第7話

 すでに追川は、評判を聞いたという病院の予約を済ませていて、わたしはその日に合わせて仕事を片付け、穏当な理由をつけて半休をもぎとるだけでよかった。デスクの嫌味をやり過ごすのは、今のわたしには目の前の小石に転ばないよう歩くより簡単なことだった。

 入院施設もある大きな病院は、市の外れの不便な立地にも関わらず、驚くほどの混雑で、最近のメンタルヘルスケア需要の急騰ぶりを目の当たりにできた。

 わたしの担当は初老の女医で、診察はとても穏やかな雰囲気だった。ただ、彼女の視線の鋭さが印象に残ったやりとりもある。

「あなたは、自分の状態をどう感じていますか?」

「特に不便も不都合もありませんが、身近な人がわたしを正気でないと判断するなら、それは気をつけたいと思います。ただ、どのように気をつければいいのかわからないので、病院に来たんですが」

 正直に答えたら、試すような目つきで、尋ねられた。

「自分が正気でないと感じているのですか?」

「いいえ」

「わかりました」

 頷いて、医者はそれ以上は聞かずにカルテに何か書き込み、わたしも自分の答えがどのように受け止められたかを考えないように抑制した。必要ならば、診断と一緒に今後についての指示が出るだろう。

 すぐさま入院処置になることも、精密検査の指示もなく、気分がひどく落ち込んだり、不安でたまらなくなった場合、頓服として使用するようにという薬が処方された。次の診察予約も入れておいた。そうした方が、追川が安心するだろうと思ったからだ。


 昨夜書いた記事を推敲していると、デスクがわたしの名前をがなった。

 どうやら、今日の生け贄は、わたしに決まったようだ。急いで、デスクの前まで行く。怒りの対象は、発行されたばかりのタブロイド紙面にあるらしい。

「だからさあ、こんな綺麗な笑顔を撮ってどうするんだよ!」

 机に叩きつけられたのは、唇だけで微笑んでいるユウミさん。上品だと言えればいいが、ぎこちない印象の方が強い。

「すみません。彼女、前歯がなくて」

「は?」

 怒鳴ろうとした口をぽかんと開けたまま、デスクはわたしをまじまじと見る。

「欠けてるんです、前歯。口を閉じておかないと、はっきりそれが映っちゃうので」

「前歯って、ここか?」

「はい」

 開けたままの自分の口に手を突っ込んで、上の前歯を指さすデスクに、わたしは頷く。怒りがテンションはそのままに笑いへと移行して、デスクはむせかえるほど爆笑した。

「それは、しょうがないなあ。いや、それはしょうがない。しっかし、客に見せる商売道具だろ。それ、治さないでどうするんだよなあ」

「それじゃ、歯抜けの間抜けじゃんなあ」

 後ろで聞き耳を立てていたらしい長谷部さんがすかさず飛ばしたジョークに、デスクはまた大声で笑い出す。

 わたしは、愛想笑いを浮かべる自分と、デスクと長谷部さんへの怒りを抑制し、うまくやり過ごせたことを密かに喜んだ。


 部屋の扉を開けても、物音一つしない。暖房で温められた様子のない室温は、外気温とまったく変わらない冷たさだ。

 真っ暗なままの部屋の壁をさぐって灯りのスイッチをつけると、ぽっかりと開いた穴でも覗いたような気分になった。家具は、ちゃんとある。でも、そこかしこにあった追川の気配はすべて消えていた。

 テーブルの上に、手紙が置いてあった。それを、マンガのようだと思う余裕はあった。

 一緒にいられないし、うまく別れ話をする自信もないから、逃げる。さまざまに言葉を尽くしてはあるが、そういうことだった。

 この事態を予想していたというと、嘘になる。気まずさはあったし、追川がときどき、思い詰めた顔をしているのもわかっていた。でも、終わりだなんて考えたくなかった。この瞬間も、なにかの間違いではないかと、目の前にある現実を認めたくない。

 手紙を握りしめたまま、二人の寝室だった部屋に入る。そこからも、追川の物は何一つなくなっていた。わたしのものだけでなく、どちらが所有者か決まっていないようなものは、きちんと残してある。

 律儀な追川らしいと思った瞬間、立っていられなくなってベッドに突っ伏した。

 太ももにあたる感触で、コートのポケットに携帯があるのを思い出す。電話をかけたら、まだ繋がるだろうか。戻って来てくれと頼んだら、もう一度、やり直せるかもしれない。でも、もし、着信拒否をされていたら、きっと耐えられない。それに、まだ間に合うとしても、すがりたいだろうか。すがられたいという彼の顔を見たいだろうか。どちらも嫌だ。

 どうしようと、繰り返し呟く。どうしよう、どうしよう、どうしよう。誰も答えてくれない。自分でどうするか決めるしかない。

 どうすればいいか、わかっている。

 この状況への怒りや悲しみや、そういった何もかもを、抑制すればいい。でも、それだけでは、止血だけで傷の手当てが済まないように、間に合わない。次から次へ、色んなものがあふれてくる。必要なのは、追川へ向かう気持ちを、丸ごと制御することだ。他のもう会わないだろう人たちと同じように、懐かしさだけ残せばいい。

 奇妙なモノを見るような、追川の目を思い出す。あの時、彼はきっと、わたしを人間らしくないと思ったんだろう。今、わたしも自分をそう思いそうになる。でも、いきなり消えるなんて仕打ちは、人間らしくはあっても、受け入れられるものじゃない。

 たとえば、今、この痛みを消さずに、明日からを過ごせるだろうか。それは、きっと、可能だろう。世界中から見捨てられたような気持ちを抱えたまま、新しい出会いがあったり、一人で生きることに決めたり、いつか傷が癒えたと思える日が来るのを待っていればいい。ただし、その日が来るまで、後悔に意識のほとんどを支配され、自分らしさなんてものを見失うことになるだろう。そちらを選ぶ理由は、なにもない。

 わたしは、わたしに必要なものを選んで、それを許容していく。それが、わたしに適した生き方だ。

 だから、追川への感情を抑制することを、わたしは選択した。

 これから、もっとうまく生きるために。

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適者生存 桐井フミオ @doriruko

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