第3話
朝十時までに出社して、タイムカードを押す。
デスクが厳守させているルールのひとつで、理由は他と同じく聞いたことがない。ともかく、そのおかげで、うちの編集部は午前中から全員が顔をあわせる。しかし、朝から営業している風俗店は多いが、責任者が早い時間にいる場合は非常に少ない。そうすると、出社してしばらくの時間は、編集部内の交流にあてられる。
昨日の店がどうだったか、長谷部さんが自分についた女の子について、詳細な感想を述べるのを聞き流す。セクハラというのは、性的なものを業務で取り扱わない世界でなら、有効な概念なんだろう。
「それでさ、もっちゃんについた女の子がすごくてさ、見た瞬間にヤバイって思ってさ」
デスクをもっちゃんと呼んでも許されるのは、長谷部さんだけだ。
上下関係を重視するデスクにとって、同じ大学の先輩であるということは、たとえ在学時代の繋がりが一切なくても、社内序列よりはるかに重要らしい。長谷部さんに対する特別待遇が、編集部内にくすぶる鬱屈のひとつであっても、それはデスクにとって態度を変えるほどの意味を持たない。
「戸井は、けっこう良さそうだったよな」
長谷部さんに矛先を向けられ、戸井くんは気弱そうに笑う。
肯定とも否定とも決まらないその態度は、入社してからの一年で戸井くんが身につけた、一番の武器だ。優柔不断だ、男らしくないとデスクや長谷部さんを苛つかせはしても、間違っていると断定されて、いきなり怒鳴りつけられることはない。
今日は、なんだか、見通しがいい。
蛍光灯を変えたんだろうかと天井を見上げた瞬間、デスクの怒鳴り声がした。
「ナーガミ、お前、何回言えば、写真の撮り方おぼえるんだ!」
こういうときは、すぐさま立ち上がって、デスクの机にはせ参じなければ、さらに怒らせることになる。まず気をつけの姿勢でデスクの前に立ってから、状況の把握をする。順序を間違えるのは禁物、優先順位に疑問を持つのも、デスクの怒りが過ぎてからでいい。
「写真、まずかったですか?」
いきなり謝るのもいけない。何が悪いか理解せずに、謝罪だけして済ませようという態度が一番ダメだと、デスクをさらに憤らせる。
「悪かったから、怒ってるんだろうが」
「すみません」
どこで頭を下げれば良いかと言えば、デスクがその時にそうしろと思ったタイミングだ。幸い、今日はうまくかみ合ったらしく、きつく歪めていた眉間がゆるむ。
「だからな、お前の写真は確かに綺麗なんだよ。でも、綺麗なだけなんだ。色気が足りない。こういう女は、抱こうって気にならないんだよ。お前にはわからない感覚だろうけどな、そこはもう経験でおぼえろよ。見本はいっぱいあるんだしよ」
早口で、語尾を相手につきつけるように上げて喋るのがデスクの癖だ。
「この女を抱きたいって、金握らせるような色っぽさが欲しいんだよ。綺麗なだけな女ってのはさ、花みたいなもんで、店に飾ってあれば嬉しいけど、それだけなんだよな」
デスクの手の中に、わたしが仕事用に使うデジカメがある。抜き打ちで仕事内容をチェックして、できている部分を褒め、できていない部分を叱るのが緊張感を保つ秘訣だと、デスクは日頃、誇らしげに語っている。つまり、一日にひとりは、こうしてデスクに怒鳴られるのが、タイムカードと同じように厳守されるルールだ。
保存された画像を一枚、一枚、確かめながら、デスクはぼやき続ける。
「いつもいつも言ってるよな、お前の写真には色気が足りない。全然、グッとくるもんがない。たまーに、良いのもあるんだけどなあ」
はい、はいと相づちを打っているうちに、気が済んだらしく、デジカメを返された。
「じゃ、色気だからな、色気。きっちーんと色っぽく撮れよ!」
だめ押しの声に深く頷いてから、自分の机に戻る。
「お疲れ。災難だったね」
滝下さんが、小声で苦笑する。わたしより、二ヶ月だけ先に入社した中途半端な先輩だ。聞くたびに違うので、いったい何歳なのか、どういう前歴なのか、いまだにわからない。
「大丈夫ですよ」
こちらもデスクに聞こえないように笑い返す。
午前中に、デスクに怒鳴られる役目は、わたしと戸井くんと滝下さんと加東ちゃんの持ち回りだ。つまり、長谷部さん以外は誰でもターゲットになる。そうやって、自分の強さを誇示することが、デスクにとっては仕事のモチベーションを高める一番効率の良い方法なんだろう。そんなふうに考えられるくらい、本当に大丈夫だった。
「なんか、良いことあった?」
「いえ、別に」
自分でも、不思議だ。
怒鳴られたくらいでへこむなと怒鳴られるくらい、いつもなら気にしている。聞き流せるようになったわけでなく、デスクのねちねちしたもの言いは、反芻できるくらいちゃんと記憶に残っている。
じゃあ、なにがいつもと違うのか。
次は、もう少しうまくやろう。
いつも背後にいた何かのかわりに、私はそう思う。何も特別なことは起きていないが、それだけは違った。
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