第2話 青の憂愁

 影青えいせいは、寝かしつけられたベットガーに歩み寄ると、そっと手を彼の心臓に当てた。

 不規則な心音が掌を震わせる。

 医師は慌てて少年の手をはらった。

 もしベットガーがいつ倒れてもおかしくないと知れ渡れば、後継者としての秘法師候補たちが互いを牽制し合い、どんな混乱が起こるかわからない。


「そのまま、そのまま」


 苦しそうにベットガーは呟いた。


「そのまま、そう、十年前、私は、まだ若かった。この手のように、滑らかで張りのある肌で、薬剤調合師の親方のもとに弟子入りした。親方のもとで修養をつみ、自分の店を持つはずだった」


 ベットガーは、苦しそうに息をついてから、言葉を継いだ。


「ああ、あいつと会いさえしなければ」


 額に苦渋のしわが刻まれる。


「そうか、おまえは、あいつの遣いだな、そうか、そうか、わかった、おまえがここに来てからだ、私が生き急ぐようになったのは」


 すでに発せらる言葉には妄想が混じり始めていた。


「ああ、そうに違いない、おまえを見ていると、若さと美しさに、からだ中に、脳に、力が漲る。おまえこそ創造の源、創造の神が遣わした東洋の天使だと。この手で必ず磁器を生みだせると」


 妄想の語りは恍惚を呼び、一瞬にして頬は薔薇色に輝いた。

 それから強い光を浴びたかのように彼は眩しそうに両手で目を覆った。

 しかしそれもつかの間で、続く言葉はもう絶望を語る。


「だが、それはすぐに費える。阿片の幻のように、気だるさだけを残して。おまえを眺めて、おまえの肌に触れて、秘法に思いを巡らせているその時間は、蜜蝋みつろうの蝋燭のように、じりじりと時間の進むのは遅くなるように感じられる。なのに、それ以外の時間は猛烈に時計の針は進み、私は疲れ果て、死んだも同然になってしまうのだ。いや、私は、死んでいるのかもしれない」


 とりつかれたかのように饒舌なベットガーの様子に


 ―死のみが、自由をもたらす―


 誰もが口に出すのを憚ってきた言葉が、皆の脳裏を過ぎった。


「もう少し、眠った方がいい」


 気まずさを打ち消すようにベットガーの言葉を遮ると、バルトロメイは薬棚から薬剤と蜂蜜の壺を取り出し調合し始めた。


「ヨハン、おまえは、もう十分にやった。王も満足されているだろう」

「王には、満足という言葉は、ない」


 確かにそうかもしれなかった。

 最初に成功したエキゾチックな赤色拓器せきしょくせっきで、王は大いに喜んだ。

 しかしその喜びは、次なる要求への呼び水となってしまったのだ。

 さらなる完成度を、ベットガーは強く要求された。


「今、おまえに必要なのは、ゆっくり眠ることだ。バルトロメイ先生もそう言ってるじゃないか。酒を抜いてぐっすり眠れば、また新たな意欲も湧いてくるというもんだ」


 平凡な慰めの言葉しか言えぬ自分に、オーハインハは歯痒そうだった。

 バルトロメイは蜂蜜に薬剤を混ぜたものをひと匙ベットガーに含ませた。

 ベットガーは素直に嚥下すると、影青の方に手を差し伸べた。


「満足することなど、な……」


 最後まで言いおおせずに、ベットガーは深い眠りに落ちていった。



 磁器創製の秘法を巡っては、隙あらばかすめ取り我が物にといった輩が後を絶たなかった。

 磁器製造工場の査察委員長による帳簿の誤魔化し、経費の横領、優れた赤色炻器販売代金の着服、不実な技術者たちによる情報の漏洩、素地になる土の持ち出しなど、現場は頭を悩ます問題だらけだった。


 それでもなんとかやってこられたのは、同志として共に歩んできた先鋭的化学者エーレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウス、心許せる旧知の仲のパプスト・フォン・オーハイン、不正を許さぬ真面目な査察官シュタインブリュック、そして行動する医師バルトロメイら、ごく少数ながら信頼のおける協力者あってのことだった。


