萩原伊沙楽 Ⅻ




 そう、この古びた匂いが、落ち着く。

 古い造りの割に頑丈だといつだか教えてくれた。確かに上を見れば梁は太い。


 ここに来るのは初めてだ。呼び出されてきたのだ。何事かと問えばとにかく来いと一言のみ。いつもこうだ、強引で仕方がない。

 ふと、振り返る。


 土足で踏み込んできた割に扱いは丁寧だった、と。

 決して、俺から萩原に踏み込んだわけではない。奴が、荻原が、向こうから、あちらから彼奴からあれから彼から伊沙楽から。

 同じ風景が続くあの街で俺を見初めたのは荻原伊沙楽からだった。雑踏の中ただ、ひた、とこちらを向いて縮緬を差し出したのは、


「ぼくではない」


 一言。

 螺鈿の煙管を吹かしながら、右手で猫を撫でながらの言葉は嘘のように耳をつんざく。



「自分で言っておいて…そう、妙だよね。鼻緒の代わりにと布をあげたのは確かに僕だ。でも、ぼくではないよ。君はこのなぞなぞが解けるかい」

「何を言っている。夏はまだもう少し先だ」

「だからこそだ。まだ正気のうちにはっきりさせておこう、そういうことさ」



 そういうこととはつまりどういうことだろう。

 何をはっきりとさせる必要がある?お前が手を差し伸べてきたのだろう。いつも1人でいて、何を考えているのか分からないと誰も寄ってこない俺に、初めて目を向けたのは、お前だろう?それ以外の事実はどこにも存在していないのだ。たったこれだけのことなのだ。


 …それなのに


 お前は半ば諦めたような目をこちらに向ける。まるであの夏の時のよう。

 まだ耳に蝉の声は届いていない。



「君は僕の名前が言えるかな」



 雑踏の音。

 暖簾と引き戸が揺れるの音。

 それに混じっているのは俺の声。

 しかし、まるで喉が枯れ気になったかのようだった。喉が裂けそうだった。この一瞬で水分という水分がなくなってしまって、咽頭はその役割をきちんと果たせない。それでも俺は答えを持っていたから、無言は、この場合、否定になってしまえるから、乾いた音を作るしかない。



だろう」



 そして見てしまうのだ。

 その長い睫毛が震え濡れるところを。

 陶器とガラスが混じった彼は目を伏せざるを得ず、また、煙管を吹かざるを得ない。長い長い紫煙と沈黙は呼応する。だが長いと思ったのは俺だけのようで、彼は一度ゆっくりと呼吸をしただけの、刹那だった。

 煙が消えると同時に彼は目蓋を開け俺ではなく磨り硝子を見据える。なぜか、その時確信してしまって、もう二度とこちらを見ないのだろうなという、ひどく不安定な確信が自分の中に生まれてしまった。

 思えば、いつからか。

 俺は彼と眼を合わせることが減っていた。あの列車のコンパートメントの時のように密に接することも、なくなっていた。それどころか会う回数さえ。

 そして俺はその現実に今気がついたのだ。


 …おかしい、のだろうか。


 大学を卒業して、幾分か経った。

 佐々木は傘下の会社に入社し、江里崎は多くの花器や伝書と共に疎開、俺は本家の人間から言われるがまま妻を娶り、この男はやはり本家の手伝いとしてこの古物店店主になった。

 だからと言って全ての繋がりが希薄になったわけではない。もちろん月に数度は会っていたのだ。年に一度は、疎開中の佐々木を除き、三人で集まり数日を共に過ごした。


 彼と二人だけというのも随分あった。何せ家は近所と言って差し支えない。


 だと、言うのに。


 違和感は全くなかった。

 しかし今は、思い出す限り違和感だ。そしてこの空間も。

 言葉になろうとしない疑問符が頭をめぐる。考えているようで考えていない気分だ。だから、彼の隣に座る。



「……君は、確かに僕と同類だ。どうしたって悲しい方向にしか言葉を紡げないし、日々の細やかな幸福にさえ怯えるような人間だ。だけれどその分世界は美しく見えて鮮やかに見えている。滅びの美、とまでは言わないけれどね、泡沫、とでも言おうか。一歩踏み出すことに恐れをなす僕たちは遅れていくこと必至だ。だから世界をゆっくりと眺めることができる。それのせいでまた、傷つくことになるのだけれどね…こう言うあたり質の悪い自傷癖と言ってもいいかもしれない。僕たちはこれを」

「柔んだ夏、と、呼んでいた…」

「…座敷から眺める煌々とした庭、目の前に広がる無限のようにも感じられる明瞭な陰と畳。暑いからこそ眼を閉じて、眼を閉じたからこそ崩落するように眠りにつく。孤独と懐かしさ、望郷と幻影。僕たちの根源は柔んだ夏にあるんだと、いつだか話したね」



 頷く。



「だけど僕はこうも言ったはずだ。柔んだ夏は誰にでも来ると。つまり、こういう感性は僕たちだけのものではないと、いう、ことだよ」



 黙って、



「だから僕は天才ではない。君の望んだ天才ではない。そして所詮そんな僕と同じようになれないっていうことはつまり、君ももちろん天才ではない」



 黙って、



「君はいつも望んでいたね。天才になることを。そうして世間からそう言われている僕を羨み妬んだ。僕と君の間に何があるのか考えて考えて…結局わからなかったんだろう。それもそうだよ。僕たちに違いはない。ただ僕の方が世間に認められただけ…君は、そうでなかっただけ…天才かどうかは問題じゃない。社会が求めていた言葉が僕の言葉だっただけだ」



 黙って、



「いいかい、伊沙楽。僕の名前は皇。皇義京スメラギギケイだ」




 意味を考えた。

 この男が自分をどうして隣に置いていたのか。それはやはり、自分より下の存在を見て安心したかったから…


 憐れみを

 かけれる

 から。



「なぁ、荻原。俺の名前は何…」



 引き戸の音がした。耳元で暖簾がなく。

 目線は猫に移っているのを尻目に、俺は本家の人間に軍部の者がいることを思い出した。








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