良き時代
荻原伊沙楽 VII
夏が嫌いだった。
他に嫌いなものがないくらいに嫌いだった。
春も、少しだけ嫌いだ。夏の匂いを連れてくるし、少々草木の芽吹きがうるさくて。騒ぐ声が聞こえてしまうのだから、そしてそれは塞いでも塞いだ手を透過してきてしまうのだから、もう諦めて嫌いになるしかないと悟った。秋は少しだけ好きだ。徐々に息を潜めていく音がする。手の中でか細くなっていく様を見るのはちょっとだけ、あちら側に連れて行ってくれるし。
恋しくて恋しくて、仕方がなくなるのが、冬で、だからか、柔んだ夏になれないのが冬だった。
縁側で、少し薄着をしていた。
雪の降る日だったから、音がなくて、体の温度と外気の差が心地いい。ゆっくりと柱にもたれかかったのを皮切りに睡魔が襲ってきた。
その向こうに
今年は一等綺麗に咲いた…戦前はもっと赤が弱かったけれど、辺りに孤児やら何やらが住み着いたり、治安が悪くなって土が血を吸いやすくなったからなのか…
本当のところは俺も知らないし誰もわからないのだろう。花は花だ。咲こうが散ろうが実態を変えることはない。
……。
戦争が終わって幾年かが過ぎたはずなのに江里咲の他にこの家に来る人がいなくなってしまった。
「ねぇ、江里咲、」
「どうしたのです」
いつものとても優しい口調で僕の問いに答えてくれた。彼だけが戦争に行かなかった。片腕のない人間を欲しがる戦場なんて古今東西探したってないだろう。まぁでも、最後の方は必要としていたかもしれないね。それくらい酷かった。
江里咲が僕の方を見る。使っていた膝掛けを貸してくれて僕は受け取る。彼らしく、細やかな花柄のもので、きっと恐ろしく高い。だって髙島屋のウインドウにありそうなんだ。
「彼は、どこにいってしまったのか。私も知りませんよ。もちろん佐々木もね」
皆を聞く前にわかってしまうあたり、さすが何年もつるんできた仲間だ。戦況が苛烈を極めるまでずっと一緒にいたのだから当たり前…ではなかろう。
「佐々木はどうして来ないのか知っているかい」
「佐々木が来ない理由はひとえに家が多忙だからです。彼は財閥の嫡男ですから」
なのにアルバイトをするような酔狂な人間。でなければ気が合わなかっただろう。富豪の嫡子ではないかのような気質が彼の唯一の取り柄だったのだ。
聞けば佐々木の家は全焼こそ免れたがゆえ、政府と仲が良かったものだから米軍とのやりとりで忙しいらしい。焼けなかったからこそ重要書類が家にわんさかあって始末に困っているとか。江里咲はそう言って「難儀ですね」と一言付け加える。
江里咲は、と問うてみる。すれば優しい笑みが返ってきた。何も聞くなと、そういうことだろう。しかし君の家も華道の大家だ。きっとすぐに復興できるさ。
あぁ、困った。
僕と彼だけが暗闇に惑うことになりそうで。
「貴方も大丈夫です。貴方はペンと紙があればやっていけるじゃないですか。私のように花と花器が必要なわけでもなく、佐々木のように全てに制約を持っているわけではない。貴方ならすぐにその才能で」
「駄目だよ江里咲。だって僕は彼の名前すらわからないんだ」
大學に通っていた時。
川沿いのベンチで困っていた彼を見つけた時。
あの眼を見たとき。
やっと見つけることができたんだ。
僕とおんなじ病を抱える人を。
どうしたって哀しく思えてしまう日々を憎む癖に愛している人。
「あのね、江里咲。僕に才能なんてないんだよ。でも、それでも、僕は叫ぶことができない代わりに文字にすることができて、それがたまたま世間に認められて、天才って言われて、ずっと一人で笑うしかなかったのに、ねぇ、僕に見える世界はみんなにも見える世界なんだよ。唄いたいことがたまたま文字にすることができただけで。それが、本になっただけなんだ」
僕にはできたけれど彼にはできなかったこと。
僕は世間がなんとか認めてくれたから自我を保てたけれど、彼はそうじゃなかった。僕とおんなじなのに、彼は文字にすることすらできなかった。だから”才能”を探し続けることで自我を保とうとした。
それがあんまりにも悲しすぎた。
彼のところにも赤紙が来たと聞いた時には行かないでと泣いてすがった。今度は戦争という行為に”才能”を探してしまうのではと思ってしまったからだ。
僕は彼がいないと駄目なのに。
僕がもう一人いることで安心して寝ることができるのに。
でも彼は行ってしまった。
そして帰ってこない。
帰ってきたのは彼が気まぐれに拾ってきた猫だけ。
「江里咲」
頬が冷たい。
「彼は、なんていう名前だっけ」
乾燥で唇が割れた。
「伊沙楽、ですよ。
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