

「クリスマスとか雛祭りとか、子どもの行事の前の日当たりなら、大量買いしても怪しまれないしな」

「ああ、なるほど」

 納得した後、なぜか統志郎は吹き出した。

「そこまで計算して買うのか……」

「お前、もう食うな」

「いやいや、褒めているんだよ。うん。……スパイ小説みたいだなって」

 周りに怪しまれないよう、細心の注意を払って入手しているお菓子。しまらねぇ。

「でも、そのおかげで僕はご相伴にあずかれているからね。……あ。今度、お礼するよ」

「じゃあ、俺の音声をスマホから消して!」

「ダメ」

 笑顔で断りやがった。

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