第一章 桜花乱満 PART9
9.
カツン。
「ようこそおいで下さいました。早速、湯を沸かしますので、お待ち下さいね」
故人の妻・
「いえいえ、お構いなく」
手を振るが、社交辞令でボタンを外していく。今日の疲れを残したままでは明日は生き抜けない気がする。
……また、来ちゃったな。
がらんとした大きな和室の中で、俺は今、茫然と立ち尽くしている。先ほどまで故人が眠っていた畳みの上で豪華な庭を眺めている。
昼間はあれだけの人数がいて活気があったのに、夜は驚くほど静かだ。部屋が一段と広く感じ、もの寂しささえ覚える。『
目の前にはライトアップされた綺麗な夜桜があった。桜前線も到達していないこの東京都で、俺は満開の桜を眺めている。
「湧きましたよ、ささ、お入り下さい。新品の下着をご用意しておりますので、そちらもお使い下さい」
「あ、ありがとうございます。それではお先に失礼します」
……ほんと、どういう状況だよ、これは。
豪華な檜風呂に浸かりながら事務所でのやり取りを思い出す。未だ全ての内容は把握していないが、俺は組の者ということで明日の告別式に立ち会うことになってしまった。
――あなたの力が必要なんです。
京子さんの真摯な眼差しに打たれ、俺は訳も聞かず了承してしまった。社長が必死に抗議を始めたが、彼女は責任を取るの一点ばりで引かなかった。
風呂から上がり電話を見ると、社長から着信履歴とメールが届いていた。
『う、羨ましくなんてないんだからね。お屋敷であんな美女と一夜を共にできるなんて』
……と、友達かっ!
心の中で社長に突っ込みを入れる。彼は今までに見たことのない人物像で、上司でありながらもユーモラスな面を見せてくれる。
兄貴というよりは親しい先輩、という感じだ。
『でも何かあったらすぐにいうんだよ。できる限りのことはするからね』
再び彼のメールを見て胸が熱くなっていく。人情味のある人だとは思っていたが、ここまで親身になってくれる彼に疑問を覚える。
……過去に何かあったのだろうか。
面接で兄貴の話をするまでもなく受かったので、俺の境遇を知るはずもない。きっと彼もまた、今までの経験からあれほどの器を築いていったのだろう。
……社長のことをもっと知りたいな。俺のことも話せる関係になりたいな。
3年間引き篭もっていた俺は今、猛烈に社長と話がしたい。きっと彼は話を聞いてくれるだろう。それだけでいい、相槌を打って聞いてくれれば、俺は誰よりも頑張ることができるだろう。
……人として認められる。それだけでこんなにも嬉しくなるなんて、忘れていた。
『大丈夫です。なるべく心配を掛けないよう務めさせて頂きます。でも嬉しいです、ありがとうございます』
メールを送信して着替えを済ませると、寝間着に着替えている京子さんがいた。
……う、綺麗だ。
艶やかな綺麗な髪が降ろされており、一段とまた若返ったような気がする。年を訊くのも憚られるような妖艶な美しさについ見とれてしまう。
「お食事は、本当によかったのですか?」
「ええ、先ほど事務所で頂きましたので。それにしても満開ですね、この桜」
「夫が用意して下さったんです。品種の違う桜を一足先に見れたら、思いが長続きするだろうといって……」
掛け軸の隣には、親方を含む全員でお花見をしている写真があった。雲行きが悪くあまり映えないが、皆、笑顔で楽しそうだ。
「それでお話というのは……」
まさかあっちじゃないよな、という期待を高めつつも義務的に答える。組の者は半分に分かれ、親方の番をするものと、近くのホテルに泊まっている。
つまり、ここには俺達二人しかいない。
「ええ、申しあげにくいのですが……」
ごくり、と唾の音が鳴る。恥じらう彼女に目が釘付けになり、このまま近づいていきたくなる。甘い香りの誘惑になすすべもなく、体が近づいていく。
「春田さんに、明日は私の子供、ということで立ち会って欲しいのです」
……は?
意味がわからずに茫然としていると、彼女は顔を真っ赤にしたまま告げ始めた。
「実は主人とは子供が作れずにいまして……組の者もそれを了承して受け入れて下さいました。ですが、彼と出会う前に私は、一度結婚していたのです。その時にも子供はいませんでしたが、その時にできた子という設定にして欲しいのです」
「……はぁ」
頷くと共にため息が漏れる。彼女の目的がわからない。
「薫さんには他に妾もいませんでしたので、身内がいないのです。ですから、こんなことを頼める人がおらず、恥を承知でお願いしています」
……ということは財産分与のためなのか?
だがそれもおかしいと思う。身内がいないのであれば、京子さんに全ての権利が与えられるはずだ。仮に子供がいたとしても、葬儀場に連れていくメリットはない。
「それは……なぜでしょうか?」
「夫の願いを……叶えるためです」
京子さんは満開の桜を眺めながら告げる。
「あなたに明日、立ち会って貰うのは夫の組を終わらせるために必要なことなんです。組を解散させることが薫さんの……最後の心残りだったんです」
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