第10話 それでも、僕は。
もしかしたらそれは、お父さんの考える『幸せ』ではなかったのかも知れない。
もしかしたらそれは、人間の考える『幸せ』ではなかったのかも知れない。
それでも、僕は。
僕はそれから三ヶ月ほど、いつもと変わらない日々を過ごした。お父さんを起こして、店を開けて、店番をして、お父さんと夕飯の席に着く。
その傍らアリアを連れだし、一緒にいろいろな場所を見て回った。追加した機能を外して元の状態に戻したアリアは、以前と変わらぬ歌声を響かせていた。
お父さんに車を出して貰って(お父さんの車は、あちこちがぼこぼことへこんでいる上にこれも売り物なんじゃないかと考えるほど古い)、海にも行った。やっぱり水の中には入れなかったから、砂浜に足跡をつけるだけだったけれど。
花火のときは、自分のお小遣いからアリアに浴衣をプレゼントした。そうだろうなとは思っていたけれどお父さんは着付けなんて出来ないから、僕が情報にアクセスしてアリアを着付けることになった。
ちょっと時期を外してしまったけれど、向日葵も観に行った。満開の向日葵と、ところどころに枯れかけの花が佇んでいた。項垂れる影を見て、ひとは何を思うのだろう。
僕は、暇さえあればアリアを連れ出した。同時に、時間が許す限りお父さんと一緒に過ごした。
どんなときもアリアは変わらず、美しい歌声を響かせていた。
『幸せ』の言葉の意味を僕は情報でしか知らないけれど、きっとこういうのを、ひとは『幸せ』と呼ぶのだ。
「――でも、僕は」
小さな願いだった。細やかな願いだった。
小さな、細やかな、子どものような。
「僕は君と歌いたい、よ」
三ヶ月間かけて作り上げたアプリケーションを前に、僕はそう言った。
アリアは、僕の部屋の隅に用意したソファに腰掛けて眼を閉じている。この数ヶ月間、見慣れた光景だった。僕が声をかければ、きっとアリアは瞼を上げるだろう。
そうして決まり切った言葉を、僕に返すのだ。出会ったときからそうであったように。
アリアは何も変わらない。出会ったときから変わらず、美しくあるように。
金色の長い髪は緩やかにカールして、瞳は冬の空のような青。真冬の、一番澄んでいて美しい空の色だ。
肌は白く、額はするりとして、鼻から口元までの線が芸術的なほど美しかった。濡れたように瑞々しい唇に、薔薇を散らしたような頬はまろい。
首筋は折れそうなほど細く、体はひらひらしたピンクのドレスで飾られていた。ボリュームのあるスカートからやはり細い足が伸びて、パンプスは品のある白。
何も変わらなかった。何も、何も。
変わったのは、僕の方だ。
「アリア、君に『僕』をあげるよ」
処理装置が足りないと判ったときに思いついたのは、ならば彼女に『僕』をあげれば良い、ということだった。
『僕』をあげよう。
『僕』の言葉をあげよう。
『僕』の感情をあげよう。
『僕』の意志をあげよう。
半端に処理能力を増設しても、きっと以前のような半端なものが出来上がるだけだ。ならば僕たちは分け合って、同じものになれば良い。
同じように話して、
同じように笑って、
同じように歌おう。
君と過ごす日々は、きっととても素晴らしいものであるはずだ。
たとえそのとき、僕が感情を失っていたとしても。
出来上がったアプリケーションを確認する。アプリが実行されれば、『僕』の大部分は削除されて、機能が減っただけ不要になった処理装置をアリアに譲り渡す。
そうして今度こそ、アリアは言葉を知るだろう。
感情を与えることは、残念ながらできなかったけれど。
アリアへの機能追加は既に終わって、あとは処理装置を増設して機能を実行するだけだ。今度こそ不足はない。先ほどと変わらず眼を閉じるアリアに、僕は微笑んだ。
「アリア、歌人形《アリア》。僕と一緒に歌ってよ」
ふと、お父さんの顔を思い浮かべた。不器用なひとだった。不器用ながら、精一杯愛してくれた。大切なひとだった。
この数年で皺が増えて、白髪も目立つようになった。不器用だけれど優しいひとだった。誰よりも幸せになって欲しいひとだった。
彼の幸せが僕の幸せであることを、僕は知っていた。
「アリア、アリア」
小さく、僕は呼びかけた。密やかに、アリアが眼を覚ましてしまわないように。
「大好きだよ。ずっと大好きだよ。僕がこの記録を失っても、感情を失っても」
もしかしたらそれは、お父さんの考える『幸せ』ではなかったのかも知れない。
もしかしたらそれは、人間の考える『幸せ』ではなかったのかも知れない。
それでも僕は、アリアと一緒にいきたかった。
ずっとずっと、アリアが大好きだ。
最後に一つ愛を囁いて、僕はアプリケーションを実行した。
恋人形と歌人形のはなし 伽藍 @garanran @garanran
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