第2話

 編集部のあるビルから、地下鉄駅までは雪というより氷のようになったつるつるの道が続く。それでも、五分かからない。

 行列のような呼び込みを横目に、追川へのメールを携帯電話に打つ。送信終了から二分かからずに、電話が返ってきた。

「どうしたの?」

 とても心配している声だ。子どもの頃、風邪でひどい熱を出したとき、親がこんなふうに気遣ったのを思い出して、笑ってしまう。どんなに早くても夜九時は過ぎる帰宅時間を二年続けているのだから、七時前に帰ると連絡があったら不安にもなるんだろう。

「悪い理由があって、早く帰れたわけじゃないよ」

 手短に説明すると、ほっとした息づかいがあった。

「じゃあさ、どこかで待ち合わせて、ご飯食べようよ」

「え、でも、せっかく……」

 早く帰れるから、ひさしぶりに料理を作るつもりだった。外食しないで帰ってきてと、そういうつもりの連絡だった。

「せっかくだからさ、いつもは行けない店で食べようよ。外で食べようって言うと、飲み屋かラーメン屋しか開いてないような時間ばっかりなんだから」

 返す言葉もない。

「おれも、もう帰るところだったし。予約なしでも大丈夫な店、選んで行くから、ちょっと待ってて」

「ごめん、なんか全部やってもらって」

「気にしないでいいよ。じゃあ、あとで」

 待ち合わせの場所を決めて、電話を切る。

 予約だけでなく、ドレスコードもない店でないとダメだと、今さら気がついたが、そんなことはわたしより追川の方がよくわかっているだろう。暖かさと動きやすさが最優先の服装は、この職に就いてからずっとだ。取材対象より派手にするなと、入社してすぐの頃、デスクに何度も釘を刺された。

女は女相手には色気を見せない、というのが、デスクの持論だ。だから、元々が女性のわたしは、取材中に女っぽさを少しでも薄くする努力が必要なのだそうだ。男性であるデスクが、どのような経験と分析の末に、そういう女性心理の解釈に至ったのかを聞いたことはない。理解も納得もできる気がしないから、深く掘り下げないようにしている。

 いつのまにか、また自己嫌悪が後ろにいる。デスクとやり合う気はないくせに、不満と憤りは大量に抱えている。そのせいでストレスが溜まると、まるで自分が被害者のように思っている。次々に脳裏に浮かぶ自責に追いつかれる前に、待ち合わせ場所に急ごう。


 追川は、若いというより幼い顔立ちをしている。背広姿でも、会社帰りのサラリーマンではなく、高校生くらいにしか見えない。大学で知り合ってから四年経つが、学生時代より若返っているような気までする。

「こうやってると、おばさんが若いツバメとご飯食べてるって思われないかな」

「可南子は、言葉の選び方が、おばさんっぽいよ」

 冷ややかに返され、カニとエビのクリームパスタに視線を戻す。追川が選んでくれたのは、パスタ専門店だった。

「だいたい、二十四でおばさんなんて、うちの職場で言ったらどんなことになるか」

「本気じゃないよ」

「なら、いい」

 頷いてから、追川は自分のボロネーゼから、ミートボールをひとつ、わたしの皿に移してくれる。

「可南子は、すぐ落ち込むから」

 いつも、こんな感じだ。追川は、わたしを励ますというより、甘やかしてくれる。

「ねえ」

 言いかけて、口をつぐむ。仕事の愚痴も相談も、この二年、じゅうぶん過ぎるほど繰り返した。

「仕事なら、割り切るのがいいよ。それ以外の話なら、聞く」

 わたしを傷つけない言い方を、追川はよく心得ている。

 とても恵まれていると思う。やりたくてやっている仕事に、理解のある優しい恋人。借金も持病もなく、具体的な不満は何もない。

 ただ、すぐ後ろに、ぴったりと何かが張り付いて、隙をうかがっているだけだ。

 お前は、うまくやれているのか。

 時々、投げかけられる質問に、イエスと答え続けられるよう、わたしはいつも精一杯だ。いつから、なぜ、それがいるのかわからない。自虐も自責もそれが引き連れてくるのは、わかっている。ノーと認めてしまったら、私はそれに頭から食べられてしまうのだ。そんな確信がある。

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