 中でもベットガーが最も頼りにしていたのは、師とも父とも仰ぎ尊敬していたチルンハウスだった。ゆえに一七〇八年一一月すなわち昨秋のその死は予想外にベットガーを蝕んでしまったのだった。

 いや、それだけではない、と侍医バルトロメイは思っていた。

 助手としてベットガーの傍に侍るようになった少年、影青の存在が、ベットガーの様子の著しい変化に拍車をかけていると彼は思っていた。



 その夜、バルトロメイは、晩餐の後に茶を御馳走するからと、オーハインを自室へ呼び出した。


「最上のティーセットでおもてなしとは、先生もなかなか粋なことを。ついでにお茶だけでけでなくティーセットを愛でられれば、言うことはないものですな」


 おどけながら入ってきたオーハインは、バルトロメイのいつになく深刻そうな様子に、一度室外へ出て回廊を見回してから再び中へ入り扉を閉めた。


「さて、今度は、何の謀議ですかな」

「謀議とは無粋だな、オーハイン。まあ、座ってくれ。まずは、茶だ」


 バルトロメイは、丁寧に紅茶をいれオーハインにすすめた。


「ほかでもない、昼間ベットガーが言っていた、影青を遣わせた人物についてだ。影青は、表向きは難破した商船より救われて、積荷の磁器とともに城に届けられ、見分の後に王より下賜かしされたことになっている。磁器の国の人間だからな、何か創製の秘法を知っているかもしれないとの目論みもあったのかもしれない。だがな、明らかに影青が来てからベットガーはおかしくなっている。オーハイン、なにか知らないか、なんでもいい」


 オーハインは目を閉じ、大げさに茶の香りを楽しむ身振りをしてから、黒紅に澄んだ茶をひと口すすった。


「ヨハンを陥れようとする者は多い」


 彼はカップを受け皿に置き、カカオ菓子をつまんだ。


「ヨハンは、ただ、真実を我が手で証明したいだけなのだ。それも、ごく個人的に、だ。だから王に目をつけられる前は、駄目ならやめてしまって街の薬房の店主にでもおさまっちまえってつもりで、細々と実験しているだけだった。俺が行商に出て、ヨハンが店を守る。お互い気ままにやっていく。そんな風に話していたもんだ」


 オーハインはもうひと口紅茶を飲むと、首をふってため息をついた。


「だがな、変わっちまったのさ、ヨハンは」

「変わった? 」

「ベルリンで」

「ベルリン? 」

「ああ。そうさ。ヨハンは薬剤師のツオルンさんのもとで真面目に奉公していたんだが、あいつと出会っちまった」

「あいつ? 」

「あいつの名は、ラスカリス。まあ、これも本名かどうかはあやしいもんだが。錬金術師とは名ばかりの香具師やしさ」

「錬金術の香具師? 」

「変成の技を衆人環視の中でやってみせた。ごく単純なからくりのな。だが、一般人からすれば、秘法に見えただろうさ」

「秘法、か」

「ヨハンは研究熱心で好奇心旺盛なやつだ。ラスカリスのからくりを解いてみせてやつにほめそやされて、交流を持つようになったのさ。本来ならあんなやつにつけこまれるはずはないんだが、好奇心っていうのは隙を見せちまうんだ、見せてはいけない相手に」


 バルトロメイは、難しい顔で腕組みをしたまま頷いた。


「ある時、やつから渡されたのが黄金霊液だった」

「黄金霊液とは、また、なぜそんないかがわしいものにつられたんだ」

「真面目な気持ちだったんだ。自分の目指すものに。それが、ヨハンのたがををはずした」


 オーハインはまばらな顎鬚あごひげを指でなぞりながら、低い声で言った。


「ただ、あいつが影青を遣わせたとは考えにくい。ただのいんちき野郎だからな。そんな手のこんだことをする理由がない」


 バルトロメイはオーハインの言葉に、確かに巷の香具師が下手をすれば自分の身を危険にさらすような手のこんだことを、わざわざするはずはないと頷いた。


 では、誰がなぜ……


 疑問は残ったままだった。

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