慢心

荻原 伊沙楽 Ⅸ


 帰省先からそのまま大學へ行こうと言い出したのは他ならぬ荻原だった。

 彼は少ない暇をわざわざ潰して離れたこの家に来て、一日二日ばかりの滞在で満足し海が見えるからという理由だけで列車での帰宅を提案した。そしてトランクを持ったまま学び舎に行くのはなんとも忙しなくて良い、それにまるで満喫してきたようではないか。笑う彼に言われてしまっては俺は何も反論できない。


 あの古びた屋敷、緑の奥地にある洋館から駅まではそう遠くなく車で十分ほど。流れ行く街々はそこはかとない活気を見せているだけで面白みもへったくれもない。學校に行く以外で外出をあまりしなかったのだから心踊りそうなものだ。しかし今では一人で暮らし、一人で街を歩き、一人で家に帰るのが常になった。それにどう足掻いても食べ物を買いに行かねばならないし、學用品だって同じだ。外への憧れも喧騒に紛れる心地良さもとうの昔に消えた。


 だが今いる場所はそういった所だ。


 一等車両に乗り込むまでにどれほどの人とすれ違っただろう。洋服もあれば和服もある。ベルベットの座席に座ったとしても駅員が荷物を乗せに来る。コンパートメントの扉が閉まり前を見れば中々に端正な顔立ちをした詩人がいる。俺と違い、荻原は四六時中書生姿でいた。貧乏學生の格好と言ってしまえば身もふたもないが、そんな格好の男が一等車両に乗り込むのを見てつい目で追いかけてしまう人がいることに気づいているのだろうか。それとも彼らの目当てはその顔か。どちらにせよくだらないだろうという回答を出して背もたれに身を預けた。



 程なくして列車は動き出し、三十分も過ぎれば海が見えてくる。時刻はもうじき日が沈む頃で、橙の光を丁寧に反射している海面には幾叟かの船がいた。硝子の破片に浮かんでいるかのような様は嫌でも郷里を思い出させ、揺れる定期的な音も眼を末期にするのには事足りた。その時にやっと気づいたのだが、列車が目的の駅に着く頃には日は沈み切っている。もとから大學に行く気などこの人はなかったのだ。


 列車に乗った時から寸分違わない格好で本に目を落としている。

 いつも被っている帽子は、今は傍らにあり窓から入る橙の光に照られていた。それも含み一枚の絵として完成しているような荻原は取り憑かれたように本を読んでいる。辛うじて見える表紙には聞き覚えのない作者の名が書かれてあった。


 …何故


 わからないことが、ある。

 何故この友人は俺が近くにいることを許すのだろうか。何故時折「同じだ」と呟くのだろうか。そして悲しい目を俺に向けるのだろうか。


 俺は何も持っていない。あるとすれば他の人間よりほんの少しだけ恵まれた文字を扱う能力。物事を機微に感じ取る能力。顔も体躯もそれ以外も、どこを取っても平々凡々な俺を、どうして友だと認めてくれたのだろう。あまつさえ、同じ、とは…


 荻原、と無意味に名を呼んでみた。本当に無意味でただの破裂音のようなもので、自分でもよくわかっていない。だが、何故か名を呼ばなければいけない気がした、ような気もする…。

 多分、覚えているのだろう、俺の脳は。荻原の名を呼ぶことで充足感のような何かを得ることを。そしてこれは返答が確実であることと同義だ。この呼び掛けに答えを返してくれていること、それがどれほど重要かなんて全く理解していないのに俺は無意義に消費してしまう。


 荻原は端整な顔を本からこちらに向けた。切れ長の目はすっぱりと世界を切ってしまいそうだ。瞬きで目線の先にいる俺の喉を、そしてそこから滴る血を思い浮かべる。俺でなくそれが荻原だったならどれだけ綺麗なのだろう。



「どうした。今日は一段と暖かいからな…調子が悪いのか」

「いいや。大丈夫。」



 そうか、と一瞥。

 お前は暖かいのが苦手だから。

 温い窓辺は恨めしいだろう。

 今時分は特に、苦手だろう。


 ——いっそ羨ましいほどの春の陽気


 笑みの上に貼り付けたような言葉たち。全て俺に向けられていた。俺だけにそうあるのは心地が良い。

 荻原は本を閉じて俺の頬に手を添えた。そして流れるように右腕に行き、関節のあたりを撫でる。幾度も繰り返されるその動きは着物の下にあるものを知っているからだ。



「冬は開けてしまったなぁ。荻原。もうしばらくはあの美しい凍てつく息も、音もなく積もる雪を見ることは叶わなんだ。だが、大丈夫だろう、僕たちが出会ったあの季節に戻るだけさ」

「だが、それも過ぎれば俺は」

「ああ、僕たち二人で死にかけるだけだろう」



 少し腰を浮かせ前のめりになる。自然、顔は近くなった。彼の目は密度の濃い睫毛で縁取られているのがよくわかるほどに近い。



「そうしてまた冬が来て、二人とも生を得る。呼吸を得る。肺腑に氷を染み込ませるんだ。足の速い夕闇に急ぐ流れに逆らって僕たちは街に繰り出すのさ。古い建物のガラス窓に追われ、明滅する電柱を恐れて、雪を踏む。聞こえるのは自分の息遣いとさくさくという足音。それに君の鼻歌。そういう冬がまた来る」



 眼前を薄い唇が通り過ぎて、感触は額に感じられた。欧米の親しいもの同士がするというこの動作は俺には馴染みがない。よく海外に行く佐々木は外国語の教師としていたが。


 ——ああ、音がするんだ。萩原。


 これは鈴の音だろうか。何かの声だろうか。


 目線を窓の向こうに変えた。そこには相変わらず船がいて海がある。見慣れた海だ。幼い頃から見てきた海がそこにある。けれどまるで別物のようだ。共にいるのが萩原というだけで、こんなにも景色は変わってしまうのだ。

 このことを言ったら喜んでくれるだろうか。


 貴方のおかげで世界が変わりました。


 荻原はゆっくりと体勢を戻して、今度は右手を握る。まるで安心しろと言っているかのようで、いっそ母親の温もりさえ感じた。

 だがこの、男に限ってそれはない。断じてない。この男に優しさなんて微塵もない。



 あるのは自分を生かすことしか考えていないその脳髄



 ああ、荻原、見えているお前のことなんぞ。

 お前は自分が”そう”あることしか望まない。そのためならば如何なる事もすると。

 俺はその為の餌なんだろう?


 ——だが


 恍惚を覚える。

萩原伊沙楽天才”が必要とする自分は一体どれだけ天才なのだろうか、と。








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