第30話

「町田さん!帰ってきてたんですか!」


安健は勢いよくドアを開けるやいなや、リビングにいる町田の元へ駆け寄った。顔は少し蒸気し、頬は赤らんでいる。その表情といったら、彼の持つ美貌を差し置いても、その類いの性癖を持つものならうっとりしてしまう程だった。唇も赤く、そこから自分の名前が発せられる事に微かな興奮めいたモノを町田は覚えた。



「ああ、手紙があったから、早く帰ってきたんだ。」そう町田は答えた。実は今日1日仕事にろくに集中出来ず、注意力は散漫で、ずっと帰宅時間が待ち遠しかった。同僚の梨花にも今日はどうしたのかと心配される始末だった位だ。



だってもしかしたら、もしかしたら、安健との恋の関係を先に進める事が出来るかもしれない。ずっと我慢してきた、汚れた手で触れてしまうと途端に全てこぼれ落ちてしまう可憐な花弁の様に、ひと度、欲望の熱い吐息を吹き掛けただけで、溶けてしまう美しい氷の彫刻の様に、この愛しい人を想ってきた。先日のイメプレで失敗してからは尚更その意識は鋭敏になっていた。そして、イメプレ風呂事件以来の久々の安健との再会である。町田はもう二度と過ちを犯すまいと慎重に安健に向き合おうとしていた。



が、慎重になればなるほど顔がこわばり言葉が出てこない。焦るあまり汗がじっとりと脇をつたうのを感じた。二人はお互いなにも言わず暫し佇んでいた。どれくらいたったであろう、何か言わないと思っている所で安健が沈黙を破った。



「あの、無事に原稿上がりました。今月号から掲載されるんです。ま、町田さんの、お陰です!本当にありがとうございます。僕、何て言ったらいいか、町田さん!こ、これからも宜しくお願いいたします、ーーーーす、す、好きです!ま、町田さん!」



そう言い終わった安健はふーーっ、ふーーっと口を半開きにしたまま呼吸を整えてる。余程緊張しているのであろう、頬は愚か耳まで真っ赤である。ここ数日の仕事疲れのせいのためか、目は充血していた。



ああ、そうか。町田は合点した。契約を続けたいということか。仕事が上手くいったんだな、そう解釈した。しかしどうだろう、今朝まで、先程まで待ち望んでいた筈の心の中で何度欲しいと祈ったかわからないその言葉は、途端に魔力を失ってしまった魔法の様に、シュルシュルと魅力を欠いて萎んでしまった。



何て欲張りなんだろう自分は。自分は単純に、純粋に、安健に好きと言われたかったんだ。それでもいいと心に懇願した筈なのに、打算の上に成り立つ恋愛なんて望んでなかったんだ。



どうして心変わりしたのだろう、きっとそれは安健が恋愛契約に本腰を入れたいと口にするのを目の当たりにしたからだ、町田はそう思った。自分の馬鹿みたいにまっすぐと言える感情とはあまりに違う、打算的で、計算高い、そしてなにより契約恋愛に執着めいた必死なこの表情、それに失望したのだった。



随分、俺は若いんだな。自嘲しながら町田は口を開いて、渇いた声で言った。



「いいよ、契約続行だ。」





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