第6話

「ごめんねえ、こんなんで」

 笑うユウミさんは、前歯がない。

「今日、取材ってわかってたんだけど、歯医者に行けなくて」

 照れたふうな笑顔をよく見ると、下の方は白く残っているから、抜けたのでなく、折れたのだとわかる。どちらにせよ、紙面からユウミさんの前歯の損傷が伝わってしまうのは、誰にとっても利益にならない。

「忙しいのは、しょうがないですから。口を開けないで笑う写真にしましょう」

 明るく指示を出す。心配や困惑や苛立ちや、そういう必要のないものは抑制してあるので、声の調子にいちいち気を配らなくてもいい。

「階段で転んじゃったの。アパートの外にあって、冬は凍って滑るのよねえ」

 フランスの庭園にでもありそうなベンチに腰掛けながら、ユウミさんは話を続ける。高級を謳うこの店の内装は、洋風成金とでも形容するべき趣味で統一されている。高価そうなピンク色のバスローブを、大きくはだけてもらう。

「顔から転んで、ぶつけちゃって。歯ってけっこう折れるもんなのよ」

「手で口を隠すんじゃなく、口を閉じて笑うだけで」

 何度かシャッターを切って、デジカメを操作して映りを確かめる。ベンチの背にもたれて体を傾けるポーズをお願いして、また何枚か撮った。

「あ。ついつい、ごめんね。早めに治そうって思ってるんだけど」

 歯を折った理由が嘘なのは、見え見えだ。たぶん、男に殴られでもしたんだろう。でも、ユウミさんは言い訳をしたいのだし、それを聞くことに異存はない。わたしがユウミさんにできることがあるとすれば、できるだけ客が来る記事を書くことだけで、そのためには、気分良く取材を受けてもらうのが一番だ。

 年齢、ボディサイズ、得意なサービスなど、記事に必要な項目を聞いて、メモを取る。そのどれも事実でないのが暗黙の了解であるように、ユウミさんが歯を折った理由がデタラメであることにも問題はない。取材中に、いちいち、本当の年齢はいくつなんだろうと考えないのと同じだ。考えてしまうなら、抑制すればいい。

「それじゃ、三月の初めに載る予定ですから」

「はーい」

 ユウミさんは、自分の写真を確かめもしない。彼女もまた、自分に必要なことをわきまえ、それ以上に手出しをしないようにうまくやれている。

「失礼します」

 店長に頭を下げて、店を出る。

 湿度も温度も高くした室内に慣れた体に、外気は凍りつきそうなほど冷たい。だが、空はわずかに群青色を残していた。真冬であっても、陽はずいぶん長くなっている。


最近、早く帰りたがると絡む長谷部さんをかわして、編集部を出る。まだ九時前なので、駅近くのパン屋の営業時間に間に合う。

 帰りが早くなったのは事実だ。デスクの機嫌が悪くない日は、速やかに帰宅するようにしている。余計なことを考えて無駄にしていた時間に、ちゃんと仕事ができるようになっただけだから、問題はない。そうして、追川と一緒にいられる時を増やしているのだ。

 パン屋で、トースト用の食パンと一緒に、チーズケーキも買っていく。機嫌を取っていると言われたら、その通りだと開き直るしかない。でも、心配しなくていいと態度で示す以外に、わたしが追川にできることはまだ思いつかない。


 帰った瞬間に、空気が重たいのを感じた。

 この間と同じ、追川が、なにかを切りだそうとしている雰囲気だ。ちらりと浮かんだ、めんどくさいという気持ちを抑制する。これから出る話題が、追川にとって大事なことなのは、わたしにもわかるからだ。

「病院へ行かないか」

 口調は断定形だった。

「やっぱり、ものすごく無理してるように見える。人が変わったみたいに思える。自覚の起きない病気があるのかもしれない」

 言外に濁していても、精神の病を心配しているのは、よく伝わってくる。案外、ショックじゃないものだなと思ったあと、自分がすでに何かの感情や思考を抑制しているかどうか、判断できないことに気づいた。

「そんなに変かな」

「俺が知ってる可南子じゃないみたいだよ」

「それは……」

 言葉が続かない。

 自分が変わったことについて、まだ追川に説明していない。うまく話せる気がしないし、正直に言ったところで、本気にしてもらえると思えないからだ。わたしだって、自分の身で実感できるから納得しているだけで、他人から聞かされたら思い込みだと笑うだろう。

 それでも、ここで黙ったら、同じことの繰り返しだ。必死で、言葉をたぐり寄せる。

「あのね、わたしも自分が変わったことはわかってるの」

 今、自分がどのように世の中に対処しているか、できるだけ、そのままを話してみる。嫌だと思ったことや、無駄だと感じたことや、無意味だと考えたことを、抑制しようと決めると、意識から排除される。その繰り返し。

「だから、前よりずっと楽なんだよ」

 そんな顔をさせるつもりはなかったのに、追川は、とても辛そうで不安そうな表情でわたしを見ている。

「でもね、自分の意志や行動って、自己決定するでしょう。それと同じで、自分の情動や思索を制御するのって、おかしなことじゃないと思う」

「全部、本気で言ってるの?」

 奇妙なモノを見る目という形容詞は、まさしく今の追川のためにあるに違いない。わたしがかき集めた言葉は、追川になんの共感も及ぼさない。

「いったい、どうすればいい?」

「だから、病院に行こう」

 医者がどんな診断を下したら、追川は納得するつもりだろう。試す価値があるのか、追川の顔を眺める。

 遠くまで走って行ってしまった子を、呼び戻そうとするような表情。胸が痛くなる。わたしは、この人が好きだ。

「いいよ、行く」

 わたしは、追川と一緒にいたい。

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