第31話

いつから世の中は傾き始めたのだろう。安健は目の前に広がる景色が歪む感覚に襲われていた。ほんのさっき迄は、少し前迄は、僕を取り巻く世界は平穏そのものだったのに。進んだ時は戻らないらしい事は経験上知っている。ならばこの置かれている状況がこれ以上悪化しないために、または事態が好転するような、何か劇的な改善策が思い付く迄時間を止められたらと、また不毛な妄想に囚われそうになっていた。



町田さんの様子がおかしい。まるで全身で自分を拒絶している様に安健は感じていた。安健は少し頭の中で二人のやり取りを巻き戻す事にする。



ドアを開け、部屋に入り何日か振りに再会した町田は幾分顔がほっそりしていた。そのせいだろうか、いつもあんなに毎日一緒に近くで過ごした楽しかった日々が遠い陽炎の中に映る景色の様に思い出された。あの日々とは違う、二人の間に物理的ではない何か距離を感じた。町田が何がこちらの様子を伺ってるのがわかるのだ。暫し無言のまま二人の時は流れた。



沈黙を破ったのは自分である。先程頭で考えていた事を思いだしながら話を切り出す。細かい言い回しは緊張の為覚えてないが、とにかく小説が上手くいった事と、町田が好きだということを伝えた。



人生で初めての告白である。自分は器用な方ではない。取り繕わず、下手な事は言わず、気持ちを隠さずそのままストレートに言ったつもりだった。



しかし、安健のその一生一代の愛の告白を聞き終わるやいなや、町田の態度は見るからに表情が硬化していった様に思われた。見たことのない様な怖ばった顔を見てその瞬間、安健は自分は振られるんだと思った。これは叶わぬ恋だったんだと、でもいいんだ、自分は思い切り、言いたいことを、気持ちをちゃんと伝えられたじゃないか。この家を出る事となっても、悔いはない。




しかし、町田が口を開いて言った言葉は予想外のものだった。



「いいよ、契約続行だ。」



その後のことはよく覚えていない。オードブルをつつきつつ、出来上がった原稿を町田に見せて、素人目にも良くできてると思うよと褒めてくれたのはおぼろげに記憶している。




そしてその後、付き合うんだから一緒にお風呂に入ろうと言われた事も。



何か不機嫌な町田を前に、断る理由を考えているうちに、先にはいってるから後から来いよと町田は先にお風呂に入ってしまった。そして今に至るのである。



安健は混乱していた。自分は振られると思っていた。だって町田さんはとても困った顔をしていたから。だか、契約は続行だと言う。もしかしたら、町田は自分の事は好きじゃないけど、小説の為に、お情けで自分の相手をしてくれているんだろうか。

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