第5話

 気温が高い日が続くせいで、昼に緩んだ雪が凍りついて、夜道が滑ってしょうがない。アイススケート場のような道は、二十回以上の冬を過ごしても慣れない。駅からマンションまで歩く間が、一日で最も緊張する時間かもしれない。

「ただいま」

 扉を開けると、ホワイトシチューの良い匂いがする。わたしが特に遅くなる日、追川はちょくちょく、夕食を作ってくれる。手料理が好きで得意な彼氏はお買い得物件だと、前に自分で笑っていた。

「疲れたー。なんで、みんな、あんな道を平気で歩けるんだろう。わたし、運動神経、悪すぎるのかな」

 ぼやいてから、暖房の効いた部屋にほっと息をつく。靴を脱いで、コートをかけて、リビングに入る。じゅうぶんに空気は暖められているはずなのに、ひやっとした気がした。

 厳しいと険しいを足して割らないような表情で、追川がわたしを見ていた。

「どうしたの?」

 尋ねると、迷うような視線が、わたしとリビングのテーブルを行き来する。やがて、はっきりわたしの目を見て、追川は口を開いた。

「食事の前に、ちゃんと聞いておきたいんだけど」

 次の言葉は、予想外だった。

「最近、変なクスリとか飲んでない?」

 何を言っているんだろうと、追川を見返す。

 クスリという言葉で思い出せるのは、風邪薬か胃腸薬くらいだ。それらに、変なという形容詞がつかないことくらいは、聞かなくてもわかる。

「どういうことを、想定してるの?」

「気分とか、気持ちを変えるような、そういうクスリ」

 わたしが戸惑っているのに対し、追川はずいぶん確信に満ちた態度だ。彼が、本当に疑っているのだと、ようやくわかった。

「可南子は変だよ、最近。おれは、ちゃんと近くで見てるから、そういうのわかるよ」

 確かに、わたしは自分に起きた変化を、追川に言っていない。それが話す必要のあることだと、感じていなかった。少しうまくやるコツを掴んだ。ただそれだけのことだから、説明するなんて考えたこともなかった。

「ちょっと、どう言ったらいいのかな、考え方が少し変わっただけだよ」

 違法な薬物を疑われるなんて、まったく想像していなかった。

「一緒に暮らしてるんだし、近くにいるんでしょ。それなら、何かやってたら、絶対にわかるじゃん」

 いったい、どうすれば納得してもらえるだろう。痙攣のように起こる動揺や、不安、それに、不当な疑いへの怒りは、今は必要ないものだから、抑制をする。

「なんだったら、携帯の履歴とかアドレス、それにメールも全部見ていいよ。変なところと連絡取ったりしてないし、隠し事ないってわかるから。家にあるものなら何をチェックしても構わないよ。職場にあるものも、ほとんどデータ共有しているし」

「だから、そういうのが……」

 言いかけて、追川は首を横に振る。

「いいよ、信じる。いや、そういうことじゃないのは、わかった。疑ったのは悪かった」

「本当に?」

「うん。シチュー、温め直すから、食べたいって思ってくれるなら、一緒に食べよう」

 もちろんと頷く。

 安堵は、抑制する必要がない。

 シチューを待ちながら、反省する。追川が落ち着いている時に、自分に起きた変化をちゃんと説明しなければならない。こんなやりとりは、もう、繰り返したくない。

 皿を運んできた追川に微笑みかけると、やっと笑ってくれて、安心と喜びがわきあがってくる。わたしにとって、追川との関係は、大切に守りたいものだ。

 だから、もっとうまくやろう。

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