第一章 桜花乱満 PART6

  6.



 ……えっ?



 周りを見渡すと、故人の妻以外が闘志を剥き出しにして睨み合っていた。どうやら席順で揉め合っているらしい。



 ……よ、幼稚園かよ、ここは。



 心の中で突っ込み社長を目で追うと、先ほどまで冷静だった顔が歪んでいる。


「しゃ、社長……」


「春田君、君は下に降りていた方がいい」


「で、でも……」


「もう少しでお坊さんも降りて来るだろう。さすがにお経中に騒ぐこともないしね。それまでは僕がここで抑えておくから」



 ……こ、この人達は助けてくれるんじゃなかったの?



 心の中で呟きながら階段へ向かうが、彼らに塞がれて通れない。


「す、すいません。ここを通りたいのですが、道を……」


「お前はどこの組のもんじゃあ!」


「え、ここの者ですが……」


「そうか、じゃあお前が決めい! 俺達とあっちのもんのどっちが親方の近くに座るか判断せい!」



 ……そ、そんな無茶苦茶な。



 社長に助けを求めようとするが、彼も他の組の者に囲まれて対応に追われていた。


 故人の奥さんだけが冷静にこの場を鎮めようとしている。だが誰もその声を聴こうとはしない。


「おい、お前。俺達はどこに座ればいいんじゃいッ!?」



 ……だ、誰か助けて。ああ、神様。



 やっぱりキリシタンになります。頭も丸めません、数珠じゃなくて十字架を握ります。日曜日にもできるだけお祈りに行きますから、どうか、命だけは――。


 

 祈りを捧げているとエレベーターの起動音が鳴り響いた。ドアが開くと、そこには神妙な顔をした夏川さんが立っていた。喧騒の中、彼女は眉一つ動かさず雪駄せったの音を軋ませながらゆっくりとホールに入ってくる。



 チリーン、チリーン。



 一定の間隔で鈴の音が鳴る。瞬き一つしない彼女はそのまま自らの席に鎮座すると、鈴を置き仏様に一礼した。



 ……美しい。



 凛とした姿で振る舞う夏川さんに畏怖の念を覚える。先ほどまで鮮やかに笑っていた彼女が嘘のようだ。


 一つ一つの騒動が跡形もなく消えていく。今、この場を支配しているのは彼女だけだ。



「それでは橘薫さんの通夜を始めさせて頂きます。弔う方々は席にお座りくださいませ」



 派遣の司会さんが声を上げると、弔う方々は席に座り始めていく。先ほどいがみ合っていた者たちが隣り合い、厳粛な態度で故人へと思いを注いでいる。



 ……ついに始まった。



 落ち着きを取り戻しながらも、彼女の動きから目を離せない。透き通った声から唱えられる念仏は今まで聴いてきたものを忘れさせるほど、清らかで心地いいメロディだった。


 彼女の祈りがホールを震撼させて流れていく。弔い客は握っていた拳を解き、両手を合わせる者もいれば、ただ黙って目を伏している者もいた。



 ……悔やみの言葉など、本当はいらないんだな。



 改めて葬儀場という空間を不思議に思いながら眺める。



 静かなホールに生花祭壇が組み込まれた時は田舎の風景を思い出し、


 故人を思う奥さんの涙を見た時には胸が締め付けられ、


 故人を思うが故に熱く滾る弔い客の気持ちには身を竦ませ、


 故人を弔う夏川さんのお経を聴いて再び静寂を覚えている。



 ……自分は今、一人の死に立ち会っている。



 そう思うだけで緩んだ気持ちが引き締まるのはなぜだろう。生きているということを実感させてくれるから? それとも本能?



 きっと、人は生きているということをしまっているのだ。兄貴に対しても死んでいなければ、ここまで考えることはなかった。



 人は生きていることが当たり前になり過ぎていて、止まることがない。止まった世界のことなど考えはしない。



 ……どうか安らかにこの夜をお過ごし下さい。



 胸の中で唱えると、夏川さんの読経は一礼と共に終わった。心の中ではまだ彼女の声を欲している自分がいた。

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