第13話 ハインリッヒの法則

 ここはある企業の朝会場。社長が壇上でスピーチを述べる。

 「わが社の諸君、おはよう・・・」

 その言葉に、そこに居並ぶ誰もが一様に軽く頭を下げる。


 社員の中には紺色のスーツを着こなした男性と、グレーの制服姿の女性達が最前列に陣取り、その後ろにはオレンジの作業着を着た者や灰色のつなぎに身を包んだ如何にも作業員らしき者達が並んでいる。


 何を隠そうこの企業、ここ数年の間で急激に頭角を現してきた『格安航空会社』なのである。

 『格安運賃のためならば、多少のサービスはごめんなさい!』を売り言葉に、若者層をターゲットとした展開を繰り広げてきた。


 「今日は諸君らに良い知らせがある」

 そう言う社長の横には一人の従業員が立っている。

 「彼も今日から、また仕事場に復帰することになった。怪我の後遺症こういしょうも、どうやら対したことがないと言うことだ」

 従業員の男は皆に向かってペコリと頭を上げると、はにかむようにと笑う。


 実はこの男、作業場での仕事中、置いてあった台車に足を取られてしまい転びそうになった。慌てて手を着いたもののその先には工具が出しっぱなしになっており、それで指を怪我してしまったというのである。

 幸い指先を何針かっただけで、神経傷害には至らなかったという。


 「どうもご迷惑をおかけしました。皆さん、くれぐれも足下には注意しましょう」

 そう言って皆の笑いをとった男は社長から握手を求められると、痛くない方の手をそっと差し出した。

 

 司会の常務が言葉を挟む。

 「たまにこういうおっちょこちょいが怪我をするが、君たちも気を付けるんだぞ!」

 またまた会場が笑いに包まれる。


 再び常務が社長の方を振り返る。気を取り直したかのように、彼はまたスピーチを続けた。

 「我が社もこの五年間、大きな事故もなく会社経営も段々と軌道に乗ってきた。まあ多少着陸時のオーバーランや燃料がギリギリだったこともあるが、何とかここまでは運良くやってこれたのも事実である。これもひとえに諸君らの努力のたまものだと思っている」


 会場ではにわかに拍手がわき起こる。

 「この間、残念ながら軽い怪我をした者が・・・ 常務、何人ぐらいだったかな?・・・」

 社長は司会の常務に問いかける。


 「5年間で28名・・・ いえ、先程の彼を入れると29名で御座います」

 即座に返答する常務にも、パラパラと数名が拍手を送る。


 社長はひとつ頷くと、壇上で一際大きな声を張り上げる。

 「そこでだ、諸君らの功績に報いるため、我が社は来週より1週間、社員全員で南の島へバカンスに行きたいと思う。もちろん、航空費、宿泊代などはすべて会社側負担とするので安心してくれ!」

 場内は割れんばかりの拍手と歓声に包まれる。


 あの紺色のスーツを着たパイロットや、グレーの制服をまとったCA(キャビンアテンダント)もその顔に満面の笑みをたたえている。

 様々な部門の作業員達も、手に着いた機械油を拭おうともせずに互いに握手を交わしている。


 スピーチを終えた社長は、満足そうに縁台から降りようとした。

 最後の一段を踏み終えたとき、急に横へとつまずきそうになった。慌てて専務と常務とが抱きかかえる。


 「如何なされましたか、社長?・・・」

 専務の言葉に、足元を振り返る社長。

 

 そこには、小さな落ちていた。


 「何でこんなところにボルトが?・・・」


 彼の言葉にすかさず常務が合いの手を入れる。

 「いやあ、ヒヤッとしました。危うく足をくじくところでしたな・・・」

 専務が続く。 

 「それにしても、社長のはそうとうなもののようですな・・・」

 三人はそれを拾うこともなく、互いの顔を見合わせながら大笑いをする。



 (僕は行かないぞ・・・ 絶対来週からの旅行なんて・・・)

 そんな光景を見つめていた社員の中、一人の男が心の中で呟く。


 (格安運賃実現のためとか言って、少ない従業員に過密な労働条件を突きつける経営陣。そんな中、頻繁に感じているちょっとした危機感やこの不安感は何なんだ。もう数えればきりがないくらいだろう。その上軽い怪我をした者が30人近くもいるというじゃないか・・・)


 「だとしたら、あとこの会社に残っているのは・・・」

 

 男は振り返ると、格納庫に横たわる旅客機を心配そうに見つめた。



【ハインリッヒの法則】

 1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、そのまた背景には300もの異常が存在している。つまり企業においては、この300ものちょっとした異常(ヒヤリハット)を見落とさないようにすることが、重大事故を防ぐことにつながるのだと言うこと。

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