第22話 ピーク・エンドの法則

 私の夫の名は田渕定吉たぶちさだきち、どうしようもない男。

 歳は私よりもひとまわり上。その夫がこの春定年を迎える。正確に言うならば、自分で定年と決めたその年齢を迎えたということである。

 夫の職業は宮大工。この業界には基本、定年制は無い。しかし、彼はきっぱりともう仕事はしないと言い張る。

 

 そんな夫は、若い時からギャンブルやお酒にうつつを抜かし、浮気だって私が知っているだけでも一度や二度のことではない。

 

 私はこの40年間、ただの一度も夫と旅行というものに行ったことがない。ただの一度もである。

 もちろんそんな夫から、誕生日やクリスマスに贈り物などもらったことも私の記憶の中にはない。

 いつも、幸子さちこという私の名前ほど、現実と名前の意味とが食い違っている人はいないだろうと思っていたものである。


 

 そんな夫と先日、街の「ものづくりイベント」に行ってきた。渋々私の後からついて来る夫と、陶芸体験なるものに参加してきたのである。

 実のところ、定年を迎えた後の夫の事を考えると、少しは世間一般でいう人付き合いというものも知ってほしいと、私が秘かに申し込んでいたのである。


 眼の前に、粘土が渡される。それをろくろの上にと置いて、手びねりで作っていく。

 粘土をこねるのもあたふたしている私をよそに、元来ものづくりには興味があるのだろうか、夫は思った以上に真剣な眼差しでそれに向き合っている。


 「なんだ、粘土が余っているなら俺によこせ!」

 「あっ、それは・・・」

 私の言い分も聞かず、夫は横に置いていた粘土をつかみ取ると、またせっせとろくろを回し始めた。



 一月後、作品が仕上がって来た。

 それは、私たちが形作ったものを素焼きしたの後、好みの釉薬ゆうやくをかけて本焼結してくれたものである。

 私のは、小さなお皿が一枚。二枚目をと思ったが、その前にと夫に粘土を取られてしまったからだ。


 夫は自分で作ったものを箱の中から取り出すと、そのひとつを私の前へと置いた。

 「湯のみだ。俺とおそろいのを作ってみた」

 

 お世辞にもそれが、夫婦めおと湯のみといえるほど形が揃っているわけではなかったものの、薄い桜色の釉薬が掛けられた私のそれは、夫の物より少しだけ小さく作られていた。


 「いつも、苦労をかけて来たからな・・・」

 照れ臭そうに、夫はそう付け加えた。



 それから数日後、何の前触れもなく、夫は交通事故でこの世を去ってしまった。反対車線から飛び出してきたトラックにどうする事もかなわず、警察からはほぼ即死であったということだけが伝えられた。


 葬式の日、私の親戚の中には夫に対して心無い言葉を浴びせる者もいた。もちろんそれは、今まで苦労して来た私に気を掛けてのことでもある。

 「これで、幸子さんもやっと自由になれるんだから・・・」

 「苦労させてきた罰が当たったんじゃろう・・・」


 その度に、私は静かに首を横に振る。

 「いいえ、わたしには最高の夫でしたよ・・・」


 笑顔で答える私の手の中には、あの湯飲みがひとつ握られていた・・・


 

【ピーク・エンドの法則】

人間は過去の経験を、そのピーク時に楽しかったか、あるいは悲しかったか、その結末がどのように終わった(エンド)かで判断するという法則。例えば、昔付き合っていた彼氏(彼女)のことを思い出すとき、真っ先に思い浮かぶのは、その相手のとの「最も良かったときのこと」か「最も悲しかったときのこと」を想像する人が非常に多いということ。

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