青の過程

美木間

第1話 青の迷走

 ― 秘法は守らねばならない ―


 自分だけが知っている秘法を守らねばならない。

 その一心が常に彼を苛み、駆りたてる。

 そして今日も日没とともに近頃では手放せなくなっている酒の小壜を持って、彼は回廊を彷徨い始めた。


 秘法など、まだ本当にはわかってはいない。

 だが、全くわかっていないわけでもない。


 自分を信じる気持ちを、現実は残酷に裏切るものだ。

 かつての不遇の経験が悪酔いさせ、その酔いが見せる幻に彼は怯えることになる。


 そうして彷徨ううちに、悪夢から逃れようと彼が入り込んだのは大甕おおがめだった。


 それは、極東より運ばれてきた豪奢な装飾品。

 城内に置かれたそれは、本来の用途は水甕だが、ここでは権勢を誇る為の飾りだった。

 ゆえに中は空だと踏んでの行為だったが、運悪く甕には水が満たされていた。


 彼は虚ろな眼差しで、甕の底から水面を見上げた。

 青みが射したポーセリンドールの白い手のひらが、ひらひらと舞って、彼の腕をつかんだ。


 彼は口から鼻から耳から大量の水を吸い込み、溺死しかけた状態で助けられた。

 悶絶寸前の形相に、誰もが死の影を認めた。



「ヨハン、聞こえるか、聞こえているのなら返事をしろ」

「ベットガー、そうだ、起き上がらなくていい、瞼もあけなくていい、意識があるなら私の手を握れ」


 声をかけている医師の手が、弱弱しく握られた。

 それから、男は、ゆっくりと目をあけた。


「オーハイン、それに、バルトロメイ先生か」


 かすれた声で名が呼ばれた。


「そうだ、ここにいるのは、私とオーハインだ。だがな、おまえを助けたのは、彼だ。彼が、そばにあった純銀の像でかめを割って、おまえをひっぱり出したんだ」


 医師バルトロメイは、部屋の隅を振り返ってみせた。

 そこには、ベットガーの助手の東洋人の少年が立っていた。


影青えいせい


 ベットガーは彼を見るなり何か言おうとして、半身を起こしかけた。


「だめだ、まだ起き上がれる状態じゃない」


 バルトロメイは、心底ベットガーを心配しているようだった。


「まったく、同じ顔を突っ込むなら辛気臭い城の酒臭いティーカップより、磁器の館の薔薇の香水を満たしたティーカップを俺は選ぶね」


 半ばおどけてベットガーの旧友オーハインが言った。

 磁器の館と言えばそれは娼館を意味する。磁器が魅惑的で人を虜にして得難いということからの揶揄だった。いつものように場を和ませようとしての言い回しだったが、この状況ではさすがに誰も笑わなかった。


 ベットガーは、驚異の錬金化学者であり敬うべき親方であり、そして、憐れな囚われ人であった。

 なぜ彼一人がここまで病んでしまったのだろうか。

 最初のうちは幽閉暮しという閉塞状況によるのだろうと思われていた。

 しかし、今やその原因は、高すぎる理想から生まれた妄想の成せるわざによるものとしか思われなくなっていた。

 

 ことのはじまりは、十七世紀末から十八世紀にかけて、強健王とうたわれたドイツ東部を占めるザクセンの王フリードリッヒ・アウグスト二世が、軍資金捻出に磁器を用いようとしたことからだった。


 最初は錬金術によって金を作りそれを軍用にするはずであったが、合金が金には決してならないことを誰もが暗黙裡あんもくりに知るようになっており、王も注進を受け、ではそれに代わるものとして眼鏡にかなったのが、東方よりはるばるやってきた白い貴妃、磁器だった。

 その磁器の創製の担い手として王が目をつけたのが、弱冠十九歳にして秘法を我がものとしたと噂のヨハン・フリードリッヒ・ベットガーだった。


 一介の薬剤師見習いであったベットガーになぜそのような噂がたったのかは定かではない。真に錬金術を極めるにはとてつもなく費用がかかることを見越して、パトロンを得るべく自分から流したのかもしれない。


 王命の下、ベットガーは磁器創製の任につくことになった。

 研究は最初ドレスデンで行われていたが、やがてマイセンのアルブレヒト城へ移された。それは秘法が外部に漏れないようにとの城への幽閉だった。


 工房は一歩歩くたびに白く陶土が舞い立ち、息をするたびに人は咳き込むありさま。参考にと与えられた磁器に頬擦りし、それが自分の手では生み出せていないことへの焦り、怒り、不甲斐なさに、思わず叩きつけたくなる衝動をベットガーは抑えねばならなかった。


 彼は震える手で磁器を掲げ、日にかざし、その透けるさまに感嘆し、眺め尽くし、それから再び絹布で丁寧に包み頑丈な菩提樹の箱におさめ、お互いの光沢で娟を競い合う磁器と絹布が同衾するのを妬ましく眺め続けた。

 

 城内の一室に、極東の磁器の蒐集物の並ぶ棚があった。金に糸目をつけずに収拾した白亜の宝石たち。競売で手に入れた、商船の沈没で一度は海底に沈んだこともある東洋の神秘。アウグスト強健王は女性関係に奔放で散財していたが、こうした物言わぬ美女に対しても贅を尽くしていた。


 そうした蒐集物の中でベットガーがとくに心を惹かれていたのは、磁器の欠片を修復せずに標本のように箱に収めているものだった。彼はわずかな欠片から全体を想像し、その想念で完成された磁器が東洋の王の祝宴の卓を彩る様を夢想した。


 白磁の器には想像上の生き物を調理した料理が盛られ、人の身の丈よりも大きな磁器の壺には竹や蓮が投げ込まれ王の間に飾られる。湯浴みする貴妃の肌の油が浮かぶ湯船も、磁器の板で縁どられている。

 寝間には五彩の施された磁器の香炉が置かれ、麝香が焚かれ、美童にかしずかれた世継の王子が、妃を娶るまで香を相手に夜を過ごす。

 商船の乗員たち、商人たちが語る珍奇な話より、ずっと繊細な夢をベットガーは磁器にみていた。


 磁器の創製は、一筋縄ではいかなかった。

 が、それゆえに錬金術師は、手を焼かせる姫君に夢中になっていった。

 そして、いつしか、届かぬ思いに恋焦がれ病みやつれた廃人となっていったのだった。



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