異邦
萩原伊沙楽 ⅩⅢ
俺はきっとこう考えていた。
本物の天才に俺の名前をつけたら、俺も天才になれるのではないだろうか。
そして、この名前が呼ばれるたび、街で見かけるたび、自分が天才だと勘違いできるのではないだろうか、と。
奴の本を本屋で見かけ
まことしやかに囁かれる噂
そして隣にいる人間
「なんて、愚かな」
紙の渦の中心で呟く。首筋に隙間風があたる。
原因ははっきりしている。
あの部屋でピアノを聴くのが嫌いになってから、あの照明を落とした部屋で夏のさざめきと戦慄く葉ばかりの桜を見た時から、全ての起因が夏にあることは明白だった。いつだか奴と帰ったあの海の見える家から、逃げ出したかっただけなのに、俺はどうやら愚者と成り果てていただけだったらしい。
実に三十数年。
その年月をかけて気づいたのは自分が凡人以下の存在だったという事実だ。川沿いのベンチで鼻緒が切れた下駄を持ってからそれだけの年月が経ったというのに、自分の能力を過信し続けた。奴が作り出すものも全て自分のものにした。荻原伊沙楽が創るものは全て足元にも及ばないのに、天才と同列に扱った。
なんて
愚かしい。
夢ならば覚めて欲しくなかった。
このまま彷徨ってたかった。
夢と現実の曖昧な境目を、ずっと歩いていたかった。
だが、もうその時間は終わりを告げられた。それも自分によって。
ずっと見ていたいと願ったのは自分なのに、読み進めてはいけないとわかっていたはずなのに。
「なんて…」
立ち上がり、そして玄関に行く。下駄を履いて、外に出て、そして、横を見た。思い描いていた人物はいない。だけれどよくよく見知った男がそこにいる。
相も変わらずステッキにシルクハット姿の佐々木が立っていた。
彼は一瞬驚いた顔をして、それでもやっぱり納得したように俯く。
一歩踏み出して、駆け寄って、抱きしめられた。俺は紙を落とす。その時初めて原稿を持ったままだったことに気が付いた。足元に散らばるそれは風にほんの少し身を任せていた。
そんなものに目を向けている間、佐々木は嗚咽を漏らしていた。初めてだった。誰かの鳴き声をこんなに近くで聞くことは。だからかやんわりと両腕を広げて抱き返す。何故便りを出さなんだ、と。いつ帰ってきたのだ、と。喉から溢れてしまったかのような声には答えない。そんなことはどうだってよかった。
だってそんなこと、どうだっていいんだ。
「お前は…知っていたのか」
荻原の名前が違ったこと。
幾度も幾度も俺はお前たちの前でやつのことを萩原と呼んでいて、否という答えが返ってこないことを知っているのに、聞いてしまう。俺の頭は生まれて初めて混乱している。あの人に見限られたときだってこんなことにはならなかったのに。
佐々木は色を亡くした顔を俺に見せた。
細やかに造られたその顔、いつも憎まれ口をたたく癖に夢を実現してしまう薄い唇、震えていた。大局を見据え世界を捉える鳶色の目は俺を見据えていた。
まさか、予想外の問いだったのだろう。
だがな、考えてもみろ。
こんな幻想が今まで保てていたことのほうがおかしいんだ。自分を見失う幻なんて、いつか壊れるに決まっているだろう。だから佐々木、そんな憐れんだ目で見ないで。
か細い声はかろうじて喧騒に消えない。思っていた答えとは違ったが、論点はずれていなかった。
「どうしてだと?そんなこと…この家で、奴のうたを読んだからだよ」
「香堂には会ったのか」
「まさか。もう七、八年も会っていない…」
そういえば、と、思い出す。
あいつはよく着物を着ていて、そのお古をもらったなと。そしてなんの因果か今日来ているこの縹色の単はそれだ。得心がいくところがあるのも事実だ。何故、この家に寄ろうと思ってしまったのか、少しわかっていなかったのだ…
佐々木は俺の肩に置く手に力を入れたまま俯く。
ぼんやりとした虚構、とでも言おうか。奴を真似して詩的な表現を使ってみようか。この何とも言えない再会を天才ならどのように表現するのか知りたい。俺にはできないような言葉使いで、耳朶を這う舌のようにゆっくりと肺腑に染み込むのだろう。
あいつなら、この、どうしようもなく虚しい再会を表現してくれるのだろう。
俺のために泣いている友人の、涙を拭くふりすらできない人間の、ことを。
「荻原。おかえり」
この男はこんなにも笑うのが下手だっただろうか。確認する前に笑みは消える。
それからどのくらい時間がたったのか、あまり定かではない。
ただ佐々木がいつの間にかいなくなっていたことだけが確か。
手には連絡先が書かれた紙があったから、多分それを置いて行って帰ったのだろう。そこには簡単だが、手紙が添えられていた。
申し訳なかった。
もっと早くに正すべきだった。お前のためを思うなら。
ただ、正すことが為すべきことなのかわからなかった。
俺たちは若かった。
あの時、お前を正すことで壊してしまうなら。
いっそこのままがいいんじゃないかと。
考えた。
奴には俺のなにもかもを話してあった。どうして俺の中に柔んだ夏ができたのか、奴にだけは話せたから…きっと、疲れてしまったんだろう。あいつもあいつで、自分の夏に片をつけなければならなかったのに、俺の夏まで知ってしまったから。
優しい彼は友人を捨てられなかった。
あの詩にしたためる程度で終わらせたのだ。
どうにかしようとしてくれたのだ。でも疲れてしまったから、佐々木や江里崎にも話したのだろう。だからこの手紙の内容がある。
ああ、結局、エゴに巻き込んだだけ。
帰ろう。
もう、帰ろう。
今日は疲れてしまったから。
帰るところがあるのかは、覚えていないが。
妻が待っている家はどこにあるのか、覚えていないのだけれど。
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