第九章 『異なる分岐点』
第九章 その一
昭和二十八年六月三日。
私はいつものように書斎で仕事をしていた。娘たちは雪子と遊んでいる。セツも一緒に相手をしていてくれるからという理由で安心していた。その時・・・
「旦那様・・・セツにございます。」
ノックと共に声が聞こえる。
「なんだい?何か用かな?」
仕事の手を休めずに声だけで返事をする。
「中に失礼してよろしいでしょうか。」
セツはとてもできた女性である。立場をわきまえた行動がとれ、しかも賢い。私はセツに信を置いていた。
「うん、構わないよ。」
私の返事を聞いたのち「失礼いたします。」と恭しく頭を下げながらセツが書斎に入ってきた。
「どうしたんだい?」
私はチラッとセツに視線を送り、再び机上の書類に手を付け始める。
「はい、旦那様。申し上げたきことがございます。」
セツがこう言った物言いをするのは珍しい。休暇でも欲しいのだろうか。
「わかった、少しだけそこで待っていてくれ。今は手が離せないんだ。」
「かしこまりました。」
それから何分経っただろうか。ようやく一区切りがつき、セツの方に目線を送る。
「すまないね。それで話というのは何だろうか?」
ペンを置き、セツの目を見ながら問いかける。
「はい。お忙しいところ申し訳ございません。しかし、お伝えしたいことがございまして。」
セツは言葉を選びながら話しているように見える。
「なんだろう?」
いつもの彼女とは違う様子に戸惑いを覚えながらも平静を装い尋ねる。
「雪子とお嬢様が外に出かけております。散歩と申しておりました。」
「そうか。」
「はい。愛お嬢様と舞お嬢様のお二人とも雪子とお出かけにございます。」
「うん。」
どうにも要領を得ない。何を伝えたいのだろう。
「お嬢様方がお出かけになられてから、しばし時間がたっております。」
「どのくらいだ?」
私にとっての当然の質問を返す。
「およそ二時間にございます。」
二時間。少し長いな。娘たちはまだ三歳だ。そう長いこと歩けるような年齢ではない。
「外で昼寝でもしているのではないか?」
時間は十一時。雪子は若いが気の利く娘だ。娘たちにも好かれている。菓子などを持って出かけたのだろう。
「ですか、心配な点がございます。」
セツの顔には後悔の表情が浮かんでいる。「うん?」と言って先を促す。
「雪子は村長と何やら話をしていたのでございます。」
それを聞いて直感的に立ち上がる。
「村長と?何の話だ?」
セツを問い詰めるようにきつい口調で問う。
「・・・わたくしにはわかりません・・・雪子に問いただしても話しませんので・・・」
嫌な予感がする。セツは我が家で四十年以上勤めてきた高無家のすべてを知っていると言っても過言ではない女性だ。そんな彼女に話せない内容と言えば、あのことしか考えられない。
「まさか・・・」
「いえ、わたくしも違うとは思いたいのですが・・・雪子は奥様の遠縁の者。まさかとは思いますが。」
「どうして出かけるのを止めなかった?」
机を両手で叩き、セツを問い詰める。
「申し訳ございません。雪子はただ、一人で買い物に行くはずだったのでございますが、お嬢様たちがどうしてもついて行くとおっしゃいまして・・・わたくしもお止めはしたのですが。」
深々と頭を下げ謝罪する。
「謝らなくてもいい。三人が行きそうなところはわかるか?」
そう言いながら、私はセツの返事を聞く前に部屋を飛び出していた。
「お社の方に向かったと思いますっ。」
セツの悲痛な声が後ろから聞こえた。
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