第3話 短時間の攻防
「新玉さん…だっけ?」
「ん…?どうしたの?」
午後一番のセミナーが行われているさ中、アルバイターの男性が、ののかちゃんに声をかけてくる。
今行われているセミナーは13時開始だったため、開始してから10分ほど時間が経過している。
「今、これから7階で行われるセミナーの冊子にアンケートの挟み込みやっているんだけど、人手が足りなくてさ…。中並さんが、こっちからも一人応援を寄越してくれってさ!」
その男性はもちろん、ガゴドムスのアルバイターだが、少し焦っているようだ。
7階って、そっか…!
私は、彼が焦っている理由が何となく理解できたのである。
「そっか!7階といえば、一番大きな会議室があるし、そりゃあ挟み込みも終わらないよね…」
ののかちゃんも、彼が焦っている理由を気が付いたようで、苦笑いを浮かべていた。
「でもさ、こっちはどうするの?この後、彼女一人でアンケートや翻訳機の回収…あと、受付の片づけは厳しいと思うけど…」
そう口にしながら、ののかちゃんは私の方に視線を向ける。
「無論、それはわかっているさ!だから今、中でタイムキーパーやっている子に俺が伝えて、来場者がアンケート記入の時間になったら、受付に待機してもらうようにしておくからさ」
「んー…了解。挟み込みは、7階?」
「あぁ。702会議室で、他の奴らもやっている」
ののかちゃんは報せに来てくれた男子に場所を確認した後、受付用の机の隙間に右手をつっこむ。
そこには、彼女の貴重品が入った小さなポーチが置いてあったためだ。
「奈緒美ちゃん!それじゃあ、後よろしくね!!」
ポーチを肩にかけた後、ののかちゃんは足早にその場から離れていったのである。
因みに、私達が受付業務をやっているフロアは6階。目的地である7階には1階分あがるだけのため、エレベーターを待って乗るのは時間の無駄でもある。そのため、彼女は迷わず、階段がある方角へと歩き出していた。
「じゃあ、俺は中にいる彼女に伝えてたらそのまま戻るので、君は引き続きよろしくな!」
「はい、わかりました!」
男性に言われ、私はすぐに返事をした。
セミナーが終わるまでとはいえ、一人になるのは少し心もとない。しかし、周りが忙しい時は上手く人を回してローテーションしなくてはいけないのは一応理解しているため、「そんな事考えている場合じゃない」と自分に言いきかせ、その場で待機していたのである。
※
うおーー!!終わらねぇーーーーー!!!
俺は、手を動かしながら、心の中で叫んでいた。
今、俺達は、この後の14時から開始されるセミナーで配る小冊子に、アンケート用紙を挟み込む作業をしている。冊子の中にアンケート用紙を挟み込むだけの内容で、しかも座って作業して大丈夫なため、一見すると午前中やっていた受付業務よりは楽に見える。しかし、単純作業だが、さばくべき数が非常に多いのだ。
「中並さん!あと何部くらい残ってますか?」
「ざっと見て、あと200部くらいだ!!」
皆が慌ただしく作業をしている中、富士原が手を動かしながら、中並さんに残り部数を確認していた。
その14時から始まるセミナーだが、7階にある会議室というのが、実はこの会議棟で最も大きな会場に当たる。実際は最大で1000人収容できる場所で、流石に1000人くる訳ではないが、主催者から請け負った部数は500部。そして、時計の針が13時21分を指していた。また、セミナー会場が開場するのは、13時30分。この場で作業をしているのは、俺を含めて6人。また、この500部が終えた後も、また別のセミナー分の挟み込みもあるのだ。なので、皆が物凄く切羽詰まって作業をしている状態だ。
「痛っ…!」
挟み込みをしているさ中、俺はアンケート用紙の紙で指を少し切ってしまう。
痛みと共に、赤い血がうっすらとにじみ出ていた。
絆創膏、持ってないしな…
俺は、切り傷も大して深くはないし、ハンカチで軽く拭いたらすぐに作業を再開しようと思っていたその時だった。
「絆創膏ねぇなら、これ使えよ」
「富士原…」
すると、横で作業していた富士原が、胸ポケットから1枚の絆創膏を取り出し、机の上に置いていた。
「大した怪我じゃねぇし、つけなくても大丈夫だろ」
「お前が良くても、血が出た指で
俺は、断ろうとしたが、にべもなく却下される。
しかし、彼の
そっか…。確かに、血が出たまま挟み込みの作業をして、血がついたアンケート用紙が来場者に渡っちゃったらまずいよな…
俺みたいなアルバイターから見れば些末な事かもしれないが、もし、血のついたアンケート用紙が来場者に渡ってしまった場合、クレームが発生し、被害を被るのは、展示会の運営側だ。俺自身に被害がないとはいえ、自分のちょっとした軽率な行動が、組織への被害へ繋がる―――――――現在の社会人がよく知っている常識を、この場で学べた気がしたのである。
「サンキュ…」
俺は呟くように富士原へお礼を述べた後、もらった絆創膏を切り傷ができた指につけるのであった。
「挟み込み、一人入ります!!」
扉をノックする音が聞こえた後に入ってきたのが、新玉ののかだった。
おそらく、挟み込みが多忙を極めているので、助っ人として他から回されたのだろう。
「この後、7階の会議場でやるセミナーで配る小冊子にアンケート用紙挟み込みやっているんで、すぐ始めてくれ」
「はい!」
新玉の存在に気が付いた中並さんは、彼女に向き直った後、作業の指示をする。
その一言ですぐに納得した新玉は、この会議室にあるパイプ椅子を自分で持ち運ぶ。その後、冊子とアンケート用紙を何部かまとめて取った後に、すぐさま作業を開始する。
俺も一応、内職類は経験しているものの…新玉も富士原もすげぇな…!
