第2話 人はこれを、愛と呼ぶのだ。

 この感情を人間がなんと呼ぶのか、僕は知っている。

 僕は別に人間になりたいと思ったことはないし、自分がどこまでもアンドロイドだと判っている。けれど僕は人間に似せて作られたものだし、人間に似た感情を持っている。

 だから、知っていた。

 僕も、彼女も、人間ではない。


 けれどきっと、そんなことは関係ないのだ。



 お父さんがアリアを仕入れてきてから、僕の仕事の一つにアリアの世話が加わった。


 システムは今日もオールグリーン。絶好調だ。

 お父さんを叩き起こしてスープを渡してから(お父さんは朝が極端に弱くて、朝食はいつも野菜スープだ)、僕は二階の店舗の鍵を開けた。店に入れば、たくさんのがらくたが僕を出迎えてくれる。

 壁に立てかけてある時計(これも一応商品だ)が、ポーンと一度だけ鳴った。

 時間は、朝の十時半。いつも通りだ。

 店をぐるりと見回して、変わりない様子に一つ頷く。僕は、何よりも先にアリアに近づいた。

 アリアは、レジの横に置かれたベンチに腰掛けて眼を閉じている。このベンチは、少女をテーブルに座らせるのは可哀想だからと倉庫から引っ張り出してきたものだ。

「おはよう、アリア」

 アリアは応えない。ただ眼を閉じて、眠りに身を任せている。

 レジに寄りかかるようにして、眠っている。

 否、昨日システムを終了した状態のまま、停止している。

 アリアには僕のような、自分で時間を決めて起動する機能はない。

 歌人形《アリア》には。

「さ、起きようね」

 僕は言いながら、アリアの横に置いてある端末を手に取った。パスコードを入力して端末を起動し、あるアプリを立ち上げる。

 歌人形《アリア》のクライアントアプリだ。アリアのIDをアプリと紐付ければ、このアプリからアリアを操作できる。

 アプリを立ち上げてアリアの状態を確認する。充電が完了しているのを確認して、僕は頷いた。

「ごめんね、ちょっと抜くよ」

 いったん端末を置いて少女の後ろに周り、首の後ろに接続された端子をそっと引き抜く。

 丁寧にそれをまとめてベンチの下に置かれた籠に入れてから、僕は再び端末を手に取った。

 アプリからアリアを起動する。アリアの起動には、少しの時間がかかる。

 いまだに眼を覚まさない少女を後ろから覗き込むようにとっくりと見下ろして、僕はほうと息を吐く。何度見ても飽きない、可愛らしく美しい少女だった。

 紅の散った頬が健康的で、今にも起きだして、元気いっぱいにダンスを始めそうな。

 実際には、歌人形にそんな機能はない。歌人形は僕のようにAIをベースにして作られているわけではないから、ただ望まれた歌を歌うことしかできないのだ。

 ほぼ人間に近い思考回路と感情に似たものを持ち合わせているアンドロイド《ノート》とは、違う。どちらも同じように人間に作られた人間の形をしたものなのに、こんなにも違うのだ。

 そっと、少女の手に自分の手を絡めた。

 温感センサーが少女の手の冷たさを伝えてくる。僕の体は人間に近い温度をしているが、アリアはいつも人間の体温にはほど遠い冷たさのままだ。

 人間は、歌人形に『体温』は必要ないと考えたのだろうか。

 アンドロイドには必要だと考えたのに。

 起動しているときのアリアに触れれば、ただ、体を構成する機械の放熱がほんの僅かばかりの熱を伝えてくる。もしかしたらあれが、アリアの『体温』なのかも知れなかった。

 僕は体を起こして、レジの引き出しから櫛を取り出した。右手に櫛を持って、左手でアリアの頭や髪を支えながら、丁寧に少女の髪を梳る。

 心地よい感覚を手で確かめながら、僕はぼんやりと今日の予定を思い出した。

 今日はもう一時間もすればお父さんが仕入れに出かける予定だ。お父さんが帰ってくる頃合いに、予約のお客さんが来ることになっている。

 それ以外の予定は特にないから、今日もぼんやりと僕が店番をして終わりだろう。古めかしいものばかりを集めたこの店は、よほどの物好きでなければ一見さんが訪れることはない。

「ねえ、アリア。今日は何を歌って貰おうかなあ」

 楽しくなってそう問いかけると同時、アリアがぴくりと肩を動かした。後ろから様子を伺っていれば、ぱちりと瞬いたのが判る。

 ようやく起動したのだ。

 数度瞬いて、ゆっくりと身を起こす。その後ろ頭に、僕は声をかけた。

「おはよう、アリア」

 その声を聞き取ったのだろう、アリアが振り向く。

 僕を認めて、少女は微笑んだ。

「おはよう、ノート」

「うん。良い朝だよ」

「おはよう、ノート」

「今日もアリアは飛び切り可愛い。お客さんのお出迎え、よろしくね」

「おはよう、ノート」

 にこにこと繰り返すアリアに、僕も笑みを返して少女の額にちゅっと口づけた。アリアはリソースのほとんどを歌に振ってしまっているから、会話はそんなに上手くない。

「今日は何を歌って貰おうかなあ。朝だし、明るい歌が良いな」

「歌うの?」

「うん、よろしく」

 お願いすると、ほどなくしてアリアはのびやかな声で歌い出した。

 どこかで聞いたような旋律に、覚えのない歌詞。クラシック音楽に歌詞がつけられているのだ、というのはアリアが来たその日に知ったことだ。

 じっとアリアの歌を聞いていたかったけれど、そろそろ開店時間になってしまう。十一時を示そうとしている時計を見て、僕は引き出しに櫛をしまった。

「おはよう、みんな」

 テーブルの前を通り過ぎながら置かれた品物たちに挨拶をして、窓を開ける。風が僕の髪を揺らしながら店の中に吹き込んでくる。

 すぐ眼の前を飛行ロボットが飛んでいく。宅配の途中だろうか。風に負けず飛んでいくロボットを見送って、僕は少しだけ笑った。

「良い天気だね。お父さんが降りてきたら、お店は任せてしばらく散歩に行こうか」

 出かけるまで店番を頼むくらいは問題ないだろう。

 思いつきに上機嫌になる僕のことなど気にした様子もなく、少女は歌い続けている。


 歌人形が、歌う。

 澄んだ歌声で、少女が歌う。


 窓を開けたままでは、外にも歌声が聞こえているだろう。それがなんとなく惜しくなって、僕は早々に窓を閉めた。

 しばらくは換気をしておくつもりだったのだけれど。まあ、そんな日もある。

「アリア」

 呼びかけながら、僕は少女の前に跪いた。

 呼びかけられたことを認識したのか、アリアが口を閉ざす。僕と視線が合うと、にっこりと笑う。

 感情などどこにもない、機械の笑みだった。

 少女の手を取って、指先に口づける。決して人間の温度ではない、冷たい手。

 きゅっと少女の指先を掴む手に力を込める。細くて、冷たくて、人間の肌とは違う感触。

 アリアが僕の手を握り返してくることはない。それでも構わなかった。


 アリアを想う、この感情。僕の中でぼやけていて、いつまでも形にはならなくて、けれどずっと眺めていたい。

 まだあやふやなものだけれど、きっと。


 人はこれを、愛と呼ぶのだ。

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