第3話 青の眩惑
昨夜はずいぶん遅くまで飲みながら話しこんでしまった。
宿酔いに痛む頭をすっきりさせようと、バルトロメイは薄荷湯を飲み干した。
気が付くと、病室の寝台がもぬけの空だった。
妄想に囚われたベットガーは、何をしでかすかわからない。
バルトロメイは、慌ててベットガーの行きそうな場所を頭の中で数え上げ、まず影青の部屋へ向った。
あまり立て付けのよくない木の扉をノックすると、返事を待たずに医師は中へ入っていった。室内には小さな書卓と椅子が窓際に置かれ、窓からの光で読書ができるようになっている。
木製の寝台が壁際に寄せてあり、そこにベットガーが寝息をたてていた。バルトロメイはほっとして、その枕辺の少し上に掛けられている小さな額に視線を移した。
額には八角形に切り抜かれた紙が入っていた。
青と赤の顔料で素描が描かれている。
目をこらして見ると、描かれているのは、大きな甕を石で割る童とその甕の中から水とともに流れ出てきた童の姿だった。
繊細な筆遣いの愛らしい童たち。
その童たちを飲み込もうとしていた静かな佇まいの大甕。
動けぬ存在でありながら、ひと度こちらから興味を示そうものなら、暗い底の闇に相手を飲み込んでしまう恐ろしい存在。
その絵の意匠は、東洋の故事「
「
ベットガーの工房に影青が始めて現れた日、耳にした言葉だった。
その時の光景が、バルトロメイの脳裏に鮮やかに甦ってきた。
それは、ベットガーが、ドレスデンからマイセンのアルブレヒト城に移されてすぐの頃のことだった。
『……この者を助手として遣わす。磁器の国の者なれば良き助けとなるであろう……』
東の大陸から海路を辿り
数知れぬ交易船が沈んでいると言われる、好天でも波が激しく荒れる魔の海域で難破し、ただ一人生き残り漂流していた少年は、通りかかった船に奇跡的に救われここへ荷と共に運びこまれたのだと、王の使者は説明した。
もとより声を持たぬのか、難破での衝撃で喋れなくなったのかはわからないが、少年は口がきけないようだった。
ベットガーは少年の頭からつま先まで丹念に見渡し、しばらく腕組みして考えこんでからおもむろにこう言った。
「服を脱げ」
少年は驚く様子もなくはおっていた外套の腰帯を解いて、するりと服を脱いだ。
耳は聞こえるようだった。
袖口から覗いていた二の腕から想像した通り、全身磁器のごとく滑らかな白さで覆われていた。
「ポーセリンドール」
思わず感嘆の呻きを、ベットガーは漏らした。
ポーセリンとは磁器のことである。
一三世紀末のベネチアの商人マルコ・ポーロが、絹の道の涯より携えてきた小さな白磁の壺の白く滑らかな地肌が
「そうか、なるほど、おまえは、私を救いにやってきたのだな。遠い白磁の国よりの使者。そうか、かの国の尊き童子
周りに人がいることなど頓着せずに、ベットガーは一人で喋り続け一人でうなずきながら、少年のまわりを腕組みし歩きまわった。
破甕救児について今少し詳しい話を彼は思い出していた。
北宋の学者にして政治家の司馬光が子どもの頃、大甕に落ちてしまった友を助けるために高価な大甕を割って友を助けたという故事から出た意匠だったな、と。
ベットガーは遠い極東の国の逸話の情景を思い浮かべ、この童たちの情景をもとにした図案がすっと脳裏に浮かんだ。少年の肌と同じきめの細かい白磁の皿に描いたら、さぞ素晴らしい作品になるだろう。
「名は、なんという」
少年は手紙の一番下の部分を指で指し示した。
そこには「影青」とあった。
「影青。影青とは、どんな意味があるのだ」
ベットガーの問いに少年は小箱から白磁の壺を取り出し、
その微妙な青に影を見、影青と呼ぶ。
それは、翳りのある少年の面差しと重なり、ベットガーの胸を騒がせた。ベットガーは少年の掌を両手で包み、掌に乗せられた壺に唇をつけた。
「よくぞ、よくぞ私のもとへたどりついた」
ベットガーは感慨深げにいつまでも少年の掌に頬擦りしていた。
ベットガーと影青の出会いの光景を思い浮かべているうちに、その場に満ちていた、他者には不可侵の濃密な空気感が、バルトロメイに甦ってきていた。
その濃密さにバルトロメイは酔いそうになり、覚まそうとして頭を振った。
と、ふいに薄暗がりにひと筋の陽光が射し込んだ。
光の差し込んだ場所に影青が立っていた。
今まで人の気配はなかったいうのに。
その陽光に照らされた横顔に、バルトロメイは息をのんだ。
陽に透ける白磁そのものの肌理こまやかな顔は、この世ならぬものを思わせた。
長年この作業に従事していると不健康な環境で肺をやられてやつれたりといった外見の異常や極端な老化が見られる。
一、二年ほどでも、その兆候は表れる。
けれど、影青にはそれがなかった。
東洋人は外見の変化が見えにくいとはいえ、工房で助手を勤めていてここまでは変化がないのは異常だった。
今までこんなにはっきりと光に照らされた顔を見たことはなかったので気づかなかったのだ。
その白く美しいままの顔から目を離せずにいるうちに、ある考えがバルトロメイの脳裏に浮かんだ。
――悪魔――
のどまで出かかった言葉を唾液とともに医師は飲みくだした。
口にするのもおぞましい、不信心極まりない言葉。
けれど、一見白磁の天使と見まごうばかりのその姿がベットガーの前に現れてから、少しずつ何かがおかしくなってきたのだ。
人間の生命と引き換えに望みを叶えるふりをして、永遠に満たされることのない欲望を与え渇えさせる冷酷な悪魔。
秘法を授ける代わりに、ベットガーの生気を吸い取ろうというのか。
ベットガーがそれまで以上にとり憑かれたようになってしまったのは、影青と出会ってからだった。
生きている白磁の人形のような少年との出会いは、ベットガーをいっそう駆り立てた。
城を移り環境が変わり、本来ならば休息すべきだった時に。
――悪魔は、祓わなければならないのではないか――
望みが叶う時、その者の生命の灯が消えるのだから。
医師の頭の中はその言葉で溢れかえり、押し潰され、何かの拍子に狂ってしまいそうだった。
と、くるり、と、影青が振り向いた。
医師は怯んでいるのを気取られぬよう、何度も唾液を飲み込み心の中でつぶやいた。
――影青、おまえは誰に命じられてここへ来たのだ――
と、影青がすっと近寄ってきた。
バルトロメイは思わず後ずさった。
影青はそのまま医師の眼前にまで歩み寄ると、彼の手をとった。
そして、白く細い指でバルトロメイの掌に文字を記した。
一瞬の出来事だった。
バルトロメイは必死でその文字を感じ取ろうとした。
――ヘルメス・トリスメギストス――
掌に記された文字にバルトロメイは足から力が抜けるのを感じ、よろよろと後ずさり床にへたりこんだ。
それは、そんなばかなことがあるかと打ち消してしまうには、磁器を巡って狂気に支配されているこの城には、あまりにふさわしすぎた。
少年は涼しげな微笑を浮かべると、なにごともなかったかのようにバルトロメイの横を通り抜け部屋を出ていった。
バルトロメイは、震えの止まらぬ掌をしばらく凝視していた。
それから、気を落ち着けるために、ゆっくりと室内を見回した。
そして、額の絵の異変に気がついた。
最初見た時は、確かに二人の童が描かれていたのに、今は、一人しかいなかったのだ。
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