俺は、1部の挟み込みをまるで一瞬でやってのけているような彼らを見て、純粋にすごいなと思った。そして、開場の時間が一刻一刻と迫っているため、自分も集中する事にしたのである。
そうして、この場にいる全員が猛スピードで進めていった結果、必要部数の作業を終わらせ、次のセミナー分の挟み込み開始ができるようになったのである。
「おっ」
作業が少し落ち着いてきた頃、机の上に置いていた中並さんの携帯電話からバイブレーションが鳴る。
電話の着信音だったようなので、彼はすぐに通話開始のボタンを押した。
「はい…。はい、わかりました。最後にそれをやれば…はい…」
周りは静かにしていたため、会議室内は中並さんだけの声が響く。
へりくだっているような口調で通話しているのを見る限り、電話で話しているのは、展示会の運営側だろう。中並さんは、俺達アルバイターの引率も仕事だが、展示会の運営側の担当者との連絡を取り合うのも、仕事である。そこで進行の状況などを確認し、必要に応じて人を向かわせたリの判断をしているらしい。
そして、電話を終わらせた中並さんは、俺達に向かって口を開く。
「じゃあ、この作業が終わったら、うちの控室へ戻って解散だ。ただ、控室戻る前に、展示棟の展示エリアを巡回し、落とし物とかないか確認していってくれ」
「わかりました!」
中並さんの指示を聞いた俺達は、各々がバラバラではあったが各自で返事の声をあげていた。
「えっと、じゃあ…そこの君!」
「俺っすか?」
すると、偶然目があった俺に対し、中並さんが声をかけてくる。
「そう、君だ。6階で作業している女の子達にそれを伝えて、君も展示棟を巡回してから、控室に戻ってきてくれ」
「あ…はい!わかりました!」
中並さんから指示された俺は、すぐにその場から立ち上がる。
「すぐ行った方がいいですか?」
「そうだなー…」
俺が問い返すと、中並さんは富士原や他のアルバイター達を一様に見渡す。
そして、大丈夫と判断したのか、再び俺の方を向いて口を開く。
「こっちも落ち着いてきたし、すぐ行ってもらっていいかな?」
「わかりました!」
確認をした俺はその後、7階の会議室を後にして、
その後、全ての業務が終了し、帰宅するために国際展示場駅へ向かおうとしていた時だった。
「初日はどうだった?羽切君!」
「新玉…!」
後ろから追いついてきたと思われる新玉が、俺に声をかけてくる。
そして、その後ろには富士原や
「うーん……一日中バタバタしていて忙しかったけど、最後は気持ちよかったかも…な」
「最後…?」
俺の
「八倉巻達に中並さんの指示を伝えた後に、展示会の本会場行った時、“落とし物がないか確認”という名目はあったけど、あの本会場に入れたのが、何だか気持ちよかったなー…と」
そう述べながら、俺はつい先ほどの事を思い出していた。
因みに今日、俺達ガゴドムスのアルバイターは、腕に“STAFF”と書かれた腕章をつけて仕事をしていた。この腕章をつけている場合、会議棟及び、展示会の本会場の中に自由に出入りする事ができるのだ。本来は出展側か、来場者でなければ入れない場所に入る事ができたという事実は、俺の中で気持ちよく感じたのだ。
今回はIT関連という自分が興味ないジャンルの展示会だったが、これが自分の好きな分野の展示会会場だったら、もっと気分が高揚していただろう。
「確かに、“普通の人は入れない場所も出入りできる”のは、気持ちいいよね!」
すると、
まぁ、あとは…やりがいを少し感じられたけど…別に、こいつらに口で言う事でもないか…
俺は、他に思った事があったものの、彼らの前では口にしないと思い、声には出さなかった。
「ってか、こいつ。挟み込み作業で指切ったくせに、最初は絆創膏しないで作業続けようとしたんだぜ!ありえなくね?」
「マジ!?あんた、アホっすか!」
すると、隣にいた富士原が突然カミングアウトをしたため、新玉が俺につっこみを入れて来る。
「アホって…!」
同世代とはいえ、一応年下である新玉にその言葉を言われて、俺は軽いショックを受ける。
「まぁまぁ…」
絶対、フォローしてくれなそうな
彼女の態度を目の当たりにし、
もちろん、本気の喧嘩をしている訳ではないので、この後にすぐ立ち直れるが、まだ1日しか行ってないのに、「彼らとは仲良くなれそうかな」という想いが生まれていた。
また、息が詰まりそうな就職活動が続く俺にとっては、いろんな意味で気晴らしになりそうな気もしていたのであった。
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